第70話 恩讐、峰々を穿ちて (1)
狼の牙が根岸に迫る。
噛みつく、などという生易しい挙動ではない。頭を丸ごと齧り取るつもりだ。
血流し十文字をケースから取り出している猶予はなさそうだった。結界構築のためのスペル・トークンは、この旅行に持ってきていない。原則、プライベートでの携帯は禁止されているのだ。
「……っ!」
残された僅かな選択肢の中から、根岸はリフトから飛び降りるという手を選ぶ。どこへ落ちるのかは知らないが、今すぐ首から上を失うよりはマシだろう。
暗闇に身を投じた根岸のほんの数センチ後方で、居並んだ牙が虚空を噛む。獲物を逃した怪異は唾液を撒き散らして憤慨した。四つの脚でベンチをひしゃげる程に蹴立て、黒狼が更に追い縋ってくる。
その時、自由落下する根岸の襟首を、猛スピードで駆けてきた何かが咥え上げた。
「根岸さん、無事か!」
ミケだ。たてがみの燃え盛る巨獣の姿を取っている。
「ミケさん!」
礼を述べようとした根岸だったが、それ以上の言葉を紡ぐより先にミケは、大きく首を振って根岸と雁枝の身を前方へと放り投げた。
「志津丸っ! 根岸さんと御主人を頼む!」
ミケが呼びかけた方向には、翼を羽ばたかせる志津丸がいた。既に服装も、スカジャンから金地の山伏装束に早変わりしている。彼は「おう!」と鋭く応じ、キャリーケースを抱える根岸を背中から抱き留める。
「根岸、ばあちゃんは? まだ寝てるか!?」
「――ええ多分」
コードレスなバンジージャンプの連続に目を回しかけていた根岸だったが、どうにかそれだけは答えた。雁枝も血流し十文字も、ついでに自分の着替えなどを入れたバックパックも、一応無事だ。
「リフトに戻れ! 先に行ってろ!」
そう言い捨てて、ミケは二人に背を向ける。彼は飛びかかって来た狼を真っ向から迎え撃った。
サイレンと人間の悲鳴の混ざり合った威嚇の咆哮が、闇の中に響く。
既に聞き慣れた根岸ですら一瞬首を竦める程の、怖気を伴う絶叫である。ミケと睨み合う黒狼は耳を引き倒し、僅かに後退した。が、怯んだのも束の間、狼は負けじと勢いをつけて虚空を蹴る。
ミケの燃える胴体に狼の巨体が組み付き、横腹に噛みつこうとした。急所狙いの一撃必殺ではなく、乱撃による失血を狙うイヌ科の狩りだ。
しかし巧みに身を躱したミケは、逆に相手の身体へと容赦なく四肢の爪を突き立てる。
「グルゥアアアッ!?」
黒狼が苦痛に悶えた。仰け反ったその喉笛をミケの牙が貫く――かと思えた時。
突然、ミケと根岸達の間に立ち塞がるものがあった。
風もない暗闇の中を翻るのは、白い布。それも色褪せ、泥と埃にまみれ、血痕までもこびりついた、ぼろぼろの大判の布だ。現在のミケの全長に匹敵する程の大きさで、その下に何かを覆い隠しているようだった。
何か――何者か、だろうか。
布の上部には三つばかり雑に破いた風の穴が空き、そこから二つの眼と口が覗いている。辛うじて人間の顔に見えなくもないが、飛び出した眼球は濁りきって瞼の有無も定かでなく、尖った乱杭歯の並んだ口は歪に捩じれていた。
「るぅうぎぃぃえええええええっ」
布の下から、何者かが声を上げた。人とも獣とも異なる、背筋を凍らせるかのような音色だ。壊れた金属機械を無理矢理稼働させた時の不吉な振動音、という表現が、多分一番近い。
「あれは!?」
根岸は動転し、ひりつく喉から言葉を絞り出した。
写真でしか見た事のない怪異だ。日本で顕現した事例はごく僅かである。
北米大陸、特に現在連合国アメリカに区分される地域に多くの個体が発生しているというが、その実態は定かでない。
