第88話 灯火の尖塔へ (9)
槍を引き抜いた直後、『サーシャ』に化けていた人狼の肉体は呆気なく消滅した。
怪異は死骸を遺さない。何度か見てきた光景だが、その度に物悲しい感情に襲われる。自分が手を下したとなると、それに加えて罪悪感も募った。
「根岸くん、大丈夫か!?」
狼の姿の陸号が走ってきた。背中に負傷したペトラを乗せている。
「キミ実は凄かったんだなあ」
「いえ、今のは槍のお陰で」
「ちょっと! 謙遜なんかしてる暇はなさそうよ」
リンダラーが駆け寄る、と同時に彼女は、首と内臓を身体から浮遊させて強い赤光を放つ。
陸号に追い縋ろうとしていた人狼の群れが、一斉に鳴き声を上げて怯んだ。
リンダラーは即座に再び身体へと納まると、「怪我人はあっちへ!」と事前に決めていた退路を指し示す。芝公園の方角だ。
「おれ、人間達に通行止めかけてくる!」
ようやく翅を広げられたチャチャイが、いち早く大通り目がけて飛び去った。
「精気を集めて武器を『編み上げる』タイプの天狗ならともかく、牙や爪が武器の怪異とあたしの能力は相性が悪い……」
陸号とペトラを先に行かせた上で、リンダラーは後方の人狼達に目を眇める。彼女の異能で出来るのは、霊威で結ばれ編まれたものを『解く』事までだ。強力だが攻撃性はそう高くない。
「変身の解除なら出来るだろうけど。でも人狼は獣の姿の方が本性だからね」
「集団を怯ませてくれるだけでも十分です」
根岸の方は、血流し十文字という頼れる味方が出来たとはいえ身体も力も人間並みである。獣の群れを相手に大立ち回りとは、とてもいかないだろう。
と――その十文字が、不意に穂先を上向けた。
『来おるぞ』
ごく端的に、十文字が警告の言葉を吐く。
直後、根岸の耳もまた微かな異音を捉えた。
「リンダラーさん!」
咄嗟に根岸は、リンダラーの腕を引く。屈めた肩口と耳元を、高速の何かが掠め飛んでいった。
(銃弾!? いや違う!)
切れた耳朶の血を拭って、根岸は地面に転がった飛来物を見遣る。
どこにでもある小石だ。それが弾丸と同等の速度で、しかも複数飛んできた。
これと似た攻撃を、根岸は天狗の里で受けている。
「――それじゃ、天狗とやり合ってみるかい? ピー・ガスー」
頭上から響く、嘲るような声音。
思わず根岸は視線を空へ向ける。しかしそれは失敗だった。
唐突に、間近のアスファルトが砕ける。振動でバランスを崩した根岸とリンダラーは、足首を強かに打ち据えられ引き倒された。
「あッ――何!?」
リンダラーがタイ語で口走る。
二人を襲ったのは、アスファルトと半ば同化した、砂塵で出来た蛇だった。新たな怪異かと根岸は警戒したが、しかし蛇からは怪異の匂いもせず意志も感じない。
――礫塵使いである伽陀丸の術か。
そう根岸が思い当たった時には、既に蛇の尾が右腕に巻き付いていた。血流し十文字諸共、地面に繋ぎ止められた形だ。
目にも止まらないほど俊敏な動きだったにもかかわらず、砂塵の蛇はずっしりと重く、骨がへし折れるかと思うような圧力が腕を絞め上げる。
「ぐ、う……リン……っ!」
リンダラーの安否を確かめようと根岸が呼びかけた矢先、その視界が猛禽類の翼によって阻まれた。
伽陀丸が、根岸のすぐ目の前――リンダラーの真上に舞い降りたのだ。
「ピー・ガスー、あの異能は」
地面に倒れたリンダラーの首根を片手で掴み、伽陀丸はごく冷静な口調で告げる。
「身体と繋がったままじゃ発揮出来ないものだな?」
「くっ……!」
