◆九月十二日 午後五時四分――――通学路
職員室を後にして、しばらく――
僕と一葉ちゃんは、並行しながら今朝も通った道のりを、まさに逆にトレースするように歩いていた。
とはいえ朝のように幼馴染に睨まれることも、頬をつままれることも、親友が上から降ってくることもない。
――ただただ二人で家路たどる、無言の歩み。
もともと僕は口下手で、あまり自分から話しかけることはない方だ。
今回のように一葉ちゃんと共に帰る時などは、たいてい一葉ちゃんが会話を切り出すことで、なし崩しに色々な話に発展してゆくのが基本なのだけれど――
……どうやら、今回はその基本は無しの方向らしい。
はっきり言ってしまえば、らしくなかった。
いったい一葉ちゃんはどうしたというのだろう?
先ほど職員室に顔を出した時もそう、いつもならば真っ直ぐ僕の顔を直視するはずなのに、伏せるように視線を逸らしていた。
怒っているわけではない、拗ねているわけでもない、言い表せないモヤモヤとした何か。
恐らく一葉ちゃんに何かがあったのだろうけど……あいにく僕は学校中を奔走していたわけで、その理由など知りはしないし、黙ったままでは知ることはできない。
僕は一度一葉ちゃんにばれない様に静かに大きく息を吸い、そして静かにゆっくり吐き出した。
これでよし、あまりこういう事は慣れていないけれど、いつも一緒にいる幼馴染のことだ。やっぱり気になる。
僕は思い切って悩みの理由を聞いてみるための決意を固め、伏し目がちであった視線を持ち上げ前を見た。
「ねぇ、一葉ちゃ――――ん?」
だが、意を決し声をかけようと顔をあげた僕の目は、隣を歩く一葉ちゃんを捉える前に、目の前の光景に固定された。
一葉ちゃんもそれに気がついたのだろう、僕とほとんど一緒のタイミングで歩調が速くなったのがその証拠だった。
そんなわけで僕たち二人は、今しがた視界に捕らえたばかりの並木を、そしてそれを見上げ今にも泣きだしそうな女の子 (推定だが小学校低学年程度)のそばへと歩みよる。
「ねぇあなた、どうかしたの?」
近づいた折、真っ先に声をかけたのは一葉ちゃんの方だった。
一葉ちゃんはその女の子となるべく視線を合わせるようにして軽く屈んでみせる。
女の子の方はというと、突然話しかけてきた僕たち二人に軽く驚きながら、恐る恐るという感じで口を開いた。
「ひっく……えっとね、ヘルがね、あ、あそこらか降りられないみたいなの」
女の子は込み上げてくる涙を溢さないように一生懸命に我慢して、戸惑いがちに”あそこ”を指差した。
女の子が言う”ヘル”とやらは何なのかわからない僕たちは、とりあえずその指さされた方向へと視線を向けた。
そして僕も一葉ちゃんも数秒、沈黙する。
「…………ねえ、全」
「…………言いたいことは何となく分かるけど、何? 一葉ちゃん」
「…………もしかしなくても、あれって」
「…………うん、そうだね。多分だけど今朝のと同じ子なんじゃないかな?」
並木の木の枝、その先の方でか細い声で鳴いている子猫、瞳以外全身真っ黒な毛並みで覆われ、鍵尻尾の特徴的なその容姿は間違いなく今朝がた修司君が救出していたあの子猫だった。
何を思って再びこの並木に上ったのたか、勿論僕にはその子猫の心境など分かるはずもないため、なんとも言えないのだが……
……というかよく見渡してみれば、ここって今朝と同じ場所だし。
失敗から学ばないこの黒子猫に呆れてしまう。まぁ子供の身なら仕方のないことなのかもしれないけれど――
「――ああ! だめだよヘル!? そんなに先っちょに行ったら落っこっちゃうよ!?」
女の子は必死になって叫びを上げる、が、それは逆効果。
子猫は女の子の声に答えるように、震える足で必死になってその場から動こうとしているらしいが、逆にその行動が枝を揺らし子猫の身を危険に晒す事になってしまっている。
見ている僕もハラハラしてきてしまった。
何とか助けてあげたいが、生憎あの様子では僕があの場所までよじ登る頃には落下してしまう危険があるかもしれない。
僕の手のひらからの落下ならしっかりと受け身をとって見せた子猫だけれど、木と地面の高低差は実に三メートルほど、子猫の身には厳しい高さだ。
……仕方がない、か。
僕はさりげなく辺りを見渡してみた。
幸いなことに人影はなし――
「一葉ちゃん、悪いけど僕の鞄よろしくね」
「……ええ、気を付けて」
一葉ちゃんは僕の考えに気がついたのか、僕の差し出した鞄をしっかりと受け取ってくれた。
僕はというと一葉ちゃんの労いの言葉に軽く頷くと、子猫の登る並木から五歩分ほど後ろへ下る。
「――ぇ? え?」
僕たちの、というか僕の言動に戸惑う女の子、そんな彼女に一葉ちゃんは再び目線を合わせ、優しく諭しかける。
「――大丈夫よ。あなたのヘル君はちゃんと助けてあげるから。まあ見てて」
そう言われて不思議そうに僕の方を見る女の子、そんな女の子に僕は大丈夫という言葉の代わりに笑ってみせる。
……さて、それじゃあ、あの困った子猫を助けてあげようかな。
軽く目を閉じ呼吸を止める、魔力の操り流れを確かめる。
そして開眼、それと同時に、僕は勢いよく地面を蹴りだした。
両足に力を込め、一歩、二歩、三歩――――
僕の視界に移る並木は見る見る内に大きくなってゆき、ぶつかる寸前、並木へと足を裏を向け、幹を力いっぱい踏みしめた。
――タンッ、タンッ、タンッ!!
