◆九月十二日 午後四時五十分―――室月中学校 特別教室棟 職員室
プリントの山が片付くと、時間はそろそろ下校の時間だった。
丁度いい時間帯――やる事もなくなったので、僕もそろそろ帰ろうかと思い、職員室を後にしようとしたのだけれど――
そんな僕に対し三谷先生が声をかけてきた。
「お~い霧生、お前この後は?」
「えっと、特に何もないんで帰ろうかと思ってますけど……」
「そうか、ならもう少し此処にいて茶でも飲んでいけ」
三谷先生は徐に立ち上がると、どこからともなく菓子鉢と急須、ついでに湯呑を二つ引っ張り出してきて、あっという間に急ごしらえのお茶の席を作ってしまった。
菓子鉢の中には黒白チェックのクッキーが並んでいる。
それはとてもおいしそうだと思うけど――
……だけど先生、今このクッキー来賓用って書かれた戸棚から出してきたましたけど。本当に食べていいんですか?
僕はそれなりに戸惑ったが、それでもせっかく先生が用意してくれた物だ。
だというのに、手をつけないのもどうかと思うので、とりあえずそのクッキーに手を伸ばすことにした。
摘みあげるのは、端が欠けて他よりも一回り小さいクッキー。
元々の大きさもそれほど大きなものでないらしく、それは本当に小さな一欠けらだった。
とりあえず一口でパクリ。
ムグムグと粗食する僕。
クッキー自体の味は美味しかった。
変に甘すぎることなくどことなく上品な口当たり。
これは僕の勝手な予想だが、結構な御値段の品物ではないだろうかと思う、さすが来賓用だ。
僕はその優しい甘さに、知らず知らずのうちに頬の筋肉を緩ませていた。
「ほふぅ――……」
……――っは!? いけないいけない、またやってしまった。
僕は小さく頭を振り、緩んだ頬を引き締める。
どうにも僕には、なんというか、甘いものを食べると顔面の筋肉がゆるんでしまうという癖があるらしく、無意識に今のような満足げな溜息を吐いてしまうことがあるらしい。
前にこれを母さんや一葉ちゃんの前で見せた時は、なぜか暴走した二人に、これでもかというくらい無理矢理に、口の中に甘味を詰め込まれ窒息しかけたことがあったりなかったり……まあ、苦い思い出だ。
結局それは、異変に気がついた父さんに助けられ大事には至らなかったのだが、二人には物凄い勢いで謝られ、そしてどういうわけか他の人(特に女の人)の前では甘味を口にするなとこれでもかというほど念を押された。
……きっと緩んだ僕の顔は、それほどまでにだらしないのだろう。
母さん達が呆気にとられたのも、きっと僕のそれがあまりにひどかったからに違いない。
だが、癖というものはそう簡単に治るものではないらしく、気を抜いているとどうしても今のように緩ませてしまうことがあるようなのだ。
うん……気をつけよう。
僕はそんなことを心の中で決意しながら、なんともなしに顔をあげた。
「…………」
「…………」
そんな僕と目があったのは三谷先生だった。
目が合ったままそのまま数秒。
三谷先生は呆然と僕の方を凝視しながら固まっている。
……あのー、先生? お茶っぱ急須に入れすぎなんじゃないですか? 茶葉があふれてますけど。
「いやまあ、その、なんだ……とりあえず気に入ったんなら何よりだわ」
先生は何事もなかったかのように茶葉を片付けると、急須を手に窓際に設置されている給湯機へと向かった。
ひとり残される僕――――
「もしかして……見られてた?」
無防備な、しかも変な顔を見られたというそのショックで、僕の頬が急激に熱を持つのを感じた。
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「それにして、あれだな、これはお前を強引に引きずってきた俺なんかが言えるセリフじゃないかもしれねえが――お前は少し頑張りすぎなんじゃねえか?」
三谷先生が給湯器より戻ってきて数秒、二人分の緑茶を用意してくれた先生から飛び出したのはそんな言葉だった。
僕は湯呑を受け取りとりあえず一口、程よい苦味で口直しをすると、再びほうっとため息を吐き出した。
それには今日一日の疲れの断片がこぼれ出たような錯覚を覚える。
「――そんなことはないと思いますけどね。というかどうしたんですか急に?」
「いやなぁ、こちとら一日中ちょこまかと走り回ってる少年の姿を見てるもんでな、そんなふうに考えちまうわけだ」
そう言われて僕は今日という日を思い返してみる。
そういえば何度か、三谷先生とは廊下ですれ違った記憶があるような無いような……
「それに霧生の場合今日に限った話じゃねぇ、この前だって坂下の日直当番変わってやってただろ、まあ霧生の場合どういうわけか日直当番をやる回数がとりわけ多いんけどな」
「坂下君ですよね……ええっと、確かに代わりを引き受けた記憶はありますけど」
「そんときお前、奴はなんて言ってきた?」
「別に、ただ、急ぎの用があるから変わってくれって話だったと思いますけど」
僕のその一言に三谷先生は呆れたように手を広げ溜息を一つ。
はて、僕は何かまずいことでもいったのだろうか?
