11話
地下深くでの熾烈な戦いから、ようやく地上へと這い上がったフタバは、息を整えながらも、その瞳に戦い抜いた証と、これからの覚悟を宿していた。だが、振り返った先に広がる光景は壮絶なものであった。
背後では猛烈な炎が先ほどまでの道のりを完全に塞いでいた。燃え盛る獣の如く激しい熱と轟音を放ちながら、ついにはフタバの足元まで迫ろうとしていた。だが、これほどまでの豪炎であれば、さすがのアラクネでさえもひとたまりもないだろう。原始的な火責めであったが、ここまでの威力を誇るとは思ってもいなかった。ネトラさんが包んでくれた油がかなり引火性に優れていたに違いない。
アラクネも言っていたようにフタバにはまったく魔力がないらしい。この世界ではまったく魔力がないのは珍しいそうだが、普通の世界から来たフタバに魔力がある方が不思議である。
しかし、その魔力がないおかげでアラクネが油断する結果になってしまい、本来歯の立たない魔獣相手に勝利を収めることが出来たのだ。棚からぼたもちとはよく言ったものである。
「これで村に被害は出ないだろ」
気を張り詰めていた為か、フタバは萎んだ風船のように床にへたり込む、勢いで魔獣相手に喧嘩を打ったが、アドレナリンが解けた今、何とも命知らずな行為だったと冷や冷やする。
かすかな安堵感に包まれながら、背後の燃え盛る炎の中を見渡す。だが、その安堵の瞬間に、彼の心は急転する。フタバの目に映ったのは予期せぬ光景だった。近くの古びた祭壇―無惨にも亀裂を浮かべ、砕け散りかけている。
何よりも祭壇を貫くのは凶暴な存在の証、アラクネの太く力強い尻尾であった。燃え上がる炎の隙間から、その漆黒の尻尾がまるで宣戦布告のように祭壇に食い込んでいるのが見えた。
漆黒の鱗が幾重にも重なり、まるで凶悪な彫刻のような存在感を放っていた。激しい熱に晒された傷跡を残す漆黒の鱗は、激しい熱波によって焦げ、部分的に剥がれ落ち、深い亀裂が走っている。かつては艶やかで力強かったその尾も、今では熱によりその美しさを失い、黒焦げの斑点と鋭い切れ目が刻まれている。
「おいおい、それはシャレにならねぇよ……」
燃え盛る地下の闇の奥から、不気味な音が響いた。崩れゆく岩の砕ける音、焼け焦げる瓦礫の軋み、そして何よりも、その炎の向こうからゆっくりと現れる黒い影――。
突如、激しく揺らめく炎の中から、長くしなやかな漆黒の足が一本、ゆっくりと姿を現した。焼けただれた地面に爪が突き立てられ、炭化した瓦礫を砕きながら、次々とその足が地上へと這い上がる。かつての威厳を宿しながらも、炎に焼かれた証を刻むその姿は、死の淵から蘇った怨念の化身のようだった。
炎の光に照らされ、アラクネの顔がゆっくりと浮かび上がる。その表情には怒りと執念が渦巻き、魅了させる美貌は火傷により爛れていて、悍ましい様になっていた。
彼女の瞳は、炎の反射で赤々と輝き、獲物を見据える捕食者の本能が宿っていた。その身を覆う漆黒の外骨格には無数の亀裂が走り、アラクネを包んだ豪炎の威力を知る。
「よくも……よくも妾をコケにしてくれたなぁ!!人間風情が!!」
豪炎に包まれながらも生還したアラクネの姿は、もはや先ほどまでの冷徹な余裕を感じさせない。怒りに燃え、獰猛な獣のように歯を剥き出し、鋭い爪が一歩一歩地面を抉り進んでいく
「愚か者め、私がこんなことで終わるとでも思ったのかッ!!」
「しぶとい奴だな。そのまま燃え尽きてくれた方がよっぽど素敵だぜ?」
精一杯の強がりでアラクネにそう言い捨てる。しかし、魔獣の生存本能と強靭さを甘く見ていた事実を突きつけられる。アラクネの全身から発せられる殺気が、まるで炎と同化するかのように熱を帯び、周囲の空気を歪ませた。
だが、ここで逃げる訳にはいかない。この状態のアラクネをここから放ってはあまりにも危険すぎる。ここで食い止めなくては、それこそ村に際青くの結果をもたらしてしまう。
「……だったら、終わらせてやる!」
腰に残っていた最後の油の小袋を掴み取った。震える手で力強く投げつける。その狙いは正確だった――だが、それは届くことはなかった。乾いた破裂音とともに、小袋は宙で弾けることなく貫かれた。
鋭い衝撃とともに、フタバの視界が一瞬揺らいだ。息を詰まらせる。何が起こったのかを理解するよりも早く、腹の奥深くに突き刺さる痛みが全身を貫いた。熱いものが喉元まで込み上げ、視界が滲む。