リンダラーは苦しげに歯噛みした。推察は当たっていたらしく、伽陀丸が魔眼の毒を篭めた短剣を片手に現出させても、首を押さえられたリンダラーは反撃出来ずにいる。
根岸は焦りに駆られた。このままではリンダラーが魔眼の毒にやられる――だけでなく、先程彼女が追い払った人狼達が、今にもこちらに迫ろうとしていた。毒と牙、どちらがマシな殺され方かなどと考えたくもない。
「よせっ、彼女を離せ!」
無理矢理にでも根岸が身を起こそうとした、その時だった。
「循環れ山風ッ!」
声と共に、ごうっと音を立てて凄まじい突風が通りを駆け抜ける。
まともに浴びた人狼達は軒並み吹っ飛ばされた。根岸も再び地面に突っ伏す羽目になる。
しかしそれよりも衝撃を受けたのは、まさに今リンダラーのこめかみを貫こうとしていた伽陀丸の短剣が、刃の根本から折れ飛び、路傍に転がるなり黒い煤となって崩れ落ちた事だ。
「な――」
瞠目した伽陀丸が短く呻き、翼を羽ばたかせてその場から飛び立つ。空中に撤退した彼は、突然痛みを覚えたかのように右目を押さえた。
「ヴィイの魔眼が……っくそ、この術はまさか!」
伽陀丸が憎々しげに睨み据えるその先には、彼と同じく猛禽類の翼を広げ、街灯の上に降り立つ志津丸の姿があった。
愛用の得物である薙刀を手にしているのかと思えば、そうではない。
志津丸の肩に担がれた、彼の片翼に匹敵する大きさのそれは、羽団扇だ。
螺鈿細工を思わせる複雑な光を湛えた羽団扇に、根岸はピンと来るものがあった。
「天狗の羽団扇! あれが、山を統べる大天狗の証……!」
子供向けのおとぎ話にもしばしば登場する、天狗の象徴ともいうべき神秘の道具である。
最も有名な説話は、羽団扇に扇がれた人間の鼻が伸び縮みするというものだろう。
とある小悪党が天狗から羽団扇を盗み、他人の鼻を伸ばしたり縮めたりして困らせた末に、今度は自分の鼻を天高く伸ばされる。鼻の先は天の川まで届き、天人の橋の柱代わりにされてしまう。
そんな何とも荒唐無稽な物語だが、怪異学上、この話の肝はどこにあるか。
通常の人間には得られるはずのない他種族――怪異の力を体内に取り込ませ、そしてまた取り出せる。
体内循環霊威の異常化と正常化こそが、羽団扇の力なのだ。
「何やってんだよ伽陀丸。オレの右目が~って中二病かよ」
ふんと鼻先で息をついて、志津丸は挑発的な物言いをする。
そんな用語を天狗が知っている方がどうかと思う、とこっそり根岸は考えた。人間のゲーム友達あたりから聞いたのだろうか。
「ヴィイの魔眼の力なんざ無理矢理埋め込んだところで、天狗の身体にとっちゃ異物でしかねえ。――使いこなしきれてねえんだろ」
羽団扇の先端が伽陀丸の方に向けられる。
「だから循環風の術で……霊威を『正常化』しただけで簡単に崩れる。拒絶反応ってやつ」
「どうやってそれを奪った」
片目を塞いだまま伽陀丸が問いかけた。
「瑞鳶にはもう、羽団扇を現出させるだけの力なんか残ってなかったはずだ!」
「雁枝のばあちゃんが助けてくれたんだよ。つうか奪ってなんかねえっての」
どっちかというと押し付けられた、と志津丸はもごもご言いかけて、しかし思い直した風に伽陀丸を見据える。
「……託されたからには」
彼の手の中の羽団扇が、その彩りの鮮やかさを増した。
「受け継いで、守り通してみせる。里の皆も、オレの仲間も全員だ! これ以上馬鹿やらかすってんなら、お前とはこれっきりだぜ伽陀丸!」
きっぱりと、志津丸は決別を告げる。