「全く人がいいというか単純というか――いいか? あいつの急ぎの用ってのはなあ、『今日は新作のゲームソフトの発売日だから』ってのが理由だ。
俺も買いに行きたくてうずうずしてたからな、すぐにわかったぜ。勿論坂下の奴はその場で捕まえて説教してやったがな」
……あのあと教室出て行った坂下君が、でっかいたんこぶつくって僕に謝りに来たのはそういう理由だったのか。
僕は苦笑いを浮かべながら再びお茶を一口、口に含んだ。
「全くイエスマンも程々にしておけよ? ただでさえお前はちょこまかと動き回ってんだからな」
「ふふ、大丈夫ですよ。僕は自分に出来る限界ってやつを理解しているつもりですからね」
そう、僕はそれが分かってる、今でも自分のやるべきことをして、そこから手が空いて初めて、人から頼まれたことに手を付けるようにしている。
そもそも、僕は100%自分にできない事は頼まれても引き受けないだろう。
僕が手を貸すのは、やったことはないが、やれば出来るかも知れない、そう僕自身が思えることだけ。
確率なんてものは結局、最終的には100%か0%、出来るか出来ないかだけ、そしてそれ自身も手をつけてみて初めてわかることだ。
それに、”まずは自分の事が済んでから”、それさえ守っていれば僕自身が決めた”在り方”から外れることはないのだから。
だが、僕がそれを言った瞬間、三谷先生はズビシと僕を指さす。
「いや、お前の場合それが分かってるもんで、余計に性質悪くしてんだよ」
「――はい?」
「だからそれだ。霧生は自分の限界が分かっちまってるもんで、”その限界っていう範囲内の事柄”なら無理をしてでも引き受けちまうんだと俺は見るね」
「――――……」
僕は何も言い返せなかった。
……確かに、だ。そう言われるとそうなのかもしれない。
僕はお茶をすすりながら三谷先生を盗み見る。
――全くいつもはちゃらんぽらんな癖に、どうしてこの人はこうも的確に人格を見抜けるのだろう。
言動に問題はあるが、この人も立派な教師というわけだ。
僕は、密かに未だに僕に人差し指を突き立てている、この担任に感心した。
「――姿が見えないと思ったらこんなところにいたの」
と、感心していた僕に対し、背後からよく知る人物の声がかかった。
その声だけでその人物が誰なのかなど、僕には容易く想像できたが――とりあえず振り返って一言。
「今日は一緒に帰る約束はしてなかったと思うけど、どうしたの一葉ちゃん?」
「……別に、なんとなくね」
僕が振り返ると一葉ちゃんは少しだけ視線をそらした。
はて、一葉ちゃんにしてはらしくない態度だと思う。
――何かあったのだろうか?
「おう、水鳥。霧生借りてたわ。わりーね」
「いやいや、先生。お仕事お疲れ様です」
だが、そんな一葉ちゃんは態度を一転させて、仲良く三谷先生とぱちりと手を合わせたりしている。
「と、長話しちまった。ありがとな霧生。助かったわ。じゃ、俺は帰って酒でも飲むか。それこそ、まあ――」
「分相応に、ですか?」
「そうそうそれ。本当に水鳥はいいこと言うわ。いい言葉はなくならない、ってな」
はははと笑う三谷先生に、にこりと笑みを浮かべる一葉ちゃん。
どこでどう仲がいいのかわからないけれど、こう言う事を馬が合うと言うのだろうか。
「ん~、背筋が張ったぜ……、いてて……」
そう言って三谷先生が背伸びをすると、ぷるんと胸の膨らみが揺れた。
「三谷先生、下着を着けないと型崩れしますよ?」
「バッカ。これが俺流の男性サービスだっつーの、なあ霧生?」
急にそんな話を振られても困るだけだ。僕は瞬時に顔を赤く染めた。
どうにも僕にはその類の話は、ましてや先生のそれを直視するなど刺激が強すぎる。
そんな僕の様子に、なぜか一葉ちゃんが面白くなさそうに僕の頬をつねってきた。
「ちょ、かずひゃちゃみゅ、いひゃい!」
「むー、デレデレしてる全が悪い!」
「はっはっは、じゃーな~、気を付けて帰れよ~」
三谷先生はそんな僕たちを豪快に笑いながら、上着を取って颯爽と職員室を出て行いった。
――ともあれ、我らが三年Bクラス担任、三谷 透先生。
一人称が俺の女性で29歳。酒とタバコをこよなく愛する人だった。