第16話 父祖の声は峰の果てに (10)
瓦礫と氷だらけになった水道設備を踏み越えて、ウェンディゴが再び攻撃を仕掛ける。
ミケは先程のように真正面からは組み合わず、あえて押し倒されるような形で前足の一振りを受け流した。彼は即座に下方から喉笛に噛みつこうとして、躊躇した様子で顔を背ける。
「くそ、このナリじゃ手加減が利かん」
ミケがぼやきに近い口調で呟いた。ウェンディゴの冷たい表皮は、高熱を発するミケに触れた箇所からちりちりと焦げ始めている。しかし今の彼は我を忘れ、自分の身体の状態にも気づけない。
爪を出していない後ろ足で、ミケはウェンディゴを蹴り飛ばした。ウェンディゴは霜を散らせて地面に倒れたものの、すぐさま反転して起き上がる。
逆に喉元へ喰らいつこうとするウェンディゴの前で、突如ミケは変化した。今度は人間の少年の姿である。
いきなり獲物の大きさが変わり、頭を低めた姿勢のまま一瞬動きを止めたウェンディゴの鼻面を、ミケは拳で殴りつけた。
あの細身のどこにそんな力が宿っているのか、自身の倍以上の身の丈を持つウェンディゴを大きく仰け反らせる。
「おい諭一、それにどこぞのウェンディゴ! シャッキリしろ!」
と、ミケは叱咤を飛ばした。
「いくらお前さん方がスットコドッコイでも、俺は学友をバーベキューにはしたかぁないぞ」
殴られたウェンディゴは頭を振り、ミケの口上など耳に入っていないかのように、がむしゃらに暴れ始める。
「ぐるぅ……うおオオッ、ウウオオオオッ」
角と爪と冷気が荒れ狂う中、ミケは縦横無尽に跳ね飛んで攻撃を回避していた。流石に人の姿では、ウェンディゴと取っ組み合いは出来ないらしい。
今やウェンディゴは、凄まじい形相となっていた。口からだけでなく碧色の両眼からも水分が垂れ流され、それがガラス細工の触れ合うような繊細な音を立てて、ひっきりなしに凍てついては融ける。
(水分――涙? 泣いている?)
スペル・トークンを携えて見守るほかない根岸は、ウェンディゴの様相に違和感を覚えた。
「……苦しんでる……?」
不意に、芹子が呟く。
「ウェンディゴ――だけやない、中にいるクッチーも! 暴れたくて暴れとるんとは違うわ、これ!」
「クッチー? ……ああ、あいつに取り憑いた『虫』の名前か」
どうやってか、ミケは諭一に憑いた虫の存在を承知している様子だった。しかし今はそれについて、詳細を聞き出す余裕がない。
ウェンディゴの角を飛んで躱したミケは、太い木の枝の上に一旦退避し、更に言う。
「そうだな、この前の鎌持った幽霊と同じだ。ウェンディゴも『虫』も、勿論諭一も、自分の意志では動いてない。無理矢理凶暴化させられた『虫』がウェンディゴに取り憑く事で、極端な飢えに衝き動かされてる――」
そこで彼は、何事か思いついた風に軽く瞠目し、それから少し嫌そうに顔をしかめた。
「って事は、手っ取り早く動きを止めるには……あれしかないか」
「ミケさん!」
意を固めた表情のミケに、根岸は呼びかける。
「何だい」
「彼の呼び名は、『灰の角』です」
「――うん?」
「諭一さんがそう呼んでたので。……無茶を承知で言いますが、『灰の角』含めて、全員この場で助けられませんか」
ミケの言葉で根岸もまた、自分が死んだ時の事件を思い出していた。
根岸を殺した、あの女の幽霊。
目的も正体も分からないままミケの手で消滅させるしかなかった彼女を、最早恨む気はないが、しかし事の真相は未だに気になっている。
もし彼女がミケの読みどおり、自分の意志に反して殺人を重ねてしまったのだとすれば――そして、諭一とウェンディゴと『脾臓の悪虫』も、あの幽霊と同じ状態にさせられつつあるのならば――
ここで犠牲者を出したくはない。そう思う。芹子のためにもミケのためにも、喪われた民の呼び名を記憶する怪異のためにも。
「勿論そうするとも、根岸さん」
ミケは牙を覗かせて、にやりと笑った。
その彼の背後を、樹上まで登ってきたウェンディゴが襲う。
羽交い締めに近い形で組みつかれたかに見えたミケだったが、彼はぐるりと身を捩ってウェンディゴと向かい合った。そして逃げるどころか、相手の肩口に思い切りしがみつく。
一点に過剰な重みがのしかかった木の枝は、ばきりと音を立てて半ばから折れた。ミケがウェンディゴを下敷きにして落下する。
「ミケさ……」
「ウゥオオッ!」
根岸とウェンディゴが同時に声を上げた。
相手に馬乗りになったミケは、何を思ったか左腕の袖をまくり、犬歯を剥き出し咆哮を上げた直後のウェンディゴの口の中へと、自分の手首近くまでを突っ込んだ。
「『灰の角』! 食えッ!」
ミケが鋭く叫び、根岸と芹子は唖然とする。ウェンディゴですら呆気にとられたかもしれない。
ほんの一瞬の間を置いて、ウェンディゴは差し出された腕に齧りついた。
肉が引き裂かれ骨の砕ける、ぞっとするような音が響き渡る。
ミケが身を引いた。尚も食らいつくウェンディゴによって、彼の左腕は肘上の辺りから引き千切られ、噴き出す血が二体の怪異と地面を染め上げた。
「……っ、どうだ、『殯の魔女』の霊威を注がれた猫又の血だぞ」
痛みと失血で流石に身を震わせながらも、血まみれの凄絶な顔で、ミケは再び妖しく笑う。