対する伽陀丸は軽く呆れた様子で目を細めた。
「今更か。相変わらずお前はガキだな。現状維持しか望まない年寄り連中にいいように利用されて、それでご褒美貰えれば満足か」
「てめっ……」
「まあいい、俺もミスったよ。最初に瑞鳶を殺しきれなかった以上、こうなると予測するべきだった」
憤りを見せる志津丸を前に、伽陀丸は空いた両手をだらりと下げた。
その両手に、さらさらと微かな音を立てて砂粒状の物質が収斂していく。
現れたのは、先程まで彼が武器としていた針のような形状の短剣とは異なる物だった。
二振り一対の短剣なのは変わりないが、刃渡りはいくらか大振りで、片刃に鉤状の凹凸が等間隔で並んでいる。
「毒で死ねた方が楽だったぞ」
伽陀丸の口元に酷薄な笑みが浮かんだ。
志津丸は瞬時に羽団扇を薙刀へと変形させ、油断なく身構える。
根岸は、ふっと右腕が軽くなるのを感じた。見れば、彼を地面に縛りつけていた砂礫の蛇が消えている。
伽陀丸は一騎打ちに専念するつもりらしい。根岸の元から消え去った蛇は、志津丸が立つ街灯を素早く這い登り鎌首をもたげる。
しかし蛇が志津丸に食らいつく直前、その首はあえなく薙ぎ払われ砕け散った。
薙刀を一閃させた志津丸は柄を回して再び構えを取り、旋風を伴って街灯から飛び立つ。
「試してみろよッ!」
息つく間もなく距離を詰め、斬りかかる志津丸の太刀筋に最早迷いはなかった。
伽陀丸は危ういところで薙刀の刃を押し止め、羽ばたいて後退する。その顔から余裕が消えた。
「ちっ――」
「毒で死ぬのが楽だぁ!? 甘柿は最後の最後まで苦しんだんだよっ! 皆を――師匠を助けるためにだ! テメーが楽だと思いたいだけじゃねーかヘタレ野郎!」
「……知った口を!」
激しい鍔迫り合いの音が高空へと舞い上がる。
その下で、根岸は急ぎリンダラーを助け起こしにかかった。
「リンダラーさん、立てますか?」
呼びかけつつ手を差し伸べると、彼女はどうにかこちらの手を取って立ち上がる。
伽陀丸は志津丸が引きつけてくれたが、まだ敵は数多い。一旦、彼らは私有地と思われる細道に入った。
「けほっ――ああもう――シヅマルへの借りが増えたじゃない、やんなっちゃう」
と、リンダラーは首を擦り、ぶつかり合う天狗達を睨み上げる。
「あのカダマルって奴は、何考えてるわけ?」
「僕にも何とも」
「現状維持を望む年寄りがどうとかって。人間の革命家気取りかしら。ああいうの日本にもいるのね」
「そちらにも? タイ王国はかなり怪異と人との融和が進んでるとか」
「よその国の報道って美化されるものでしょ。言うほど都合良く行かないって、こういうのは。……周辺国とも色々あるし」
近代、そして怪異パンデミック後に東南アジアが辿った歴史は極めて複雑だ。日本生まれの根岸としては迂闊な意見は言えない。
彼が「ああ……」と曖昧な相槌を打ったその時、これまでとは異なる、しかもただならぬ音が響き渡った。
複数のタイヤが急ブレーキに軋む音――そして衝突と破砕の音。
「車っ……!?」
「チャチャイが向かった方角!」
二人は弾かれたように顔を上げ、即座に音の源目指して駆け出す。
そして根岸の耳に、更なるありがたくない咆哮が届いた。
「るうぅ――ぎぃええええええッ!」
機械の駆動音にも似たブギーマンの特徴的な声、その中でもとりわけ重々しいこの響きは。
「『エルダー』が来た……!」
槍を担ぎながらの全力疾走で息の上がる中、根岸はひとり呟いた。




