第2話 真夏の夢、君がため (2)
応接間の造りはまさに和洋折衷で、畳敷きの部屋に渋みを帯びた紅色の毛氈が広げられ、その上に小洒落た造作のテーブルと椅子が据えてあった。
この家具も古そうだし高価そうだな、などとおっかなびっくりな挙動で根岸がテーブルを観察していると、程なく茶盆と書類を携えたミケが入ってくる。
彼はきちんと服を着ていた。ただし今度は、季節感がちぐはぐだ。こんな夏の盛りに、黒い冬物のニットなど着込んでいる。
しかしこれは怪異にはよくある事だから、不躾に指摘するべきではないだろう。
季節感どころか、時代感もTPOに合わせる感覚も一切持ち合わせない怪異は数多い。常に紋付き袴だとか、トイレに出没するのにウエディングドレスだとか。人間の女性を象りながら、目のやり場に困る装いをした怪異もそれなりにいる。
そういえば、三毛猫はほとんとがメスだとどこかで聞いた事があるのだが、ミケは男性らしい。随分と中性的な容姿だから、最初に裸で会わなければ、性別が判らなかったかもしれないが。
「耐震補強、ねえ。御主人が起きてれば、結界術でどうとでもなったんだが」
煎茶を注いだ湯呑み茶碗を根岸に差し出して、ミケは席につき、持っていた書類を広げた。
音戸邸の間取り図である。
「わあ、助かります」
「ああどうぞ。――実際、東日本大震災の時は東京もちょいと揺れたけど、ここじゃ花瓶一つ倒れなかったもんさ」
「特殊文化財に不測の事態は付き物ですよ。そういう時、人間の技術でサポートするために我々がおりますので」
自分の胸元を指して請け合い、根岸は間取り図にまじまじと見入った。
そんな彼を、ミケは頬杖をついて、どこか呆れたような眼差しで見つめる。
「あんた、つくづく真面目な人だな」
「……え?」
今の言葉はどういう意味だろう?
初対面の根岸の事を、以前から知っているかのような。滝沢から何か聞いていたのだろうか。
本来であればここには、前任の滝沢と一緒に挨拶に訪ねるはずだった。
しかし彼女は数日前に、危険な怪異と遭遇して怪我をしてしまった。
怪異と関わる仕事をする以上、覚悟しなければならない事態ではある。彼らは多種多様だが、基本的には人類と相容れない種族なのだ。法令を守るとか社会秩序に従うといった概念を、多くの個体は持ち得ない。しかも、人智を超えた力を軽々と振るう。
ただし、特殊文化財センター職員の仕事は怪異との戦いではない。彼らに出来るのは、自分達を含めた一般市民の身を守ること。それに、文化財を保護することだけだ。
そんな自分達が、彼女が、何故あんな目に遭わなければならなかったのか。根岸は忸怩たる思いを抱えたまま、今ここにいる。
生真面目と言われればその通りかもしれない。職務など放り出して、逃げ出していてもおかしくはなかった。何しろ滝沢は、根岸の目の前で。
――目の前で?
いつ、どこでそうなった?
自分はその現場を目撃した? 何をしていた?
何故だか、ものの数日前の記憶が曖昧な事に、卒然と根岸は気づいた。滝沢が怪異と遭遇した時に何が起きたのか、全く思い出せない。奇妙に霞のかかったような頭の中身を探り、彼は額を押さえる。
その様子を、ミケはじっと見据えている。瞳の縁は金色がかった光を湛え、彼の本性が獣の側にある事を如実に伝えてくる。
その時だった。
「だらっしゃあアア! 出てこいやあアアアア!!」
雷鳴の如き大音声が、応接間の掃き出し窓の先、植木の整えられた庭から聞こえてきたのは。
根岸は椅子に座ったまま飛び上がるくらいに仰天したが、ミケの方は驚く様子もなく、ただ怪訝な顔つきで庭を振り仰ぐ。
「おいおい、勘弁しろよ」
呟くなり彼は立ち上がり、掃き出し窓を開け放って庭へと降りた。その間にも、招かれざる客は怒号を上げ続けている。
「オレは峠の金鴉天狗、大垂水の志津丸ッ! この魔女屋敷を頂きに来たッ! 殯の魔女、尋常に勝負せいやッ!!」
(これは『時代感覚のない怪異』の典型例だな)
ミケに続いて窓の外を覗いた根岸は、まずそんな印象を抱く。いや寧ろあれは、最先端の斬新さと言えるだろうか?
