第20話 怪談の学校 (1)
怪異は裁けない。
日本をはじめ、多くの国でそれが常識とされて久しい。
人間が怪異と円滑に付き合うための法律や、怪異関連トラブルで被った金銭的損失を補償する制度は数多くあるが、怪異自体は人類には縛れない。
彼らの生態はあまりに多種多様で奇想天外である。そして基本的に、人間一個人より強く獰猛だ。
何より、『噂をすれば影』『触らぬ神に祟りなし』という諺どおりの習性を宿している。
怪異を束縛するような法律を成立させようとすると、怪異が化けて出る。そして祟る――そういう習性である。
選挙制度によって多くの人間の意向を代弁する者、つまり議員が、国家として正式な公文書を作成し立法を宣言しようとする。その行為がそのまま、人の意志を過剰に集積し、怪異を喚び出す儀式に繋がるのだ。
政治を指して『まつりごと』とはよく言ったものである。
結局のところ怪異に対しては、『通常行動は黙認、人間に対して一定以上の被害が出たら捕獲・排除』を不文律としている国家が多い。
一方で、怪異は発見次第排除、発生原因となった人間も処罰、と取り決めた国もある。例えば西アメリカ共和国や、東ドイツことドイツ民主共和国、その他いくつかの地域だ。
ただしこの方針は大体強烈な思想統制を伴い、祭りや祈りといった民族ごとの伝統文化もほぼ全て禁止してしまう事になる。それらが怪異を喚ぶためである。
当然ながら民主国家の取る手段としては問題があり、政情不安にも繋がる。
国連総会ではこうした弾圧に対して、幾度か非難決議が採択されている。人民に対する明白な攻撃や排斥があったケースに関しては。
しかし怪異そのものへの対策、また怪異との共存の道については、国際社会は未だに明確な指針を示せずにいるのが現状である。
(『コレでわかる! 図説・怪異 二〇一七年版』より)
◇
「うーん……」
駅のホームのベンチに腰掛け、読みかけの本を一旦閉ざして、根岸秋太郎は唸った。
読んでいるのは、実家の自分の部屋から持ってきた本である。高校時代、初めて怪異と関わる仕事に興味を持った頃に買った、いわゆる入門書だ。
だから何年か昔の本になるが、怪異を取り巻く人類社会の状況は、概ね変わっていない。
「どしたい、根岸さん」
ミケが隣から小声で訊ねた。
何故声を潜めているかと言えば、今のミケは猫の姿で、キャリーバッグの中に納まっているからである。傍から見れば普通の三毛猫だ。
半端な時間帯とはいえ平日の朝、JR中央線東小金井駅のホームにはそれなりに人が行き交っている。
怪異が溢れる世の中であっても、猫が急に喋り出すのを見れば驚く人間もいる。不要な騒動は避けたいところだ。
「自分が幽霊になってみると、人間の頃に読んだ怪異の解説本もまた違う読み口だなあと」
と、根岸は本の表紙を叩いた。
「へぇ? 俺には分かりっこない感覚だな。どんなもんだいその本?」
「『分かる分かる』みたいな部分もあれば、『そうかな?』みたいな所も……」
「県民あるあるネタ本か?」
噴き出しかけたのを誤魔化したのだろうか、ミケは「ナー」と短く鳴いて、前脚を身体の下に仕舞い込んだ。香箱座りである。
「あ、いたいた。ネギシさーんおっはよー」
やや間延びした眠たげな声が階段側から飛んできて、根岸はそちらを向く。
諭一・アンダーソンがぶらぶらと歩いてくるところだった。群青と水色を交えた長髪に長身。相変わらず人目を惹く風貌である。
「ミケくんは? ……その中か。乗り物あんまり好きじゃないって言ってたけど、猫の格好なら平気なの?」
「というか、狭い箱に入ってると落ち着くから平気なんだそうです」
声高に応じられないミケに代わって根岸が説明した。
「そういうところ猫っぽいんだ」
興味深そうに、諭一はキャリーバッグの窓を覗き込む。
ミケはつんとした澄まし顔で、
「そりゃ猫だったからな」
と囁いた。
「ネギシさん、こないだ実家から戻って来たばっかなのにもう復職だって? 幽霊だけどぼくより大分勤勉だよね」
前日に夜更かしでもしたのか、眠気が覚めないらしい諭一は、ベンチに座ってスターバックスのカップを頻りに啜る。
「故郷はその――どうだった? ……とか訊いても大丈夫?」
既に質問しているようなものである。細やかには程遠い諭一なりの気遣いがおかしくて、根岸は笑って頷いた。
「家族は皆一応元気だったし、こっちの顔を見るなりショックで倒れるって事もなかったですよ。そうだな、安心はしたかな……弟と妹から怒られたけど……」
まだ高校生である妹の小春の涙は勿論だが、自分よりしっかり者だと思っていた弟の涼二郎に声を上げて泣かれたのが、最も胸に堪えたかもしれない。
二人がいれば家は心配ないと思ってる、両親を頼む――と、つい後を託すような言葉をかけてしまったせいだ。
