14話
アラクネと呼ばれ、恐れられていた女も――かつては人族が集まって暮らす集落の何の変哲もない母であった。赤子を背負い、昼は家事をこなし、夜になれば寝る間も惜しんで衣類を編んだ。決して裕福な暮らしではなかったが、幸せに包まれた生活を送っていた。
しかし、その生活も突然幕を閉じることになる。
集落を訪れた数名のく神父らしき者たち。夜闇をまとったかのような漆黒のカソックは僅かに風が吹くだけで波打ち、まるで影が蠢くような不気味な印象を与えた。女の住む集落には神を信仰する宗派などは存在しない。そこに居るだけで異質な存在に女も含め集落に人間は警戒心を隠せずにいた。だが、その疑心も長くは続かなかった。
集落にやってきた神父たちは集落の発展に貢献をすることによって信頼を得ることに成功したのだ。何の目的があってのことか集落に人間も訝しんだが、どんどんと積まれていく善行に心の隙間を開けていくのだった。女は日々の生活で忙しかった為、神父らの行動に目をやる暇もなく、特に気にも留めていなかった。しかし、今思えばそれが間違いだったのかもしれない。
「最近、集落の人間が謎の失踪を遂げている」
ある時、神父から伝えられたのは最近起きている失踪事件のことだった。だが、この集落は人の出入りがほとんどない。ゆえに集落から人が居なくなるなど異常事態なのだ。神父を信じ切っている集落の人間はその言葉を疑うこともなく、むしろ対策を取ってくれることに感謝をしているくらいだった。
「みなさんを私たちの町に招待します!」
初めて私たちの前に姿を現した司祭様と呼ばれる人物。
その司祭様が提案したのは、集落ごと安全な場所に移動するというものだった。神父たちの信仰する宗派が住まう聖都イズペアという大きな街に集落の人間全員を移住させるとのこと。たしかに魅力的な話だが、その本質は今まで生活してきたこの集落を捨てるということ。しかし、集落の人間はそこに何の疑問も持たずに、司祭様の提案を受け入れるのだった。
しかし、その選択こそが全ての間違いだったと気付くのにそう時間はかからなった。
集落の人間が招かれたのは話に聞いた素敵な街ではなく、地下暗い収容所のような劣悪な環境であった。そう、住居ではない、もはや環境なのだ。そこは人が住むことを想定していない造形をしていた。ひたすらにかび臭い空間に監獄のような仕切りがずらっと並んだ地下洞窟。その独居のような場所に集落の人間は雑に放り込まれた。
一体何が目的か、この生活に終わりがあるのかも分からない日々が続き、連れ込まれた人らも明らかに生気がなくなった頃に事態は急変していった。
「何をするの!?やめて!連れてかないで!!」
一日に一人また一人とどこかに連れ去られ、二度とその人らが戻ってくることはなかった。どこに連れて行かれているのかも分からない、ただまだ見ぬ奥深くから悲鳴のような声だけ微かに聞こえてくる。
女も例外ではなく、女の子供も連れて行かれ、涙ながらにも訴えかけるも無慈悲に取り上げられる。
冷たい石の床がじわりと体温を奪い、湿った空気が肺に重くのしかかる。狭い独房の中、時間の感覚さえ曖昧になり、静寂だけが支配する。手を伸ばせば触れられそうなほど圧迫感があり、光源はほとんどなく、壁にかかる松明が唯一独房を照らしていた。
子供を奪われ何日が経っただろうか、もはやそれすらも分からない。床は冷たく硬い。長時間座っていれば尻の骨が痛むが、その痛みすらも忘れかけていた頃、ついに女も独房から連れ去られることになる。
奥深くの洞窟を進んでいくと、やがて薄暗い無機質な金属かコンクリートで覆われた場所に着く。所々に赤黒い染みがこびりついている。どこか鉄臭い、錆びた血のような匂いが鼻を突く。空気は湿って重く、ひんやりとした冷気が肌にまとわりつく
一つの部屋に放り込まれると、目を刺すような白い光が視界を満たす。先ほどまでの薄暗い廊下とは別世界のようだった。
部屋の中央には、複数の檻や拘束台が並んでいた。檻の中には人間らしき影がうずくまり、呻き声を漏らしている。
だが、よく見ると異形のものが混ざっていた。腕が異様に膨れ上がり、皮膚が裂け、下から黒々とした毛が生えている者。顔の半分が獣のように変形し、鋭い牙をのぞかせる者。彼らはまるで壊れかけた人形のように、震えながら壁に背を押し付けていた。
そして、部屋の中にはこの状況の元凶、司祭様がそこにいた。
「やあ、いらっしゃい。君に期待しているよ」
「……子供達はどこ行った?」
「—子供?ああ、あれかい?」
考えるようにして、ある一つの檻を指差した。
その言葉を聞いた瞬間、息が詰まる。視線を向けた先の檻——そこには、変わり果てた姿の者たちがいた。
檻の中の一人が、檻越しにこちらを見ていた。小さな手が、震えながらガラスを叩く。その姿には見覚えがあった
女は狂気的に檻に駆け寄る。異形と化したその姿を目に焼き付けるために、食い入るように檻に近付いた。