「まさか『ブギーマン』……!」
根岸の口走った名に、志津丸は顔をしかめる。
「ブギーマンだぁ? まーた舶来種かよややこっしい!」
悪態を吐きながらも、志津丸は臨戦態勢となり、空中から薙刀を取り出して片手で構えた。
もう片方の腕には根岸を抱え、その根岸は雁枝と十文字を抱えているのだから、動きづらい事この上ないはずだ。
「あンま仲良くやろうって雰囲気じゃねーよな」
「少なくとも、ブギーマンと人類との間に交渉が成立したケースは知りませ――」
根岸が回答し終える間もなく、不気味に揺れる布の塊が大きく動いた。
「るぅあああァアアアッ」
ブギーマンが志津丸目がけて飛ぶ。めくれ上がった布の下から、三本の黒ずんだ腕が現れた。
痩せこけて折れ曲がった、爬虫類のミイラのような腕だ。根岸は子供の頃に、祖父母の家の裏庭でうっかり雨樋に挟まって動けなくなったらしいトカゲの死骸を見たことがあるが、それを思い出した――全く思い出したくもなかった。
「くそっ!」
突風を伴って、志津丸の薙刀が閃く。ブギーマンは一旦風圧に押されて退いたものの、ぬるりと進行方向を変え、ほとんど真上に近い位置から再度こちらへ腕を繰り出す。
枯れ枝のような腕が一振り、避け損ねた志津丸の翼を掴んだ。
「痛ぃってえなぁ! テメ離せッ!」
翼をぎりぎりと締め上げられる痛みの中、志津丸は抗う。しかし明らかに体勢は不利だ。
ブギーマンの残る二本の腕が、根岸の喉元と彼の抱えるキャリーケースへと伸ばされる。根岸は夢中で身を捩った――しかしこの状況で、どこまでいなせるだろうか。
「フシャーッ!」
突如至近距離から、鋭い猫の威嚇音が吐き出される。
ミケだ。人間の姿に化け、黒狼との鍔迫り合いを擦り抜けてきたらしい。
目にも止まらない速度でブギーマンへと間合いを詰めたミケは、標的の側頭部――と思われる箇所――に蹴りを叩き込む。
ブギーマンが奇怪な鳴き声を上げて吹っ飛ばされた。ミケはなおも追撃する。自身と数倍の体格差がある怪異の布切れの端を掴むなり、背負い投げの要領で黒狼へと投げつけたのだ。
「ギャッ!」
黒狼とブギーマンがもつれる形で虚空を転がり、根岸達から遠ざけられる。
「どこの誰だか知らんが、そんなに悪さしたいってんなら俺が相手をしてやる!」
金と朱に両眼を光らせて、ミケは告げた。全身から火の粉が舞い散る。彼が本気の怒りを発露した証だ。
「な――なるほど――」
ぐう、と喉奥で苦悶に唸りながらも、黒狼が初めて人語を口にした。
「これが音戸の怪猫。聞いたとおりの実力だ、間違いなさそうだな……」
「聞いたとおり?」
根岸は狼の言葉を繰り返す。
相手はミケを間接的に知っていたらしい。確かにミケは顔が広く、そこらじゅうに知り合いがいるようだが、しかしブギーマンと同じくこの狼もまた、日本の生まれではなさそうだというのに。
狼は古くから人に畏れられた獣であり、その姿を象る怪異は数多い。しかしこの黒狼は恐らく――人狼だ。欧州広域でその存在を語られ、近年、巨竜の巻き起こした東欧動乱によって世界各地を流浪する事になった種族。
「ブギーマン!」
唐突に、黒狼が呼びかけた。
「風穴を開けろ!」
「ぎぃ――いいイイイッ」
ブギーマンが呼応し、布に覆われた身体を大きく震わせる。
途端、根岸は猛烈な突風に身体が押されるのを感じた。
自然界の風とは異なる。志津丸が起こしたものでもない。重力の方向が変わったかのように、この空間のある一点――ブギーマンのいる位置に向けて、強い吸引力が働いている。
