第74話 恩讐、峰々を穿ちて (5)
……泣いている。
以前にも暗闇の中で見た。あの時の少女だ。
根岸の知るはずもない、恐らくは遠い昔に生きていた、小袖姿の少女。
何故知らない少女の姿が、こうも根岸の目に焼き付けられているのだろうか。
何故彼女のすすり泣く声を聞くと、こんなにも胸が痛むのだろうか。
「……のです」
少女が、何かを根岸に訴えかける。すぐ目の前にいるというのに言葉が聞き取れない。
この感情の名は――
◇
「……根岸。根岸ッ!」
勢い良く肩を揺さぶられ、根岸ははっと目を見開いた。
周囲を見回せば、そこは天狗の里。瑞鳶の屋敷の玄関前である。
地べたに座り込む根岸を、志津丸と阿古、それに芳檜と桜舞が取り囲んでいた。
「おまっ……何やってんだよ。急にボケーっとしたかと思ったら座ったまま居眠りしやがって。マジ焦るっつの」
ふーっと大きく安堵の息を吐いて、志津丸が肩を落とした。
「い……居眠り?」
「ああ。そこの呪物の槍をケースから出して、柄を組み立て終えたところで急に座り込んで」
芳檜が根岸の手元を指差す。
確かに根岸は、血流し十文字の柄を握っていた。この伸縮式の手作りの柄は、普段は分解されて槍の穂と共にアタッシュケース内に仕舞われている。
「アー?」
阿古が鳥らしい動きで首を傾げた。彼なりに心配してくれているらしい。
「きっと、慣れない神隠しリフトで続けざまに往復したせいよ」
と桜舞が言う。
「おまけに重態の柳葉と雁枝様を搬送しながら。あたし達ならともかく、幽霊にとっては重労働じゃない? 貧血か何か起こしたんでしょ」
桜舞の言うとおり、神隠しのリフトが根岸は苦手だ。
しかし少しばかりショックだった。特殊文化財センター勤めとして、発掘現場でも山道でも荷物を抱えて歩き回るのには慣れているし、救命講習も何度か受けているというのに、こんな所で腰を抜かすとは。
「すみません、もう大丈夫なんで――ええと――柳葉さんは?」
槍の柄を杖替わりに、根岸は重い身体を起こした。幻覚に囚われていたせいか、まだ軽く眩暈がする。殯の異能の発動直後に似た症状だ。
「里の医療所に運んだ」
屋敷の門を潜って、瑞鳶が現れた。
「甘柿と須佐が治療にあたっとる。あいつらァ暇な時はビール造りなんぞに熱中しとるが、本来は二人とも妙薬調合の異能持ちだ。きっと助けられる」
「そうですか、甘柿さん達が」
一先ず、根岸は胸を撫で下ろす。
「礼を言うぞ根岸くん。志津丸もだ、この事態の中よう動いてくれた」
「師匠」
率直に褒められた志津丸が、むず痒そうな表情を返す。
「えっと……次はリフトだ。壊れちまってる。それにあの敵、何だったんだ一体? ミケや諭一は?」
「落ち着け志津丸。一つずつだ」
瑞鳶は弟子を宥めた。
それから彼は懐を探り、携帯電話を取り出す。珍しい型で、よく見ればシニア向けのガラケーである。
そういえば瑞鳶は、四百歳にしてメールを使いこなすし千里眼と呼ばれる異能持ちだが、LINEやSkypeを使うのが苦手らしい。ミケから聞いたそんな話を根岸は思い出した。
「ミケ坊にはさっき電話をかけてみたんだがな、どうも天狗の里全体に外界の電波が届かなくなってるようだ。神隠しリフト内にアンテナを立ててたから、そいつが壊されちまったんだろう」
「えっ、だとすると陰陽庁への通報も?」
「外に出なけりゃァ難しい。しかしリフトの復旧には、人間の技術者の手を借りにゃならん、と来たもんだ」
瑞鳶は苦い顔をする。
あのリフトの完全な復旧となると、人間の技術者を連れてきても相当大変だろう、と根岸は、つい先程まで味わっていた苦労を振り返った。
怪異用のリフトはベンチ部分がほぼ全壊。ワイヤーも途中で破断していた。
根岸と志津丸が柳葉を搬送するのにはとても使えず、彼らは人間用のリフトを動かした。しかしこちらも思ったより状態は酷く、翼で飛べる志津丸が脱線しそうなベンチを力ずくで支えて、やっとの事で里まで戻れたのだ。
