第89話 灯火の尖塔へ (10)
大通りに出た根岸の目に入ったのは、飛び回るチャチャイの姿である。
無事だった事に安堵している暇はない。彼は複数のブギーマンに追い回されていた。
「チャチャイっ!」
リンダラーが悲鳴に近い声を上げ、躊躇なく生首となって身体から抜け出す。棒立ちで残された首なしのリンダラーの身体を、根岸は慌てて支えた。
チャチャイの翅を引き裂こうと迫るブギーマン目がけて、リンダラーが横合いから強烈な赤い光を放つ。
「ぎぇッ」
呻き声と共にブギーマンは怯み、ふらふらと浮遊高度を下げた。
「リンダラー! キミってほんと最高!」
助けられたチャチャイは、感極まった表情でリンダラーの内臓部分を抱きしめた。どうにも猟奇的な絵面だ。
チャチャイの竹細工風の四枚翅は、ブギーマンに引っ掻かれたのか、いくらかほつれて羽ばたきづらそうだった。根岸は二人に呼びかける。
「後ろからまだ来ます!」
リンダラー達とすれ違う形で、根岸は血流し十文字を手にブギーマンと対峙する。
十文字が的確に狙いを定め、根岸が踏み込むのと同時に槍の穂が鋭く突き出された。
槍先はブギーマンの布を浅く裂いたが、無力化には至らず、相手は上空へと逃げ去る。
こちらは飛べない以上、深追いも出来ない。根岸は一旦十文字を下げ、チャチャイの怪我の具合を確認した。
「チャチャイさん、大丈夫ですか?」
「おれは大したことないって。あと……ペトラだっけ、怪我した人狼はロクゴーが上手く逃がしたよ」
恐らくチャチャイが囮となってくれたのだろう。根岸はその報せにほっとした。
負傷者が出た場合は、大回りのルートで追手を撒きつつ避難先のゲストハウスに退却させる手筈となっている。陸号は人狼の中でも優れた嗅覚の持ち主だ。敵から十分引き離しさえすれば安全と思われた。
それは良いがしかし、先程どこからか聞こえてきたブギーマンの声の出所が気になる。
雁枝が『エルダー』と呼んだ、ひときわ巨大な一体。現在見渡す範囲にはいない。そうそう物陰に隠れられるようなサイズではなかったが、何しろブギーマンは真の意味で神出鬼没だ。
「キャアーッ!」
出し抜けに、後方――交差点の向こう側から悲鳴が沸いた。地下鉄駅の出口から出てきた人間が数名、ブギーマンに遭遇してしまったようだ。
「な、なにあれ!? 怪異!?」
「昼間にニュースでやってたやつだ!」
「お、陰陽庁! 誰か電話っ!」
「逃げてーッ!」
不運な通行人達は、上ってきたばかりの地下道への階段を転げ落ちそうな勢いで逆戻りする。ブギーマンの一体が彼らを追い、地下からまた悲鳴が聞こえてきた。
「まずい、このままだと被害が……」
十文字を握る根岸の手の平に緊張の汗が滲む。
その時、再び車の急ブレーキ音が周囲の空気を震わせた。
「あっ――あそこ、道路に!」
身体に戻ったリンダラーが、大通りの中央を指差す。
示された方向を注視した根岸は、目を瞠った。
車道の真ん中に、大穴がぽっかりと空いている。闇夜の中で良く見えないが相当に深そうな穴だ。
いや、と根岸は気づいた。これは単に地面を掘ったものではない。空間それ自体に穿たれている。
「空間穿孔! こんな場所に!?」
穴の手前、ぎりぎりの位置で道路の異変に気づいたらしい車が、ガードレールに側部を擦りつけながらも停車している。先刻のはその音だったのだろう。
車の運転席から、ふらつきつつスーツの中年男性が降りてくる。
そしてそれを見計らったかのように、穴の中からも一体のブギーマンがぬうっと身を乗り出してきた。
「うわあああっ!?」
男性は叫び、後退り、ブギーマンから遠ざかろうと一目散に駆け出した。当然の反応ではある――ただしまずい事に、その場は車道だった。
けたたましいクラクションの音。
パニックを起こして闇雲に車道を逃げる男性の前に、トラックが迫っている。
根岸もまた、歩道の植え込みを掻き分けて駆けたが、とても助けなど間に合わない事は分かりきっていた。数秒後の惨劇を予感して彼は顔を歪める。
だが、そこに――ブギーマンと同じく虚空から卒然と、大柄な影が一つ現れた。