その怪異は一見したところ、二十歳前後の人間の青年風の出で立ちだった。ただし、背中に猛禽類を思わせる大きな翼が生えている。
山伏の装束をベースにしたような着物姿だが、成人式の暴走族並みに奇抜なデザインで、袈裟も法衣も金色、逆立てた髪まで金髪ときている。まだエンジンの切れていない大型バイクに跨っていて、こちらも一部金色の塗装だ。
他人の家の芝生にバイクで乗り込むのも非常識だが、それよりもまずいのは、身の丈を超える長さの薙刀を肩に担いでいる点である。どうやら本物の刃が付いているようだから、これは立派に銃刀法違反と言えた。
「御主人ならお休み中だ。またの機会にしてくれ」
相手の剣幕とは対照的に、ミケはさらりと応答する。
「ここ一年ずっとお休み中だから、次の機会がいつになるかは分からんが……」
「うるせえッ! てめーはアレだ、魔女のパシリだろ!」
「家令兼使い魔のミケだ」
「そんな雑魚に用はねンだよッ!」
志津丸なる天狗が声高に告げるなり、前触れもなく、ごうっと音を立てて旋風が巻き起こった。土埃が窓を震わせ、堪らず根岸は片手で顔を覆う。
そのほんの一秒足らずの間に、志津丸は翼を大きく広げ、薙刀を振りかぶってミケに襲いかかってきた。
庭に降りていたミケは機敏に飛び退き、空中で後方に一回転して縁側へと着地する。すかさず志津丸がそれを追う。
「らァァァァッ!」
足元から掬い上げるような薙刀の一閃。根岸にはほとんど視認出来ない速度だったが、これもミケは難なく回避する。流石は猫というべきか、驚異的な身体能力だ。
ただし、薙刀の切っ先が縁側の隅を掠めたため、貴重な天然木の板材が僅かながら欠けた。
「あああブンカザイぃーっ!?」
肝を冷やした根岸の口から、独特の悲鳴が上がる。
戦いに水を差されたと感じたのか、縁側で身構える志津丸がぎらりとこちらを睨んだ。
その一瞬の隙を突いて、ミケが間合いを詰める。腰を落とした体勢から高々と片脚を振り上げ、相手の首根に回し蹴りを叩き込んだ。
「がッ!?」
短い呻き声と共に、志津丸は庭まで吹っ飛ばされる。そこでミケは、後方の根岸に半分ばかり視線を寄越した。
「根岸さん、下がっててくれ。トクブン職員には危なっかしい相手だぞ」
「何なんですか? 道場破りですか?」
「そんなもんだ。たまに来るんだよ。何しろうちの御主人は、ここいらじゃ最強の怪異だからな。その縄張りを乗っ取れば霊威の格が上がる」
「大垂水峠ってことは、高尾山近くの怪異ですよね。あの辺の天狗は穏健派で知られてて、観光客にもフレンドリーなはずじゃ……」
「どこにでも不良小僧はいるさ。で、そういう奴の方が縄張り争いには熱心だ」
「そっ、そうですか――ああ、とにかく通報しなきゃ。それとまず結界術を」
あたふたと根岸は胸ポケットを探る。取り出したのは、液晶の付いた扁平なペンライトのような小型の機器である。
『スペル・トークン』と呼ばれる、怪異に関わる専門職にとって必携の霊験機器だ。
かつて人間が怪異に対抗するには、極めて稀少な才能を持つ者が何年もかけて訓練を積み、加持祈祷なり悪魔祓いなりの技術を修得する必要があった。
その手間を大幅に短縮してくれたのが、予めセッティングされた方術を簡易な詠唱だけで発動させる、このスペル・トークンの機能である。
