1話
雨が降りしきる路地裏を彼――十六夜双葉は全力疾走していた。双葉は間違った選択肢ばかり取ってきた人生であった。いや、間違いというより選択を躊躇い、悩み、後回しにした結果、正解を取り逃がしたというのが的確かもしれない。そもそも人生において正解など誰も知る由もないのに、正解というのはつまるところ人のさじ加減次第なのだ。
名前の字面から覚えづらい、また存在感も希薄だったためか彼を記憶に留める友人はほとんどいなかった。双葉自身も友人関係においては諦めており、ただ無気力な学生時代を過ごしていた。
その無気力さは成人になっても続き、ロクな職にも就かず、何の目標も定めずただ自堕落に生きる日々。それに見かねた両親からも縁を切られ、ボロアパートに逃げ込むように移り住むも、その家賃すら払えないギリギリの生活を送っていた。金もなくそれを生み出す職もない。
そんな双葉が見つけたのは怪しいサイトの日雇いバイトであった。内容に惹かれたのではない、むしろ内容は目に入っていなかった。
惹かれたのは手当の額である。日当五十万、勤務時間は一時間であった。
「待てゴラァァ!!逃がさんぞ!!」
「……ふっざけんな!」
騙されたのは明白であった。目星を付けておいた宝石店を数人のグループで盗みに入り、後に決められた集合場所で落ち合ったのち報酬をもらうという流れであった。
しかし、双葉が向かった時には宝石店はすでにもぬけの殻であった。荒らされつくした跡に鳴り響く警報。《《もう既に》》作戦は実行されているのだと気付くにはそう時間はかからなかった。落ち合うはずの顔も知らないメンバーは居るはずもなく、さっきまで取れていた連絡もぱったりと途絶えた。とにかくこの場を離れなければ、と思っているうちに警報を聞きつけた警備員に追われて今の状況というわけだ。
何もやっていない双葉であったが、警備員の前でそれも眼前で逃亡ともとれる行動を見せてしまったのだ。弁明の余地なし、とにかく逃げ切ることに全力を注ぐことにした。―
「くそっ! どこまで逃げればいいんだっ……」
普段運動をしない双葉にとって全力疾走はそう長く続くものではなかった。肺に酸素が回らなくなってきた。視界の隅がぼやけ始め、徐々に走るスピードも落ちていく。もう駄目だ、このままでは捕まってしまう。そんな嫌な結末が双葉の脳内によぎる。追い打ちをかけるかのごとく双葉は足元の石ころにつまづいてしまう。あっけなく地面に突っ伏し、追ってから隠れるように近くの路地裏に転がり込んだ。
「はぁはぁ……なんだよこの石ころ!」
こんな石ころに足元を取られたのが不甲斐なく感情のままに壁に投げつけた。しかし、石は壁にぶつかることなく、宙に浮いたままその動きを止めた。重力に逆らい、まるで天体のようにゆっくりと回っている。現実離れした光景に双葉自身、今起きたすべてが夢ではないかと頬をつねった。普通に痛かった。
これは夢ではない、と告げるように石は星空を凝縮したような光を放っている。
”こちらに来るがいい”
横暴な物言いだが、不快感を感じさせない偉そうな声色。
双葉はあんぐりと口を開け、信じられないといった表情で石を眺めていた。何故なら、その声色は医師から聞こえてきたのだ。聞き間違いなどではない。はっきりとその石は意思をもって、双葉に語り掛ける。
”このままでは儂は息絶える。お主の体を献上せよ”
理解が追い付かないまま、石はそう告げる。目まぐるしく起きる事態に双葉は言葉を紡ぐ暇もなく、呆然と石の語りに耳を傾ける。
”石に手を触れよ。さすれば、こちらへの道が開く”
まるでゲームの冒頭かのようにチュートリアルかのように、石に触れないと先に進めない雰囲気を匂わせていた。現実離れした出来事の連続だったが、手のひらサイズの星体に魅せられてしまっている自分がいることを双葉はどこかで感じ取っていた。
「おい!いたぞ!」
路地裏に響き渡る怒号に双葉は我に変える。さきほどの警備員が鬼の血相でこちらに向かって来ていた。鼓動が再び激しく体を刻み始める。路地裏の先は行き止まり、もう逃げ道はないのだ。
選択を迫られる。
このまま大人しく捕まるか、胡散臭い石の言葉に従うか。二つに一つで二者択一。
「こうなったら、……どうにでもなりやがれ!」
今回の選択肢こそ間違えてたまるか、と目の前の石に飛びついた。刹那、強烈な重力に引っ張られる感覚と共に双葉は意識を失ってしまった。
「……いってぇ、ここはどこだよ?」
どれくらい時が経ったかは定かではない。目を覚ましたフタバは見覚えのない辺りの景色に困惑していた。
それもそのはず、さっきまでいた薄暗い路地裏の影もない、荒廃しきった大地だったのだ。フタバを中心に大きなクレーターのようなものが形成されており、足元には大量の石ころが転がっていた。まるで、フタバ自身が隕石となってこの地に降り注いだかのような、そんなことを髣髴とする光景であった。
状況が掴めずにいるフタバの視界に、ゆらりと薄水色の髪が映った。
風になびく髪はまるで薄氷のように淡く、触れてしまえばすぐさま溶けてしまいそうな儚さを感じさせる。こちらと目が合っても無表情を崩さないその子は、暴力的なまでな美貌を放っていた。全てのパーツが整い過ぎているせいか、存在しているかどうかさえ確かではない。出来のいいCGキャラクターを見ているかと思わせるくらい、彼女は綺麗だった。
「あなた……何者?」
「えっ? あ……ええっと」
彼女の問いにフタバは即答することができなかった。さっきまでは騙された哀れな無職であったが、この理解できない状況に立たされた自分は一体何者なのかさえも分からないのであった。
「あなた不思議ね。魔力がまったく感じられない」
フタバが答えに困っているのを見かねて、少女が口を開いた。しかし、語られた言葉はこれまた理解のできないこと。
魔力?ゲームでしか聞いたことのない言葉を向けられ、フタバは分かりやすく困惑してしまう。
「……もう来たか。あなたもここを離れたほうがいい。あいつらはずっと」あなたの様子を伺っていたよ」
そう言い残し、少女はこの場を去ろうとする。少女が怪訝そうな視線を送った先にフタバも目をやる。鬱蒼とした森の入り口、姿は見えないが人影のようなものがこちら様子を伺っていた。たが、不思議なことにその人影は凭れ掛かるような不安定な姿勢を取っている。ゆらゆらと揺れるその姿が不気味で心臓をなぞられるような不快感に襲われた。
どんどんと離れていく少女の姿に、フタバは言いようのない不安に駆られ、急いで彼女の後を追った。