アラクネの尻尾――それは、小袋を貫いた勢いのまま、フタバの腹を貫通していた。ヌルリとした感触が腹の傷口から広がっていく。油の生暖かい液体が服を濡らし、ゆっくりと地面に滴り落ちる。
「あっはははぁぁ!!!柔らかな腹だなぁぁ」
アラクネの嘲るような声が、フタバの耳に突き刺さる。皮膚が裂け、筋肉が引きちぎられ、内臓が押しのけられるような生々しい痛み。だが、次の瞬間、それ以上のものが襲いかかる。
熱い。ジリジリと焼け付くような熱さをフタバは感じていた。
いや、熱いどころではない。燃えるような激痛が、腹の奥から全身へと広がっていく。刺された瞬間は一瞬の衝撃で麻痺していた感覚が、遅れて神経を焼くように蘇る。まるで鋭利な杭を腹の中で無理やりねじ込まれたかのような感覚。呼吸が詰まり、喉がひゅっと鳴る。
体の中に巣食う炎が、肉を焼くような錯覚。体を動かせば、傷口の周囲が引き裂かれるような感触が走り、吐き気が込み上げる。息を吸おうとするが、肺が動かない。酸素が足りない――めまいがする。視界が揺らぎ、遠のいていく。
皮膚がじんわりと黒ずんでいく。血が滲む傷口の周りから、影のような黒い膜が広がり、まるで身体が溶け出すかのように輪郭が歪む。筋肉がひきつるような感覚。骨の奥から何かが染み出すような、不気味な変化が彼を蝕んでいく。
「待ってくれよ。これってもしかして、詰んだか?」
違う何かに置き換えられていく感覚。貫かれた腹はすでに人のものではなく、黒い影の塊のようになり、まるでアラクネの従者たちと同じ異形へと変わりつつあった。
あの村で見た光景が脳裏に浮かぶ。あっという間に物言わぬ従者に変貌した村人。
「お主も、とうとう“こっち側”か?妾に立ち向かったことは誉めてやろう。従者にした後、殺さずに思う存分いたぶってやる」
アラクネはわざとらしくゆっくりと尻尾を引き抜いた。ズブリ、と肉が裂ける不快な音が響き、黒く変質しつつある体から、赤黒い液体が溢れ出る。フタバの体はますます黒く変色していく。フタバの意志ではどうすることも出来ず、アラクネの従者になるのをただ待つばかりであった。
「――あっけないものよ」
もはや思うように動かないフタバの体に一瞥をくれて、アラクネは何の興味も示さずに通り過ぎようとする。しかし――突如、足首に絡みつく何かをアラクネは感じ取った。驚きに眉をひそめ、アラクネは即座に足元を見た。そこには、黒く変貌しつつあるフタバ。まだ人の形を完全に失いきっていない指が、アラクネの足首をがっちりと掴んでいた。
「貴様まだ!?」
「これが人間風情の意地だろうが!!」
鈍い音が響き渡る。アラクネの足が、不自然な角度に曲がった。全身の力を振り絞ってへし折った。皮膚の下で骨が砕け、腱がねじれ、アラクネの優雅だった肢体が崩れ落ちる。まるで鋼のように折れる音を立て、アラクネの体が歪む。その裂け目からは、液体のような粘液が滴り落ちた。
その巨大な蜘蛛の足先にまだ燻っていた火が、彼女の肉体に絡みついていく。先ほどの油袋で引き起こされた炎が、再び不気味な光を放ち、黒い足に付着したまま、焼け焦げるように広がっていった。
もぎ取った足を教会の端に投げ捨てる。その足が転がった先には、すでに仕掛けていた油が教会を囲むように撒かれている。足の先端にまだ燃え残っていた炎が、瞬時にその油を引火させる。油が燃え上がり、あっという間に教会の周囲を取り囲むように炎が広がっていった。
油が爆ぜ、火花が飛び散り、まるで獣のように暴れる火が教会を包み込む。炎は高く、速く広がり、油の広がりに応じて、その勢いをますます増していく。
「な、なんだこれは!?」
「あんな狭い地下がお前の墓じゃ味気ないだろ?この教会を墓にしてやるよ」
炎が破裂する音、油が爆ぜる音が響き渡り、周囲の空気は灼熱に満ちていく。もはや逃げ道はないくらいに豪炎が二人を包み込む。
アラクネは炎に包まれた教会の中で身動きが取れなくなっていた。彼女の足元に燃える火が迫り、焦げた匂いと共に、黒くひび割れた肉が見え隠れする。
フタバもまた、燃え上がる炎に身を包まれ、変わり果てた体を豪炎が蝕んでいく。炎が二人を完全に包み込み、何もかもが焼け尽くされるかのような壮絶な熱気が辺りを満たしていた。炎の熱と煙が立ち込め、視界がぼやける中でフタバは静かに笑った。
作戦に自分の命を安く見積もっていたが、この魔獣を倒せれば目的としては達成である。
教会の壁が軋み始める音が聞こえ、炎の勢いが増す中でフタバの意識は遠のていった。