「――はわぁ……――」
後ろからは何やら感嘆の声が聞こえるが、集中!
僕は幹から離れそうになる体を、幹と足の裏にかかる力のベクトルを捻じ曲げることで何とか抑え込み、僕は幹を駆け上がった。
そして跳躍、飛ぶ寸前に子猫の場所を確かめておいたので方向に間違いはない。
僕の体は一時的に子猫の乗る枝へと急接近し――
――パシィ!!
伸ばした僕の手は確実に子猫の体を掴み、そして、着地。
「ふう、成功っと。はい、どーぞ」
そうして僕はなにやら呆けている女の子へとその黒猫を定した。
しばし固まっている女の子、だが、その顔は数秒後には光り輝かんばかりの笑顔を浮かべた。
「わ!? うわー!? 凄い凄いすごーい!! ありがとう!!」
女の子は僕の手から子猫を受け取ると、よほど嬉しいのか、全身で喜びを露わにするかのように飛び跳ねている。
「うん、どういたしまして、君も災難だったね」
言って僕は女の子の手の中にいる黒猫へと手を伸ばし、その顎をクシクシと撫でる。
黒猫は気持ちいいのか目を細めて大人しくしていた。
「もう、だめだよヘルモード、あなたいっつも高い所に登って降りられなくなるんだから」
なるほど、今の女の子の注意の仕方によると、この子猫が高い所に登るのは常習犯らしい、なんとも迷惑な話だ。
……それにしても、この子の名前『ヘルモード』っていうのか、なかなかどうして立派な名前だ。
確かヘルモードって言ったら北欧神話の主神オーディンの息子で、「勇気-戦い」って意味があったと思う。
これがもしこの女の子がつけた名前だとするなら、幼いながら、なかなかに博識だ。
「うん、それじゃああたしもう行くね、本当にありがとう――――」
女の子はというと、再び僕たちに向かってお礼を言い、少し大袈裟に頭を下げてきた。
すごく礼儀正しい子だと思う、少なくとも僕はこの女の子と同い年のときこれほどまでに、他人に礼を尽くした記憶はない。
僕はしみじみと、そんなことを心のうちで思っていた。
「――――ありがとうお姉ちゃん!! ちっちゃいお姉ちゃんも方も本当にありがとね!!」
――女の子の次の言葉を聞くまでは、だけど。
「…………」
「…………ぷぷ」
――ええぃ! 笑うな一葉ちゃん!!
とりあえず、何から突っ込めばいいのやら、本当に――
ちっちゃいという単語もそうだけど、一体これはどういう勘違いなんだろう……僕はちゃんと男物のブレザーを着ているというのに!!
僕はプッツンしそうになる思考を何とか抑え、女の子へと厳重に注意することにした。
「――あのね、違うから……僕は”お姉ちゃん”じゃなくて”お兄ちゃん”だから」
「ふぇ? そうなの、それじゃあバイバーイ、ちっちゃいお兄ちゃん」
「お、おおおおい、だから、ちょっとまってぇ、激しくまってぇ、とにかくまってぇーーー!?」
だが、女の子はというと僕の静止の言葉などもはや耳には届いていないようで、すたこらサッサと僕から遠ざかって行ってしまった。
あまりの衝撃に膝を折る僕。まさかこれほどの”衝撃”をあのような小さな女の子に与えられるとは思いもしていなかった。
「――なんだろう、なんだろう? この言いようのない敗北感は」
膝をついて涙する僕。ちなみに僕の幼馴染はというと吹き出しそうになるのを必死になって我慢しているようだった。
……人の気も知らないで!!
「ぷくく――まぁあれね。元気出しなさい、あの子だって悪気があったわけじゃないんだから」
「――悪気がないから余計に性質が悪いんだよ」
「ふふ、まあそうよね」
まるでからかう様な口調で話しかけてくる一葉ちゃんに、僕はというとのっそり立ち上がり、前を向く。
ひどい目にはあったけど、気がつけば一葉ちゃんはいつもの調子に戻っていた。
それだけは、まあ、幸いだと思う。
僕がそんなことを考えていると、一葉ちゃんは何やら茜色に染まる空を見上げ、何かを考えているような仕草を見せた。
だが、それも一瞬のこと、一葉ちゃんは何かを思いついたかのように僕へと視線を向け、嬉々として言う。
「ねえ全、これからちょっと寄り道して”あそこ”行ってみっよっか」
「――はぃ?」
唐突だった。その口ぶりはまるで一さんにそっくりである。
流石は親子といったところか。
かくいう僕は、そのあまりの唐突さに間抜けな声を出してしまっていた。