「とにかく最低限の修理はしよう。その前にだ、根岸くん」
と、瑞鳶は赤みを増した銅色の目で根岸に向き合う。
「何度も行き来させて悪いが――君は至急外に出て、安全な場所まで着いたらミケ坊たちに連絡を入れてくれ」
「分かりました」
根岸は強く頷いてから、ふと頭に疑問を過ぎらせた。
「リフト修理の前に、僕を里の外へ? 他にも出入口があるんですか?」
「この里を覆っている結界を、一部解除する」
ごくあっさりと回答が寄越され、根岸は目を瞠る。
縄張りを持つ怪異にとって、結界は己の領域の証明。他者の侵入を妨げ、また内部で起きた異変を把握するためのもの。眠りながらでも維持し続けるのが普通である。
雁枝の音戸邸もそうだし、新宿の旧戌亥小学校もそうだ。
「それはっ……大丈夫なんでしょうか」
「そうしなきゃ修理の作業もしようがねえからな。ここに立て篭もったところで話は進まんのさ。なに、君ァ心配すんない」
そこで天狗の頭領は、周囲に控える若天狗達を見回す。
「儂は屋敷内で、結界の解除を執り行う。お前達は戦いに備えろ。お客人をきっちり守るんだ。余程の《《はぐれもん》》でない限り、人狼は単体では動かねえ……恐らくまだ『敵』はそこいらにいる」
「承知ッ!」
芳檜が拳を手の平で叩いて気合を入れた。
◇
そういう訳で根岸は、現在里の外れまで来ている。
瑞鳶も謝ってくれたが、先程から行ったり来たりと忙しい。
「ここからが……結界の外ですか」
簡易な木柵が立てられ行き止まりとなった小路。
そこに来るまでは草木がある程度刈られ、手入れが成されていたが、柵の先からは急に高い木が林立し、鬱蒼とした森になっている。
血流し十文字を肩にもたれさせた根岸は、空いた片手を木柵の向こう側へ伸ばしてみた。
柵は根岸の膝上くらいまでしかない低いものだが、その上の虚空に見えない壁が伸びている。
壁といっても硬さは感じない。温度もなく、手の平で叩いても痛くはない。ただ不可思議な抵抗力が働き、壁の向こう側に手を突き出すことは出来なかった。
不可視の壁は長大に広がり、里全体を不定形に覆っている様子だ。
怪異の張る結界らしいな、と根岸は感想を抱く。こういう掴みどころのない結界術は怪異の得意技だ。『未掟時界』をはじめとした人間の使う方術は、もっと理路整然としている。
「この場所の結界を、今から瑞鳶さんが解除するんですね?」
「そういう手筈だ」
芳檜が根岸の隣に並ぶ。現在の彼は洋服を山伏装束に着替え、分銅鎖で武装していた。
「頭領の屋敷の奥の間には、四百年間結界を維持してきた呪物の錫杖が突き立てられてるの。瑞鳶様を筆頭とする、この里を開拓した方々が、四人がかりで張り巡らした術って話よ」
華やかな和装の帯に鉄扇を挿した桜舞が説明する。
「他の三人の創始者は、もう寿命で消滅したけどね。でも、結界の維持や部分解除は瑞鳶様なら一人で出来る。ダテに高尾天狗の頭領四百年やってないわよねぇ」
「と言うと、以前にも結界の部分解除をしたことが?」
「もちろんあるわ。そもそも人間と提携してリフトを建設するには、一旦結界を解除しなきゃならなかったし。それがざっと六十年前で……その後も、故障や部品交換は何度かあったもの」
「桜舞は神隠しリフトの建設見てるよな。六十ちょいだし」
「やーだ志津丸。齢バラさないでよ悪い子ねぇ」
デリカシーないわぁ、と愚痴って側頭部の羽毛をいじる桜舞に対して、根岸は思わず口をぽかんと開けた。怪異の年齢は見た目どおりと行かない、それは十分理解しているつもりだが、未だに驚かされる。
木柵とは反対側の小路の先、リフト乗り場のある空き地では、他の天狗達が慌ただしく立ち働いているのが伺えた。
「リフトの方は?」
「主電源は落としました! あとは結界が解除されれば作業に移れます」
