キャンプ場の川【夏のホラー2025】
川の水音は夜になると少し低くなる。まるで眠っているかのような、くぐもった音だった。
その夜、沙流川キャンプ場には十数組の家族がいたが、淳の家族が泊まったのは最も川べりに近い区画だった。木々に囲まれ、風の音と虫の鳴き声、それにときおり聞こえる川の音が、静かすぎて不気味なほどだった。
「夜の川には近づくなよ。連れてかれるからな」
キャンプ場受付の中年管理人が笑いながら言った言葉を、淳は妙に覚えていた。北海道の田舎の冗談だろうと思ったが、その笑いは作り笑いの様でその目は笑っていなかった。
淳は母親と妹の実優と、父親と一緒に夕食を囲んでいた。バーベキューの匂いと白い煙が、昼間の熱気を押し流してくれていた。
でも、実優が時おり川の方をちらちら見ているのが気になった。
「なにかいるの?」
淳が尋ねると、実優は首を横に振った。
「でも……お姉ちゃんが呼んでるの」
「は?」
僕には兄妹は実優しかいない。姉などいない。
「実優、ふざけるなよ。怖いこと言うな」
父親が笑いながらたしなめたが、実優は不満そうに黙ってしまった。
夜十一時ごろ。歯を磨いて寝ようとしたときだった。
外から、水の跳ねる音がした。キャンプ場には川遊びをしに来た子供連れも多く、昼間は騒がしかったが、この時間はもう誰もいないはずだ。
……ぴちゃっ。ぴちゃっ……。
妙に規則正しい、裸足で歩くような音。
淳はテントのジッパーを少しだけ開けて、外を覗いた。
そこには、川の方に向かって歩く実優の後ろ姿があった。
「おい、実優!」
慌てて靴も履かずに外へ出た。暗がりの中で、妹はまっすぐ川へと歩いていた。
「やめろ、川に入るな!」
叫ぶ淳の声に、実優は反応しない。まるで夢遊病者のように足を進めていた。
──そのとき、川の中に女の人が立っているのが見えた。
白いワンピースのようなものを着て、髪が濡れて長く垂れ下がっていた。顔は暗くて見えなかったが、実優がその女のもとに歩いていっていた。
淳は凍りついた。恐怖ではなく、何か言いしれぬ強制的に心が静まるような冷たさを感じた。
足が動かなくなる。喉も塞がったようだった。
「お姉ちゃん……あの人が、お姉ちゃんだって……」
妹がそうつぶやいたのが聞こえた。次の瞬間、その女が首をかしげた。
──違う、実優。あれは人間じゃない。
そのとき、淳の背中にひんやりとした手が触れた。
振り返ると誰もいない。だが、淳の肩越しに、テントの方向を見つめる赤黒い目があった気がした。
気づくと、父親が淳の名前を呼びながら駆け寄ってきていた。母親もあとに続いていた。
父親が川に近づいた瞬間、女の姿はふっと消え、実優はその場にへたり込んでわんわんと泣き出した。
「お姉ちゃんが、呼んでたの……ずっと前から……水の中から、ねえ、迎えに来たって……」
結局、キャンプはその晩で切り上げた。
あの女のことは誰にも話せなかった。話すだけで、自分の中に何かを取り込んでしまう気がしたからだ。
それから二週間後、家のポストに古びた写真が投函されていた。
そこには、五歳ぐらいの実優と、見知らぬ少女が川辺で笑っている姿が写っていた。
裏にはこう書かれていた。
「また来てね。お姉ちゃんより」
#ホラー小説 #短編