「人間の血肉より余程腹が膨れるだろ」
そしてミケは、バランスの悪くなった身体でふらりと立ち上がり、
「根岸さん、結界を頼む」
と呼びかけた。
眼前に展開するあまりの光景に硬直していた根岸だったが、その声に我に返る。
ウェンディゴもまた、完全に動きを止めていた。
口の端からミケの血を滴らせ、返り血を浴び、まさに悪鬼のごとき風貌ではある。しかし先程まで自己も周囲も認識出来ない狂乱状態にあった碧の瞳には、どこかこれまでと異なる光が宿っていた。
「り……“略式方術、ヒトマルナナ”――」
スペル・トークンを構えて、根岸は結界術の詠唱を開始した。
「“未掟時界、発動”!」
結界が完成する。
空間が塗り固められる感覚に囚われたその刹那、根岸の脳裏に、自分の記憶にはないはずの風景が閃いた。
一面の雪景色。
峻険な山々のシルエットが、吹雪に烟る空の下、微かに見え隠れしている。
――寂しい。
頭の中で誰かが呟く。この眺めを目に映した誰かが。
――わたしを畏れた人々は皆死んだ。同胞も眷族も絶え果てた。誰もわたしの名を呼ばない。わたしもこの地で、ひとり飢えて死のうとしている。何と寂しい、虚しい最期か。
孤独な嘆きの声は雪に吸い込まれる。誰一人、耳を傾ける者はいない。
……いや、動く影がもう一つ。何者かが山道を上り、近づいてくる。
若い男だ。顔立ちからしてモンゴロイドだが、アジア系ではない。目元から鼻筋にかけての造作が、どこか諭一に似ていた。
ただし彼は、明らかに病人だ。
顔色は青ざめを通り越して黒ずみを帯び、頬も手脚もげっそりと痩せ衰えている。呼吸音は絶え絶えで、とてもではないが雪の山道など歩ける体調ではなさそうだった。
にもかかわらず彼は、杖で身体を支え、時折よろめき倒れながら坂の先を目指している。
男がこちらを見た。
彼は何かを訴えている。咳き込み、ぜいぜいと喉を押さえ、それでも言葉を絞り出す。
根岸には全く意味の取れない言語だった。しかし、この景色を見ていた者――雪山で孤独に消滅しようとしていたその者にとっては、懐かしい言語だった。
「食え! 食ってくれ!」
男はそう言っていた。
男と相対した者は、その言葉に従った。男の喉笛に噛みつき、血肉を啜り上げ、全てを喰らい尽くした。
ある一人の人間の、悔恨、無念、無力感、果てない渇望。そしてここにいない誰かへの愛情。それら全てが血溜まりの中に消え、やがて血痕すらも白い雪に覆われていく――
そこで唐突に、根岸の頭に流れ込んでいた映像は途切れた。目の前に広がるのは夜の公園のバーベキュー広場。血まみれの怪異が二体と壊れた水道。
眩暈に襲われた根岸は、瞬きをしそうになるのをどうにか堪える。
結界術『未掟時界』は、術者の『視認』が発動の鍵となるため、迂闊に目を閉ざせないのだ。
(今のは、ウェンディゴの記憶……?)
結界を維持しつつ、根岸は思考を巡らせる。
以前、ミケが巨獣の姿を初めて顕した時にも似たような事があった。彼の記憶と思われる映像を、ごく断片的に垣間見た。……これは何なのだろう。生前の根岸にこんな経験はなかったから、怪異としての異能だろうか。
「結界が張られた。虫喚びを!」
ミケの更なる指示が飛び、顔面蒼白で震えていた芹子が、息を呑みながらもぎこちなく笛を取り出す。
そういえば彼女は「グロいの駄目」と言っていた。そう根岸は思い出す。
今の状況は、グロテスクどころの話ではない。映画ならR指定になっている所だし、間近にいると獣の血の臭いだけで噎せ返りそうだ。
しかしながら芹子は、どうにか声を張ってみせた。
「む、むしよ、来よ、来よ、来よ――」
――いずくに渡らせ給や
ごりょのお山か
底根の国か
授業で芹子の歌声を聴いた時、諭一はこの部分に熱心に耳を傾けていた。
御霊の山。世を去った先祖の魂が還る先。
文化圏は違えども、雪山の果てに眠る祖先を持つ諭一の、胸を打つものがあったのだろう。
笛を吹き、反閇の足取りで芹子はウェンディゴへと歩み寄る。そして箸状の笛の先で、ウェンディゴの脇腹の辺りから、目に見えない何かをかちりと挟み、引きずり出した。
ひゅるっ、と風の吹くような音を立てて、虫が取り出された。
前に見た虫と同じく細長い身体で、芋虫のような外見である。赤い爪が三対側腹部に生え、赤い尾びれを蠢かしている。やはり、あまり見た目の良いものではない。
これらの虫に愛着を表明しているのに、幽霊もグロテスクなものも駄目とはどういう理屈だろう、と根岸は首を傾げざるを得ない。
芹子が籠帳を開き、笛の先と虫を、ページに押しつける。虫はごく大人しく、紙に描かれた罫線の中へと納まった。
「……終わったよ」
額に浮いた冷や汗を拭って、芹子が笑った。
その声に応じたかのように、ウェンディゴの姿が融解して消え去る。後には、呆然とその場に座り込む諭一が残された。
「ありゃ、顔に痣が残ってら。本気でぶん殴り過ぎたな」
ミケがばつの悪そうな顔で横髪を掻いた。そう言う彼は、左腕を食い千切られているのだが。しかし彼の出血も、既に止まっている。
いつの間にか、霙は止みかけていた。代わって夜空からは、ちらほらと白い雪が落ちてきている。