「武器を扱えない者は屋内待機だ。特に子供は出歩かせないように!」
鳥に似た両脚を持つ天狗が翼を広げ、空中から周辺の家々に呼びかけて回っている。
「志津丸さん、阿古くんは?」
「家に帰したぜ。あいつはまだ戦えねえからな」
「それなら安心――」
「カアー!」
根岸の言葉を遮るように、背後から聞き覚えのある鳴き声が沸いた。
慌てて振り向くと、帰宅したはずの阿古がそこに羽ばたいている。
「阿古!? コラァお前、帰れつっただろ!」
「ケェーッ! カアアッ!」
眉尻を吊り上げて怒る志津丸の正面まで飛んできた阿古は、何事か頻りに声を立てた。明らかに切実な様子で、ほとんど泣き叫んでいる風にも聞こえる。
「阿古くん、何が……」
これはただ事ではなさそうだと根岸が問い質した時、阿古のやって来た方角から草を踏む音が聞こえてきた。
酷く不規則で、足を引きずるような物音である。
「あ……阿古、志津丸っ……!」
息も絶え絶えの呻き声と共に、その人影は這いつくばりながらも現れた。
「……甘柿……!?」
志津丸が彼の名を呼び、息を呑む。
木の陰から姿を見せた甘柿の顔色は青ざめ、土気色を帯びつつあった。鼻と口からだらだらと血が流れ落ち、地面についた手指の爪からも色が失われている。
「なッ……なんてこと、甘柿っ!」
「一体どうした! おい!」
桜舞と芳檜も泡を食って走り寄る。
その間にも甘柿の身体を支えていた腕の力は失われ、ずるりと地面に身を伏せていった。
「か、甘柿さん! しっかり!」
彼の傍らに膝をついて支えようとした根岸は、白地の着物の脇腹にじわりと血が滲んでいる事に気づく。
口や鼻から流れ出た血が付いた訳ではない。これは刺し傷だ。ごく細いナイフか、錐のような刃物で刺された痕跡がある。
甘柿がむせ返った。その拍子に大量の血反吐が口から吐き出され、その場に赤黒い水溜まりを作る。
――外傷のせいだけの症状とは思えない。根岸は咄嗟にそう考える。有毒物質にでも体内を侵されたかのようだ。
「い、医療所が……襲われて、須佐も……あいつに」
一言ごとに、声は弱々しくなる。隙間風のような呼吸音が途切れ、血走っていた目が閉ざされた。
「あいつ――? 甘柿っ! 目を開けろ、開けてくれっ!」
芳檜が甘柿の身体を抱え上げる。しかし彼の肉体は、既に風の中に溶け消え始めていた。
「頭領……が……危ない……」
最後に、全力で意志を振り絞ったのだろう。甘柿ははっきりとそれだけを口にして、直後にがくりと四肢を弛緩させた。
魂を喪った怪異の肉体が、避けられない運命として薄れゆく。
ほんの数十秒ののち――根岸も若天狗達も、騒ぎに気づいて集まってきた何人かの天狗も、誰ひとり事態を把握出来ない中、甘柿の遺体はその場から消滅した。
「何が……っ、こんなことが……」
呆然と根岸は呟く。
腕の中で友人の命が消えるのを目の当たりにした芳檜と桜舞は、肩を震わせて俯いている。
とても直視していられず、目を背け、後方の木柵に寄り掛かった根岸は、そこではっと気づいた。
「結界が……消えてる」
木柵の向こう側へ倒れ込みかけたのだ。
不可視の壁は消え、そこにはごく頼りない柵と木々が立つのみ。
つまり、瑞鳶が結界の解除に成功したという事になる。しかし――
――甘柿は最期に言い遺した。頭領が危ないと。
「志津丸さん!」
「ああ分かってる」
志津丸と視線をかち合わせた瞬間、根岸はいくらか怯んだ。
生来鋭利さを帯びる彼の両眼は、今や灼けた鉄のごとき赤光を宿していた。怒りと悔恨、あらゆる激情によって、霊威の制御が利かなくなっているのだろうか。
「師匠の屋敷だ! オレはそっちに向かう、みんなは医療所を頼む!」
返答を待つことなく、志津丸は翼を広げる。容赦のない山風がその場に吹き荒れたかと思うと、彼は風をまとわせ、猛禽類を遥かに上回る初速で高空へと飛び立った。