トラックの上に飛び降りたその獣の影は、灰白色の牡鹿の角を振るって猛々しく吠える。
「グルオオオオオッ」
声に応えたかのごとく、トラックの前半分が一瞬にして白く染まった。
凍てついたのだ。
タイヤがやられたのかエンジンが冷えきったのか、とにかくトラックの前輪は強制的に急停止させられる。
制御を失った後輪が路面に火花を散らして斜めに滑り、危うくトラックは横転しかけたが、その前に素早く路上へと降りた獣が、角と前脚で車体を支えてみせた。
「は――」
驚きのあまり、瞬き数回分は言葉を失っていた根岸だが、ようやく我に返って彼らの名を呼ぶ。
「『灰の角』! ……諭一くん!?」
「うわー嘘みたい、ピンポイントでネギシさんはっけーん!」
トラックを正しい角度に据え置いて、刺青の入った有角の獣から青い長髪の青年へと姿を変えた彼は、至って呑気に根岸へと手を振ってみせた。
そうかと思えば直後に、
「じゃネギシさん、そこのオッチャン達頼む!」
と呼びかけるなり、再び『灰の角』の姿を纏い、男性を追ってきたブギーマンへと飛びかかる。
「るぅぅぎぃいいッ」
ブギーマンが三本腕で爪を繰り出すも、鹿の角によって打ち払われる。空を掻いた腕の一本を『灰の角』が掴んで、歩道に向けて投げ飛ばした。
歩道の上、地上二メートルほどの高さの中空には、いつの間にか黒々とした丸穴が空いている。
また新たなブギーマンが出てくるのかと根岸はひやりとしたが、そこからひょいと顔を出したのは、複数の子供達だった。
子供といっても顔色は土気色で痩せ衰え、怪異特有の匂いを発している。
餓鬼と呼ばれる妖怪の一種だ。
「バァーッ」
「いーっ」
乳児の喃語にも似た声を上げながら、わらわらと穴から溢れてきた餓鬼の集団は、瞬く間にブギーマンに群がり、暴れる布の塊を押さえつけた。
「ええ……!?」
全く予想外の事態に、根岸は混乱する。
ともあれ彼は、自分よりも深刻なパニック状態に陥り車道にへたり込んでしまった男性を助け起こし、次いでまだ半ば凍っているトラックのドアをこじ開けて、運転手を引っ張り出した。
「ここは危険です。最寄りの陰陽局で保護して貰って下さい。あそこ強めの結界が張れるはずなんで。出来れば通行人にも呼びかけて」
歩道まで導いてから、根岸は二人の人間に言って聞かせる。
「ここからだと、ええと……愛宕局が一番近いです」
「は、はあ」
汗ばんだ額を撫でて、運転手は相槌を打った。彼は頻りに根岸の抱える槍を見つめている。
「あんたは一体……?」
「僕は――特殊文化財センターの者です」
正確には備品だ。
いくらか強引に二人の背を押して逃がした所で、人の姿に戻った諭一がやって来た。隣にやや小柄な、パーカーを着た少年を連れている。
「諭一くん。その人も避難……うわっ!?」
話しかけようとして、根岸は思わず仰け反った。
諭一の隣に立つ少年が、目深に被っていたパーカーのフードを外したのだ。その顔面には歪な形の穴が空いていて、目も鼻もなく、笑みの形に両端を吊り上げた大きな口だけが残されている。
「何スか人の顔見てビビッて。東京の幽霊はメン弱っスね」
少年は楽しげとも不服げともつかない口振りで零す。
よく似た匂いの餓鬼が周囲をキャッキャと走り回っているので、紛れて分からなかった。彼も怪異だ。それも西日本山間部では高名な――
「ヒダル神……?」
「そうそう! ネギシさん知ってて良かったー」
諭一があたふたと両者の間に割って入った。
「辺路番、頼むよ。ここに来てヘソ曲げたりしないでよ。知らずにキミと顔合わせたら都民でも誰でも驚くって」
「ヘソなんか曲げねっス。驚かれるのは怪異の本望っス」
辺路番という呼び名らしいヒダル神は、鼻先を上向けて腕を組んでみせる。
そんな彼のすぐ頭上に、リンダラーの生首がぬっと現れた。
「あら。その子誰?」
「わーっ!?」
「ぎゃーっ!?」
文字通り仰天させられる辺路番と諭一である。
結局のところ怪異同士でも、馴染みのない外見に驚かされる事は珍しくない。




