10話
頬を伝った冷や汗が一滴地面に落ちる。広間の壁に飾られている松明の炎がアラクネが織りなす無数の糸を煌めかせる。
彼女の表情は余裕で満ちていた。その表情はどこから生まれているのか、ただの人間を前にしての魔獣としての強者の驕りか、それとも魔獣を前にして狼狽が滲み出ているフタバに対しての哀れみからか。とにかく、今この場での優劣は決まってしまった。
しかし、はフタバは使命と未来への希望を胸に、決して後退しない覚悟を固めていた。今更尻尾を巻いて逃げるつもりなど毛頭ない。
「お主があの婆の孫か。」
「そうだ」
「くっくっく……そうかそうか。よう来たな」
「これで村人たちに危害を加えることは止めろ」
フタバは早速要求をアラクネにぶつけた。フタバがここに来た理由は一つ。ネトラさんや村人たちをこれ以上危ない目に遭わせないためである。ただその一点のみでこの人外と対峙しているのだ。ユーリが本気で止めようとするのも無理はない。恐れと不安が心の隅にちらつく一方で、昨日の村での出来事を思い出すとふつふつと怒りが込み上げてくる。
フタバの言葉を聞いたアラクネは特に反応を示すことはなく、冷たい顔色を崩さなかった。それどころか、口角を上げ不気味にその美貌を歪ませた。息を飲むほどの美女の顔が悍ましい魔獣の面に変貌する。
その瞳は、まるで獲物を狙う猛禽のように鋭く、見る者の心に凍りつく恐怖を与えるほどに冷たかった。アラクネの表情は、かつて人間性を示していた面影を一切残さず、蜘蛛の本能と魔性が交錯する獣のような野生味に溢れている。
「お主の望みはあの者たちか。――つまらんな」
「何だと?」
「つまらんと言っておるのだ。妾の根城にのこのこやってきて、妾の眠りまで妨げてまでする理由がそのような他愛もないこと。興が醒めたわ、見逃してやる。今すぐにここを立ち去れ」
アラクネの鋭い瞳がかすかな冷笑と共にフタバを見据えると、低く冷たい声が響いた。想像してもいなかったあっけもない展開にフタバは言葉を詰まらせてしまう。彼女は完全に臨戦態勢を解き、鋭利な足を崩して地面に座り込む。先ほどとは打って変わってリラックスしたような様子はフタバのことを敵と認識していない。対等の相手どころか、虫けらを見るように蔑んだ眼差しを送っている。
「そもそもあの婆には孫などおらん。妾がこの村に来た時、初めに従者にした者があの婆の娘だ。妾は従者にした者の記憶を読める。あやつに孫などおらん。何の目的があって孫などと謀《《たばか》》っておるのか知らぬが、時間の無駄だったようじゃ」
「どういうことだ?」
「孫などと噓を申して村に紛れ込んでいるのがどんな者かと思ったが――蓋を開けてみれば魔力がまったくないただの若造。従者どもの餌にすらならんお主などここに居る意味がない。妾の機嫌が変わらん内に視界から消えろ」
アラクネのその一言と共に、辺りは一瞬にして凍りついたかのような静寂に包まれた。暗がりの中、アラクネの存在感が増していく。
その時、闇の影から彼女の従者が姿を現した。従者はまるで夜そのものが具現化したかのように黒く、しかしはっきりと人の形を保っている。そしてこの従者はおそらくここの《《村人だった》》人達である。
ゆらゆらとフタバとの距離を縮めてくる。奥に鎮座するアラクネは高みの見物かのように不敵に笑っていた。フタバは無意識のうちに一歩、また一歩と後退りを始める。足元にざわめく砂埃が焦燥とともに舞い上がり、ここに来た時の威勢はすっかり消え失せていた。
「やっぱりこうなるのかよっ!!」
フタバは焦った様子で村で調達した物を取り出し、”それ”を壁に向かって投げつけた。投げた先には唯一の光源である朽ちかけた松明がかすかな命を灯している。放物線を描いて放り投げられたのは獣皮で作られた小袋。ネトラさんに用意してもらった熱に弱い獣皮で作られた今回のアラクネ攻略に必要不可欠なカギである。
松明の炎に焼かれた獣皮は内包されている液体が傘のように降り注ぐ。油が松明に触れると、瞬く間に燃え盛る炎が猛り出した。熱波が周囲を包み込み、燃え盛る火柱はアラクネと従者を分断する。
ここに火元があったのは想定外であった。フタバの推測ではアラクネの根城は火に関わるものは一切ないと踏んでいたからだ。
「お前――火が得意じゃないだろ?」
「ちっ……一誰から聞いたのじゃ」
「あの村に来た時、お前は隕石騒ぎがあった場所に興味を示していた。俺はあんまり記憶はないが、かなり大規模の被害だったんだろ?何日も燃えるくらいに」
ユーリが言うには数日前に村を襲った隕石。二つの地点に落ちたそれらは何日もその辺一帯を燃やし尽くしたほどに大規模なものだった。 フタバが目覚めたそこには魔力中毒を起こしてしまうほど魔力濃度が高く、村人たちは近寄ることが出来ない。
