第59話 秋の初風、石のおと (11)
「ミケ、お前ねえ。不死だからって無茶はするんじゃないと、いつも言ってるだろう。死にはしないにしても、この強さの呪いに内側から侵蝕されて無事で済む訳ないじゃないか」
「……反省してるよ御主人」
夢うつつの中にいた志津丸の耳に、声を潜めた会話が届く。
彼は重たい瞼を上げた。瞼だけでなく、全身が疲労でずっしりと重い。見回した周囲の景色は馴染みのないもので、自分がどこで眠っていたのかも分からず、彼は目を瞬かせた。
八畳ほどの和室である。木造りの書棚と箪笥と、ノートパソコンの乗った文机が片隅にまとめられ、反対側の壁際には猫用と思われる丸い盆状のクッションが据えられていた。
その中に猫の姿のミケがうずくまり、雁枝が丸くなった三色の背を頻りに撫でている。
音戸邸の、ミケの私室にいたのだと、彼はようやく思い出しだ。
志津丸の身体は、部屋の真ん中に敷かれた布団の中に収まっている。自分で布団を敷いた覚えはないから、誰かに寝かされたのだろう。
――ヴィイの魔眼を呑み込んだミケを、志津丸は音戸邸へと全速力で送り届けた。
学校で請け合ってみせたとおり、ミケは魔眼をあっさり吐き出して、雁枝が結界を張った瓶の中にそれを封じ込める事で、とりあえずは一件落着となった。
が、ミケの身の内にはいくらか魔眼の毒が回ってしまったらしい。
雁枝の使い魔である限り死には至らないようだが体調は崩す。彼はチョコレートを誤飲した猫のように、寝床とトイレを行ったり来たりする羽目になった。
時間をかければ治せるから、志津丸はもう帰って医者に診て貰うようにと雁枝には言われ、遅れてやって来た陸号からも促されたのだが、彼はどうしてもミケの傍を離れたくなかった。
ミケは弱っているためか、未だ片目の傷も癒えておらず、閉ざしたままとなっている。
猫又も天狗も、そしてヴィイも、多くの怪異は強い霊威を眼球に宿す。その分、眼は弱点でもある。
もしこのままミケの眼も身体も治らなかったらどうする、どうすればいい、と考え始めると居ても立っても居られない気分だった。
そんな訳で志津丸は、寝床に丸まるミケの傍に付きっきりとなっていたのだが、どうやらいつの間にか寝入ってしまったようだ。
障子の向こう側は暗い。箪笥の上の置き時計を見ると、もう真夜中近くである。たっぷり半日以上も眠りに落ちていたという事になる。
「おお志津丸。起きたか、良かった良かった」
志津丸が身を起こすと、ミケが気づいて安堵の声を上げた。
それから彼はベッドから這い出して、部屋の隅の鉢植えの葉――ペットグラスの燕麦と思われる――をもそもそと齧り、
「ちょっともっぺん吐いてくる」
と部屋の入口、襖の方へ向かう。
襖には額で押し開けられる猫用ドアが付いているが、そこを通ろうとしたミケは狙いを外して鼻先を縁にぶつけた。
「いてっ。片目ってなぁ不便だな」
ぶつくさ言いながら身を屈め直し、廊下に抜け出したミケを見送って、志津丸はちらりと雁枝の方を見遣る。
「……あいつ、治るの? 目とか」
問われた雁枝は、当たり前のように頷いた。
「勿論さ。今は毒を抜く方を優先してるけど、そっちが終わったらすぐに全快するよ」
「あっそう……」
「あの子の心配してくれるのかい? ありがとうねえ」
雁枝に微笑みかけられた志津丸は、慌てて「別にっ」と明後日の方角へ顔を逸らした。
指摘されて気づいたが、何故自分がミケの身など心配しなければならないのだろうと、志津丸は独り考え込む。友人でも何でもない。寧ろついこの間悔しい思いをさせられたばかりの、どちらかと言えば敵だ。
(いや、いつかオレの手で、ぜってーぶっ飛ばしてやらなきゃならねえ相手だから)
彼はそう自分を納得させた。
今の志津丸はミケに、本気で戦わせる事さえ出来ない。いずれは打ち負かしてみせる。しかしそう心に掲げた目標の敵が、自分で食べた呪物に食あたりを起こして倒れるなどという事があって堪るものか。間が抜け過ぎていて悲劇にもならない。
むすっとしていたそこに、廊下の奥のトイレに篭もって「うえぇ」と不穏な音を漏らしていたミケが戻って来た。
「あー楽んなってきた。志津丸、お前さんはどうだ。どっかしんどい所ないかい。腹具合は?」
ミケは志津丸の胸中などどこ吹く風である。彼はいつもどおり煙を立てて猫から人間の少年に化けると、志津丸の目の前に腰を下ろして胡座をかき、寝癖のついた髪をくしゃりと撫でてくる。
人の姿を取っても、ミケの目の傷はそのままだ。人形のように整った造作であるせいか、爪痕の残る顔が余計に痛々しく見えた。
「いやまさか、お前が瑞鳶さんと同じ千里眼使いに目覚めるとはなぁ。助けられたよ、大したもんだった」