「何だっ!?」
志津丸も異変に気づき、大きく翼を広げて抵抗する。志津丸と彼に抱えられている根岸は、どうにかその場に踏み留まった。
しかし黒狼とミケは、位置が近過ぎた。
「ちっ、こいつは……!」
舌打ちをしてその場から飛び退こうとしたミケの身体が、黒狼共々根岸達から大きく引き離される。何処ともつかない虚空の彼方へ、彼らは引き込まれようとしていた。
「ミケさん! これはブギーマンの異能です! 彼らは空間穿孔能力を持つ怪異だ!」
届くはずもないと分かってはいたが、根岸はミケに向けて力の限り腕を伸ばし叫んだ。
古来、人間が『異界』と認識し恐れてきた領域がある。
村里の境となる山、辻の交差地点、川の向こう岸に橋のたもと。黄昏刻に彼誰刻。クローゼットの中、ベッドの下……
ほんの身近な場所であっても、『視界の外の暗がり』や『運命の分かれる場』には得体の知れない何かが潜んでいるかもしれない。人はそんな怯えから逃れられなかった。
中世英語における『恐ろしいもの』が呼び名の由来と言われるブギーマンは、そうした人々の恐怖を象徴する異能の持ち主である。
彼らは暗がりから暗がりへと渡り、寝室のクローゼットの中から現れたかと思えば、ベッドの下から子供の足首を掴む。
つまり、人が恐れを抱く領域への瞬間移動能力を具えるのだ。
一部の水妖や強力な怨霊も持つこの力を、怪異学界は空間穿孔と呼んだ。天狗の神隠しもまた、空間穿孔の発展版と言える。
ブギーマンはまさに今、天狗の開けた空間の坑道に、新たな風穴を穿とうとしている。地上のどこに繋がるかも分からない出口を。それにミケが巻き込まれる。
「ミケーっ!」
志津丸が絶叫し、ミケの方へ飛び立とうとした。
「志津丸、来るなっ! 出口へ向かえ!」
濁流のような闇の中に紛れ、姿の見えなくなりつつあるミケの鋭い制止の声が響く。
「諭一や――柳葉が気掛かりだ! 無事を確かめて――」
声は掠れ、途中でぷつりと消えた。
黒狼とブギーマンの姿も、既にどこにも見当たらない。真っ暗な空間に、根岸と志津丸だけが呆然と取り残されている。
「ミケっ――」
「志津丸さん!」
力無く、行き先も見失った様子でふらりと羽ばたきかけた志津丸を、根岸は慌てて引き止めた。
同時に、先程までミケの方へ伸ばしていた手で、近づいて来たリフトの柱を掴む。椅子の部分が悲惨なまでに破壊されていたが、まだどうにか稼働はしていた。
「今は……一刻も早く、外に出ましょう!」
「ばっ、あいつを見捨てろっつうのかよ!?」
元々肩口を抱えられていた所から引っ張り上げられ、至近距離で志津丸に怒鳴られる。
「ミケさんがああ言った以上は――きっと大丈夫です……! そう思うしか……」
根岸も声を張り上げたい気分ではあった。
突然の襲撃に対して何も出来なかった自身への不甲斐なさ。この非常時にもミケの危機と諭一達の安全を、どこか冷静に天秤にかけている自身への苛立ち。そういったものを怒りに変えて吐き出したかった。
しかし彼はそんな真似が出来ずにいる。
「テメーの保証なんざ!」
志津丸はなおも言い募ったが、罵声の途中で口を噤み、ぐっと唇を噛んだ。
「……クソッタレ!」
ベンチの背もたれを蹴り飛ばしながらも、彼はリフトの進む方角を見据え、先程より力強く翼を動かす。心許なかったリフトの移動速度が上昇した。
程なく、視界の中央にぼんやりと白い光が灯る。それは瞬く間に大きく広がり、やがて根岸は、白色の正体がLED照明を反射する民家の壁紙だと気づいた。
麓の事務所へと、戻ってきたのだ。