一応、使いこなすには生まれつきの体質といくらかの知識と練習が必要で、資格を取らなければ使用出来ない事になっているのだが、体質の方は現代においては、血液検査ですぐに分かる。
現状、最新式のトークンを使えば、日本の全人口のおよそ二割の人々が方術を発動させられると言われる。更に万人向けのトークンも、霊験機器業界の各企業が鋭意開発中らしい。
根岸はトークンの電源を入れ、ライトの点る先端側を自分の方に向けると、方術発動ボタンを押した。
ディスプレイに表示されるコードに合わせて詠唱を開始する。
「“略式方術、ヒトマルナナ”
“現況裁定開始”
“固着”
“以降認識混在を拒絶”
――“未掟時界、発動”!」
術者およびその視界に映る範囲の物質を、怪異の引き起こす災厄から保護するための方術、『未掟時界』。根岸をはじめ多くの有資格者が使いこなせる方術は、この結界術一つきりだ。しかしこれさえ発動させれば、大体の怪異被害は防げる。
が――
「……?」
根岸は困惑して周囲を見回した。結界が展開されると、空間自体が凍てついたような独特の感覚が訪れるはずだ。それが、いつまで経っても起こらない。
「不発……!? なっ、なんで」
手順は間違っていなかった。スペル・トークンは今朝充電したばかりで、稼働も確認したはずだ。
さっきから、何かがおかしい。何もかもが。
「じゃあ先に通報を――陰陽庁――怪異対策局!」
今度はスマートフォンを内ポケットから取り出す。通報先は一一〇番でも一一九番でもいい。繋がったらまず「人為ですか? 怪異ですか?」と質問されるので、怪異と答えればそのまま対策局に回される。
「……根岸さん」
やけに静かなミケの呼び声が、すぐ傍らから聞こえた。
「その電話は……」
いつの間にか畳に両膝をついていた根岸は、こちらをじっと見下ろすミケの顔を振り仰ぐ。
――その背後に、狭る志津丸の姿があった。
「ミケっ……!」
咄嗟に声を上げたが、一手遅い。
はっとして身を捩りかけるミケの脇腹を、鈍色の刃が背中側から貫通する。刃先は根岸の眼前まで飛び出し、血飛沫が顔にかかるのが分かった。
「ぐ――」
ミケが苦悶の声を漏らす。横に薙ぐようにして胴体から刃が抜かれ、そこらじゅうに鮮血が撒き散らされる中で、彼はがくんと片膝をついた。
薙刀の石突で縁側を叩き、仁王立ちの志津丸が勝ち誇った笑みを浮かべる。
「油断大敵ってなァ、使い魔!」
「根岸っ……逃げ……」
ミケが何事か口走ろうとするも、途中でげほっ、と噎せ返り、縁側に倒れ伏した。俯せになった胴体と口の端から溢れ出た、どす黒い血が板の上に広がっていく。
「あっ……あ、あああ……!」
根岸は、衝撃と恐怖にただ硬直するしかない。彼は戦いの専門家ではないのだ。いくら怪異だらけの物騒な世の中だとしても、こんな惨劇を目の当たりにした経験など――
――いや、待て。この光景は。
突如、彼は目を見開いた。
――初めてではない。
間に合わなかった結界。
迫る刃。
あの時、血まみれで地面に倒れていたのは。
堰き止められていた記憶が、奔流となって頭を駆け巡る。
――そうだ。あの時こうなったのは、僕だった。
そして根岸秋太郎は、全て思い出した。
自身の死の瞬間を。