◆九月十三日 午後八時二十三分――室月中学校 正門前
夜の学校……それはどうしてこんなにも不気味であるのだろうか?
暗闇にそびえるその大げさな体躯は、物言わず昼間と同じように鎮座しているというのに……
静まりかえる校庭は、どんなに小さな物音一つでも容赦なく木霊するような気がした。
だが――そんなことに怯えてなんていられない――――
亥の刻を過ぎ、家を出た時刻は既に二十二時を回っていた。流石にこの時刻の学校で一般教室に光が灯る事はありえない。
だから、夜の校舎に一つ明星の如く其の存在を示しているあの光は、そこに”何かが居る”という確固たる証明だった。
不意にユラリと光の射す窓辺に人影が写る――その影を目にして、僕は感じた嫌な予感が現実の物になった事を理解した。
――でも、やっと、見つけた!!
僕は動き出す――――
足に強引に力を送り、身の丈以上の校門を一息に飛び越える――ギシリと、何かが軋む音がした。
着地と同時に、今まで以上の速さで木製のアーチを潜り抜ける――ギシリと、何かが軋む音がした。
そっと振り向きアーチを盗み見た、書かれているのは「ようこそ、白聖祭へ!」というポップ体の文字――ギシリと、ナニカガ軋む音がした。
とにかく速く、僕は勢いそのまま校舎へと疾走する――ギシリと、ナニカガキシムオトガシタ。
目指すは三階、光が灯るあの教室、今更ながらに気がついた。あれは僕の教室だと。
二十二時ともなれば当然のことながら、何処も彼処も施錠されていることだろう。一階からの進入は不可能。
もしかしたら、どこかに施錠漏れした窓の一つでもあるかもしれないが、それを探す時間すら惜しかった。
故に、僕は一瞬だけ目を閉じて、小さく、小さく、うわごとの様に呟いた。
――――痛感断絶――――
呟きは闇に虚しく吸い込まれた。唱えたのは呪文でもなんでもない、唯の自己暗示のための言の葉。
それでも、疾駆する其のスピードは相変わらず微塵も衰えてはいなかった、だから、当然内に響く軋りも続いている。
だが、それにもかかわらず、先ほどとは打って変わって伴う”痛み”は、否、体の感覚は概ね根こそぎ消えてなくなる。
こうなれば、跡に痛すぎるしっぺ返しが待っているのだが、それでも背に腹は変えられなかった。
目を開けば直ぐそこまで校舎の壁が迫っていた――――最早目前、今更スピードを落としても衝突は避けられない。
僕は”いつもの様に”感覚のなくなった己の足裏に、意識を集中した。
メキメキメキメキ!! と盛大に身体が軋みあがった。
僕はその音を聞きながら大きく跳躍、飛び上がり、校舎の壁を更に踏みしめた。
刹那、魔力の流れを支配し、足裏と、それに触れる壁との間に生じる力のベクトルを強引に捻じ曲げた。
力を逃がさず、生じる跳ね返ろうとするすべての力を真下へ向けながら再び跳躍。小さき影は更に上へと跳ね上がる。後はそれの繰り返し。
それはまるで通常地を駆けるかのように、物理法則を無視しながら、僕は校舎を駆け上がる――――
窓から零れる光は、見る見るうちに近くなる。
僕は意を決して、携える細い腕を顔の前でクロスさせながら、光のこぼれる窓へと突っ込んだ。
瞬間、耳を劈く硝子の炸裂音が響き渡る。
「っ?!」
突然の乱入者に、もともとその場にいた者たちは思わず息を飲み込んだ。
僕は勢いを殺しきれず、机と椅子を巻き込みながら、そのままごろごろと床を転がる事となった。
しばしの静寂――――沈黙が支配する教室の中、小さくよろめきながら、立ち上がる。
そして一拍――――
「――……全、なの? 何であんたが?」
呟きには、喜びと悲しみ、矛盾した二つの響きを帯びるている。