頭で否定しても、目の前の光景がそれを許さなかった
数日前まで握っていた小さな手。人間の手とはかけ離れていたが、弱く握り返すその様は我が子のものだった
「—美しい絆だね……涙が出ちゃうよ。やはり親子とは切っても切れない」
眼鏡をずらし涙を拭うその様子はまるで嘘っぽく、逆に怒りを覚えるくらいだ。怒りに震える女を血に塗れた拘束台に無理矢理に横倒らせ、腕に得体の知れない薬剤を注入した。
「君はどんな魔獣になってくれるかな?」
不気味な表情を浮かべる司祭の顔が霞みがかるように視界がぼやけていく。失われていく意識の中、女は後悔と自責の念を何度も胸中に反芻させていた。
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「お前、名前は?」
もうこの世に留まる時間もいくばくもない魔獣にアックスは問いかけた。
辺りには先ほどまで群がっていた黒い人影が横たわっていて、無数に広がる死を感じさせる。
アックスに対して人影たちに敵意はなかった。同じ魔力を持つ魔獣同士であったが、何故か共喰いを始めた。魔二力が同じということはおそらく主従関係のある同一個体、しかしそれが仲間割れをおこすなんて不可解だ。
「ア、アラ……クネ――」
今際の際で言葉を紡ぐが、魔獣は虚空を見つめぴたりと止まる。
視線の先には二羽の鳥が寄り添うように飛んでいた。覚束ない様子で必死に付いていく小さな鳥の姿に、ふと亡くした我が子の面影を重ねてしまい,
胸の奥が締めつけられるような痛みに襲われた。
「――アン.......ナ。私の名前は.......アンナ」
魔獣は絞り出すような声で”本当の名を”口にした。ここでアックスはようやく確信するのだった。本来、魔力は種族によって質も量も違う。魔獣は分類不明の総称であり、謂わば雑種のようなものだが、アンナには薄く人族の魔力を感じた。
それはアックスの魔法、違法操作で感覚器官を鋭敏にさせて感じたものだった。魔力を持つ雑種の種族に人族の気配が出るなど、そんな話は聞いたことがない。
もしかすると、アンナという名は魔獣へと変貌する前のものかもしれない。
自分の名を伝えると、心なしか安堵した表情でアンナは息絶えた。
「アックス。そろそろ船に戻ろ」
「ああ、ユーリか。用事は済んだのか?」
「うん。アックスは?」
「――今終わったところだ。帝国軍に勘付かれた、早めに移動しよう」
「そうね。――ごめん、少し待って」
ユーリは何かを思い出したようにある民家に向かった。民家に入ると何かを探すようにキョロキョロと見渡す。その民家は見覚えがあるも何も、ネトラと過ごした場所であった。魔法で認識を変えたものの、ネトラが孫として扱ってくれたかけがえのない空間である。
いつもネトラが編み物をしながら,腰掛けていた椅子の方を見やると、そこにポツンと黒い人影が鎮座していた。
アラクネの従者の証であるその見た目だが、こちらに気付く様子はなく、ただ静かに部屋に付いている小窓から外を眺めていた。その様はさながらネトラそのものだった。
ユーリはゆっくりと黒い人影に近付き、そっと肩に手を置く。心なしか人の温かみが掌から伝わってくる。
「—ネトラなのか?」
静かに問い掛ける。アラクネの従者となってしまえば本来の姿など見分けが付かない。それでもユーリにはネトラだという確信があった。
ユーリの問い掛けに黒い人影はゆっくりと振り向き、ユーリの方を見やる。
「……ユー、……リ」
「—えっ?」
「お……か.......えり」
信じられないことに黒い人影は微かな声色でユーリに語りかけた。アラクネの従者になるということは自我はないも同然であり、ユーリが今まで見てきた者らは人間であった記憶もあるか怪しかった。
それに今は—。
「あなたへの魔法はすでに解いているのに」
ネトラからユーリに対しての存在を誤認させる魔法はアラクネが村に来た後に解除している。ネトラからしてみればユーリなど顔の知らない他人として映っても仕方がない。
「あなたもしかして――」
表情こそ見えないが、心なしか安堵した雰囲気を感じたのも束の間、ネトラであろう黒い人影はサラサラと灰になってその体は瓦解していった。
アラクネが息絶えたのだろう。そのアラクネによって変貌させられた従者も術者が絶命すればその魔法も強制的に解除されてしまう。しかし、この魔法は対象の体まで蝕む性能がある為か、魔法が解除されても本来の肉体が戻ることはなく、命晶石すら残らなかった。
「知り合いか?」
「――うん。私のおばあちゃんだよ」
ユーリは悔しい気持ちを押し殺すように掌に残った灰を握りしめ、立ち上がった。村では黒い人影が続々と灰となり、空へと舞い上がっていく。アラクネから解放された村人たちの魂が昇華していくように空に吸い込まれていく様は、どこか嬉々とした雰囲気を感じられた。