しかし、アラクネは村に訪れた時、魔力を含んでいそうなフタバを含めた二人のことを「美味そう」と表現したのだ。
だが、そこまで興味を持っている魔獣がなぜ何日もフタバらを放置したのだろうか。そこがずっとフタバの中で引っ掛かっていた。人を畏怖させるほどの、強靭な蜘蛛の体を持つ魔獣が数日間放置する理由がどうにも釈然としない。
そこで一つの仮説を立てたのだ。その場所に行かなかったのではない、行くことが出来なかったのではないか、と。そうなれば行けない理由が必要だ。高濃度の魔力を欲しがる奴が魔力中毒を恐れる筈がない。ならば、もっと根本的な問題、火が苦手なのではないかと考えたのだ。
そうなれば、アラクネへの対処法は火を生み出す必要がある。だからこそのネトラさんに準備してもらったこの小袋である。どうやって火のきっかけを作るかが課題であったが、まさか根城の松明の火があるとは、天はフタバに味方をしているのかもしれない。
見る見るうちにその炎は凶暴な勢いを帯び始めた。この機を逃がすまい、とフタバは追加の子袋を投げつける。油を得た火はまるで生き物のように唸りを上げ、辺りへと広がっていく。最初は細い舌のような炎が、徐々に勢いを増し、暗闇の中で狂おしい輝きを放ちながら、燃え盛る熱波を巻き上げた。
完全にアラクネと従者を分断することに成功する。あとはこの従者たちを上に誘導して、アラクネのみをここで焼き殺すのがフタバの戦略である。一筋の光が見え始め、フタバは緊張で固く結ばれた表情を綻ばせる。
苛烈な炎は無数の蜘蛛の糸を簡単に溶かしていく。しかし、アラクネの瞳は深い闇夜のように底知れぬ冷たさを残していた。鋭く光るその目は、柔らかな人間性の名残を一切見せず、見た者すべてに不吉な予感を抱かせる。
「おい、妾の元に集まれ」
そう冷たく言い放ったアラクネの言葉に反応したのはボウと立ち尽くしていた黒い従者たちだった。ゆらりとフタバに背を向け、アラクネの元へと歩き始める。そう、轟々と燃え盛る炎に向かって、何の躊躇もなく従者たちは命を賭けて足場となった。
燃え盛る炎の中、彼らは自らの命を顧みず、互いに連なりながら、一歩一歩、無慈悲な階段を形成していくその姿は犠牲と献身が交錯する、冷徹な秩序そのものを感じさせた。
アラクネは、獣のような鋭い目つきでその様子を見定めると、まるで舞うように、優雅かつ冷酷に従者たちの上を踏みしめながら前進を始めた。彼女の足取りは揺るがず、炎の熱波をものともせず、鋭い決意を映し出す。足元で燃え盛る炎と、命を賭して形成された哀れな足場――それすらも、彼女の支配力の前にはただの道具に過ぎなかった。
「マジで最悪な奴だな」
「何を疑問に思うか。この者どもは妾に忠誠を誓う身。妾のために命を捨てるのも不思議ではない」
当たり前かのように鋭い足で従者を踏みしめ、炎の壁を越えていく。炎に蝕まれていく従者――元は人間であろう者たちが赤い波に消えていった。全員を救えると高hを括っていたわけではない。しかし、どこかアラクネだけを討伐できると安易に捉えていた自分がいたのをフタバは気付いていた。しかし、無情にも踏み捨てられる者たちを見て、自分の考えが甘かったのを暴かれた。
フタバは胸の奥底から抑えきれぬ怒りが沸き起こるのを感じた。それと同時に子の魔獣を絶対にここで討たないといけないと確信する。手持ちの小袋を全て床に投げ捨て、油を散乱させる。フタバの背後には地上へと続く出口の穴。ここが最後の防衛ラインだ、そう感じたフタバはもう一つ準備した物を取り出す。それはユーリから預かっていた火打ち石であった。
「――何をする気じゃ?」
「ごめん、皆を救えなくて」
フタバは一瞬の逡巡もなく、火打ち石を力強く油の表面へ打ち付けた。瞬時に、硬い石から鋭い火花が飛び散り、闇に散る無数の光の粒が、まるで小さな生命のように油面を照らす。火花が油に触れるや否や、油はその熱に応じるかのように細く不確かな炎を生み出し、瞬く間に勢いを増していく。
アラクネの表情は一変した。さきほどの冷たい表情とは打って変わって、燃え盛る炎そのもののように赤く輝いていた。彼女の口元は一瞬引き結ばれ、鋭く刻まれた眉がさらに深く寄せられる。
「たまには人間らしい顔するんだな」
フタバは苦く笑い、ダメ押しの小袋をアラクネと自分を隔てる火の壁に投げ捨てた。
「貴様ぁぁぁぁ!!」
アラクネの叫びは燃え上がる火柱の轟音にすぐさまかき消され、熱と煙の壁の向こう側に消え去っていった。炎はただの燃える障壁ではなく、彼女の憤怒すらも呑み込むような、容赦ない存在感を放っていた。燃え盛る炎の向こうで怒りに満ちたアラクネの叫びがかき消されるのをただ静かに見つめ続けていた。
魔獣相手とはいえ無情かもしれない。しかし、人ならざる従者にされた者たちへの弔いもフタバの瞳には含まれていた。