せっかくまた会えたのに、どうしてそんな最後の別れみたいな事を言うんだと、涼二郎は堰を切ったように涙を流してわあわあ泣いた。
根岸は、自分がいつ消滅してもおかしくない幽霊だと知っている。
既に無念は晴らしたのだ。寧ろこの世から消え去っていない方が不思議で、その原因は今の所不明である。
だからこそそんな発言をしたのだが、しかし確かに、かけるべき言葉を間違えた。
「弔われた当人が遺族と話すって、やってみると結構難しいですね……」
「そりゃあ……そうだろなあ」
恐らくは無意識のうちに、諭一は自分の左腕を撫でている。
今は真冬の装いのため袖に隠れているが、彼の左手首には線刻状の刺青が常に浮き上がっていた。自分で彫った訳ではない。彼の曾祖父と融合した、『灰の角』の呼び名を持つ怪異ウェンディゴが取り憑いている証である。
「……諭一くんはお父さんに話したんですか? 『灰の角』のこと」
「うん、話したよ。理解っても貰えた。でも少し時間をくれってさ」
それもまた、そうだろうなと根岸には思えた。
「父さんと祖父ちゃんの、確執っていうの? 結構根が深いみたいなんだよね。それこそぼくの生まれる前から、出自との向き合い方とか……色々あったみたいで」
二人の喧嘩は諭一のせいではない。今まできちんと向き合えなかったせいで気に病ませてしまった、悪かった――と、諭一の父マーティンは息子に言った。
別に何も、父親に謝罪させたかった訳ではない。なるべく自分を傷つけないように、平穏に育ててくれた両親の気持ちも分かる。
ただ、初めてこの件で父が正面から本心を語ってくれたのは嬉しかった。そう諭一は吐露する。
「僕の言葉じゃ軽いかもしれませんけど――難しいですね」
「んー、いやあ、誰にだって重いし難しいよ。家族はさ」
ベンチに並んで、二人は何となくそれぞれに息を吐く。
諭一がぽつりと付け加えた。
「こういう時に深い話を語り合う相手って、出来ればカノジョがいいなー……」
台無しになった空気の中、根岸が冷たい半眼を隣に向けた時、ミケが「ニャア」と鳴いてホームの電光掲示板を見上げた。諭一がそれにつられ表示を見て、声を上げる。
「あ、電車来る」
「あれ? ミケさん、今日もう一人いるって話じゃありませんでしたか? 確か志津丸さんが」
「そのはずなんだがまあ、来ないなら行っちまうしかないだろ。……根岸さん、俺のスマホにメール届いてないか? 瑞鳶さんから」
「ズイエン? シヅマル? 誰?」
諭一が不思議そうに口を挟んだ。
「瑞鳶は高尾山の大天狗。ここいらの山の天狗は大体皆、このひとの弟子だ。江戸に幕府が開かれた頃から怪異達の顔役だった御仁だし、諭一も今日の用事が終わったら顔合わせに行くといい」
ミケはさらりと紹介したが、瑞鳶なる怪異は結構な大物らしい。根岸もミケから名前を聞いた事があるだけで、まだ直接は対面していない。
江戸、と諭一も目を白黒させた。
「徳川家康の同期がメール使いこなしてんの? スッゴイな」
「LINEやスカイプはイマイチ苦手だそうだ」
「なんでそこ躓いたの逆に」
ホームに上り電車が滑り込んできたので、ミケは口を噤んだ。
キャリーバッグを担いで電車に乗り込み、預かっていたミケのスマホを根岸が確認すると、なるほど瑞鳶という相手からメールが届いている。
――志津丸はバイクを使わずに都心に行く場合の所要時間の目算を間違えており、このままだと遅刻する。そういう内容の謝罪文だった。
『慙愧に耐えぬ所存 m(_ _)m』
などと、どういう時代のノリなのかよく分からない文面だったが、多分相手は大真面目だろう。
「志津丸さん遅刻するそうです。バイク禁止されてるのを忘れてたみたいで」
「その志津丸さんってのも天狗? バイク乗りの天狗なんているんだ」
電車の中、声を殺して諭一が笑う。
「で、しかも禁止されてんの?」
「飛ばし過ぎて……」
「スピード違反かー。今の季節は道凍ってたりするし危ないよね」
「いえ、バイクで空を飛行して、それを人間に目撃されてネットに動画がアップされました」
根岸の説明に、諭一は目を丸くして固まった。
「そりゃ……怒られそうだね、知らんけど」
「瑞鳶師匠からの説教ついでに、スマホも使い過ぎだと叱られて、お子様ケータイ並みの使用制限をかけられたんだとさ。それでお師匠さんが代わりに連絡を」
ミケがバッグの中で丸くなったまま、こっそりと溜息を吐いた。
「申し訳ないけど、現地集合して貰うしかないですね。僕は仕事だから約束の時間があるし」
根岸は窓の外の住宅街を眺めた。電車の向かう先、冬の青空の下に、高層ビル群が見える。
「あとは新宿駅東口で、滝沢先輩と合流予定です」
東京都特殊文化財センターに『備品幽霊』として復職した根岸の最初の仕事場は、新宿駅から程近く。
商業ビルの建ち並ぶ大都市のど真ん中にぽつりと取り残された特殊重要文化財、『旧戌亥小学校』であった。