彼の声も、志津丸の髪を梳く指先も、優しい。
当然ながらミケは志津丸を敵とは見做していないし、彼が色々とやらかした事を怒ってすらいない。
志津丸がここ数日味わってきた無力感も、自分自身に向けた怒りも情けなさも、知る由もない。
何故だか急に、溜め込んできたあらゆる感情が頭の天辺まで迫り上がってきて、志津丸は上気した顔をその場で俯けた。
「大したもんって………なんにも、オレ……出来てねえじゃん」
佐藤真由の顔が瞼の裏に浮かぶ。
どれほどの変化の名人でも、架空の匂いまで捏造するのは困難だ。佐藤真由という人間の少女、あの下がり気味の眉尻が愛らしい少女は、恐らく実在した。志津丸の知らないどこかで人狼イーゴリに食われ、死んでしまったのだろう。
小塚の怯えた顔も浮かぶ。ただ家族を守りたかっただけの少年。志津丸は事情も知らず、彼を卑怯者のいじめっ子だと思い込んでいた。
そして、伽陀丸。
共に育ってきたはずの、兄弟と呼び合ってきたはずの、同じ峠生まれの天狗。
これほど間近にいながら志津丸は、彼の思いを何も知らなかったのだ。
伽陀丸がどんな苦悩に衝き動かされて、あんな行動を起こしたのか。今も理解出来ない。結局あの夜以降、冷静な会話など出来ず仕舞いとなった。
――兄貴、オレのこと嫌いだったの。
たった一言、そう真意を問う勇気も振り絞れなかった。
「もっと……れたのに」
絞り出された声音が、悔しいくらい勝手に震える。ミケが髪を梳く手を止めて、「志津丸?」と訊ねた。
それに反抗するかのように、志津丸は突如声を張り上げた。
「オレは、もっと助けられた! 守れるはずの場所にいた! 佐藤も、小塚も、小塚の家族も、伽陀丸も! 知ってさえいりゃあ! お前にだってこんな怪我させるはずじゃなかった! なんで何も出来なかったんだよ、なんでオレ、こんな馬鹿でガキなんだよ、ちくしょう!」
大粒の涙が溢れ、目の前で呆気に取られるミケの顔がぼやける。訳もなく彼の表情が小面憎くなって、志津丸は思わず掴みかかったが、伸ばした手は虚空を掻き、半端に下ろした所で、ふかふかした毛並みに触れた。
ミケがいつの間にか猫の姿に戻り、志津丸の懐の中に納まっている。
「……泣けてくるか。そうだよな。ここ数日で色々あり過ぎた」
吐息と共に呟いて、三毛猫は前足の肉球を志津丸の濡れた頬に添えた。
「なあ志津丸。瑞鳶さんは何故、お前を直弟子にしたと思う?」
唐突な謎掛けに、志津丸は目を瞬かせる。
「知らね……オレが、同じ風使いだから?」
「いいや」
「――馬鹿過ぎて目が離せねえから?」
「自虐が過ぎるだろ。なんでそう思考が極端なんだ」
髭をしかめてから苦笑すると、ミケは一旦閉ざした口を開いた。
「お前さんが、他の誰かのために本気で泣ける奴だからさ。五歳の頃、俺を山に引き止めたいと駄々をこねた時もそうだった。あの時のお前は、山の動物達から人間の怖い噂ばかり聞いていたから」
五歳――袴着の儀の頃まで志津丸は、山を訪れる人々の姿は目にしても、人の築いた大都市を訪ねた事がなかった。
ただ、山の小動物が人の街に降りれば、車に撥ねられ、檻に閉じ込められ、それは悲惨な目に遭うのだ、といった話は耳に入れていた。
そんな恐ろしい街に、せっかく友達になった猫を帰すのは可哀想だ。志津丸はそう訴え、ミケを抱えて泣き喚き、周囲の大天狗達と当のミケを困らせたらしい。
「覚えてねえし……」
「そうかい、俺は覚えてるよ。瑞鳶さんはそういう若天狗を見ると、どうにも世話を焼いちまうひとなんだ。自分が若い頃、同じ性分のせいで苦労したからかな」
そこでミケは、部屋の奥で二人のやりとりを見守っていた雁枝の方を振り返り、「なあ御主人?」と水を向ける。
雁枝は静かに唇の端を持ち上げてみせた。
「ああ、そうねえ……お前は本当に、あのスットコドッコイと似てるよ志津丸。お前の方がもう少しは可愛気があるがね」
「そういうこったよ」
ミケが志津丸へと向き直り、狭い猫の肩を器用に竦める。
「だからまあ、今この場でそうやって泣けるお前さんは、本当に大したもんなのさ。……天狗にも人狼にも言いふらしゃあせんから、好きなだけ泣いていけ」
それきりミケは、ごろごろと普通の猫のように喉を鳴らして、座り込む志津丸の胸元に額を押しつけるばかりとなった。
志津丸はミケを腕の中に納め、声を上げて泣いた。存分に泣きじゃくった。幼い日、今とそっくりな体勢でこの三毛猫に慰められた記憶が薄っすらと蘇る。その時と同様、ミケの滑らかな毛並みはすっかりべとついてしまったが、それでも彼は志津丸が泣き止むまで、身を離す事なく寄り添ってくれた。