そしてそれはまたうめき声のようであった、否、実際うめき声なのだろう、声を発したその人物は今も腕から紅玉の雫を零しながら、地に伏した状態なのだから。
だが、そんな状態であったとしても、君は呻かずにはいられなかったのだろう。
窓を割ってはいって来た僕と言う人間を、一番心配してくれているのは恐らく君だから。
「――――――っっは! 誰が来たかと思えば、好都合だ! 好都合だよ! 霧生!!」
君に継いで言葉を発したのは、窓を割ってこの場に乱入した僕の姿を目にしたもう一人。
僕の目の前にいるこの人は、僕や床に伏している君とは随分と毛色が違った。
汚れ一つついていないブレザーを身に纏い、柔らかい印象を受けるブラウンの髪の毛に、それと同色の瞳の色。
端正な顔立ちの中に覗くそれらは、普段の彼を知る者ならば、さぞ理知的な印象を思い出させていたことだろう。
かくいうところそれは僕も、そして倒れている君も恐らくそう。
日ごろ目にしていた彼の印象は、まさしくもそれ。
だが、今の彼を目にすれば、否が応にも、その認識は改めさせられた。
改定の要素は数多。
それは眼だった――――強い光を宿しているそれ、あまりに自我の強すぎるそれは、最早”狂乱”といってしまっても別段間違いではないだろう。
それは口元だった――――そこに浮かぶ歪な湾曲は、微笑というにはあまりにもつり上がりすぎていた。
最たるは雰囲気だった――――彼の目に見えての歓喜の中に存在する、隠す気のみられぬ禍々しき気配、仰々しく呼ぶのならば”殺気”とでもいうのだろう。
地に伏せる君と、そんな様変わりしてしまった彼を見て、僕は思わず呟いてしまった。
「城嶋さん、なぜ、貴方がこんなことを――……」
僕は日ごろの彼を知っている――知っているからこその疑問。
日ごろの彼ならばこのような表情など絶対にしない、そもそも、このような行いをすることはない。
彼はいつも聡明で正しい、皆のお手本のような、そんな生徒会長で――
そうだ、この人の生徒会長選挙のときなど凄かった。
ほぼ満場一致、反対票などごく一部、あからさまに彼を目の敵にする者以外から出ることはなかった。
能力的にも精神的にもどう転んでも人の上に立つタイプ。
――僕自身彼の事をそんなふうに思っていた。
「貴方は何でも出来た。貴方は何でも知っていた。貴方のすることはみんな正しかった――――貴方は僕の憧れだった。だけど、今のあなたのこれは違うでしょう!」
思わず語尾に力を入れる。僕の、彼に対する万感こもったその言葉。
だが、それを耳にした瞬間、彼から狂喜の表情は剥がれ落ちた。
「――――よりによって、お前がそれを言うのか?」
「――え?」
静かな声には、冴え冴えとした。月光のような涼やかさがあった。
その声に僕は思わず聞き返してしまう。
「俺の本当に欲しい物を持っている――――そんなお前が」
僕から視線を外した彼は、床に伏した君を見る。
「もう、いい……もともと初めからその予定だったしな、霧生、悪いが、お前はここで倒れろ!」
それはあまりにも一方的だった。
なぜこのような状況になってしまったのか――少なくとも僕は、こうなってしまった原因のすべてを知っている訳ではない。
だが、知らずとて目の前には理不尽な暴力が迫っていた。
そう、どちらにしろ僕は覚悟を決めねばならなかったのだ。
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――――僕が明確に在り方を変えるに至った境界の夜はこうして幕を明けた。
だが、とりあえず閑話休題。
そろそろ、この冒頭へといたる話を初めよう。
この時から遡る事約二日、日常に狂いが生じ、狂乱の影が初めに覗いたのは、僅かそれだけ――前のことだった。