第133話 猫の不養生 (9)
「ネギシさん! 何言ってんの!?」
「ああ。……そういう事ね」
諭一とアメヤリが同時に、それぞれ疑問と納得の言葉を投げた。
「そういう事ってのは? アメヤリさん」
と諭一が、今度はアメヤリに水を向ける。
「エマが最も信頼し、最も恨むべき相手。彼女を破滅させたもの。最後に縋ろうとして裏切られたもの」
睫毛を伏せたアメヤリの憂鬱げな物言いを、諭一は数秒間沈黙して吟味した。
それから、彼は口を開く。
「……お金?」
「そう、『怪異とその情報を売買する行為』」
マクギネス家は嘘で塗り固めた稼業に手を染め、破滅した。エマは失われた裕福な暮らしぶりを麻薬のように追い求めた。
その挙句彼女は、大枚をはたいて神官の石を入手し、降霊集会の情報を金で買い――命を落とした。
今際の際、アメヤリに憐憫を向けられながら、エマは悟った。金が、自分と一族の人生を狂わせたのだと。
死後、きっかけは定かでないが、エマは幽霊として顕現した。怨霊ではなく、単に自身の遺族や子孫の平穏を見守る存在として。
しかし子孫であるロナンは――生活苦からだろうか――再び手を染めてしまった。彼女にとっての禁忌に。
「諭一くんによれば」
根岸がアメヤリの解説に口を添えた。
「津島というジャーナリストは怪異情報を主に追っているとか」
「うん。無許可のアングラなやつね。ウチの大学卒業しといてそんな仕事するなよって感じだけど」
人々の間で交わされる曖昧な噂話、そしてそこから膨らむ恐怖と猜疑心は、狂暴な怪異の顕現に繋がる。
程度は様々だが、各国政府は怪異の報道に一定の規制をかけていた。
しかし、民衆は不安に駆られて情報を集めたがるものだし、不安感は時に経済と雇用を大きく動かす。
現代日本においてジャーナリストという職業には、関係省庁の許可を得ている集団と無許可で活動する集団の二種類がある。
「反社のシノギはまず心霊写真」などと言われるくらいに、無許可怪異ジャーナリストへのアウトローのイメージは強い。しかも怪異を相手取るのだから命懸けである。
亡くなった人物の個人情報を勝手に報道し、悪霊に『化けて出させた』という理由で、遺族の手で記者が殺害された事件まであった。
ただし、儲かる。
それだけで大抵のリスクは乗り越えられるという人間も多い。
ロナンと津島はあの時、何かの取引の最中だった。
取引の商材は怪異の情報か、怪異そのものだったのだろう。どちらが提供側でどちらが報酬を受け取る側だったのかまでは分からないが。
どうあれ、割りの良い取引の場でロナンは気が大きくなっていた。
商材のついでに、大叔母であるエマを披露しようとした。
生前の最大の心的外傷を身内に抉られたエマの魂は――暴発を起こした。
「ラ・ヨローナの異能と共に暴走状態で再顕現したエマ・マクギネスは、又甥のロナンを殺し……逃げた津島記者にも取り憑いた。彼も殺そうとしたんでしょう」
ローテーブルにウィジャボードを置き、その前に着席してから根岸は続ける。
「津島記者は語学に堪能なようだから、エマの言葉が分かる。それに怪異にも詳しい。彼はもう一度『怪異情報の売買』をすることで、次のターゲットにエマを押し付けられると推理した。
それで、森くんを利用しようと。
彼の持つ諭一くんの写真を買い取って、祟りから逃れた」
「そいつ、ひどくね? そりゃ死にたくなくて焦ったんだろうけどさ」
至って素直に、諭一は腹を立てる。
「一人だけピンピンしてんのかな、そのOB」
「……津島さん、あんま元気そうじゃなかったっすよ。金を渡されたあとは、すぐに連絡取れなくなったし」
ぼそぼそと情報を補足しながら、森は部屋の隅のラックに適当に突っ込まれていたバッグを引っ張り出した。
「あった。これ、貰った金……こ、このまま渡せばいいんですか?」
封筒を手に取り、森が根岸へと向き直る。
「いや、あくまで商取引って形で成立させないといけないので。僕からも怪異の情報提供を……ん? でもこの場合僕自身が怪異なわけだから、えーっと」
「か、怪異? えっ、そうなんすか!?」
根岸の独り言に、ぎょっとして森は後退った。
――そういえば正体を明かしていなかった。
森は陰陽士でも特殊文化財センター職員でもない一般人。しかもここ数日にわたって怪異に脅かされてきた身だ。怯えもするだろう。
根岸が隠し事を謝ろうとした時、唐突に諭一が二人の間に割り込み、ローテーブルを挟んで根岸の向かいに座った。
「じゃあ、人間同士で取引した方がいいって事じゃん? モリっち、独占スクープ! 実はぼくに取り憑いてる怪異って、東京怪異激甚襲撃の時に活躍したウェンディゴなんだよ!」
「……。ええっ!?」
しばしの間を置いてから、改めて森は仰天した。
そろそろ彼の神経か顎の関節が、驚き過ぎてどうにかなってしまうのではないかと根岸は心配する。
そして同時に、諭一の行動に呆れ返りもした。
「な――諭一くん、何を」
「モリっち、ほら。怪異情報あげたからそのお金ちょうだい」
「ちょっ、危険ですよ!」
制止しようとした根岸だったが、それよりも素早く諭一は、おずおずと差し出された封筒を受け取ってしまっていた。
瞬間――不気味な低音が部屋を包む。
ごおっ、という地鳴り……いや、海鳴りに近い。勿論、ここ東京都小金井市は海から遠く離れている。
「……怒らせるのは成功したみたい」
にわかに震える声で諭一は囁いた。
彼はウィジャボードと向かい合い、唾を飲み込みつつもプランシェットに指先を置く。
「ヤバッ、やっぱ怖い……『灰の角』、ネギシさん、こっからのカバー頼むね」
「もう――」
根岸は眼鏡をずり上げて両目の間を押さえた。
諭一の思い切りの良さは美点でもあるが、市民を守る義務を負うトクブン職員としては頭痛の種にもなる。
とはいえ、この役割は人間でなければ務まらないのも確かだろう。
エマ・マクギネスは――顕現せずとも、恐らくこちらの存在を既に認識している。獲物を横取りしようと踏み込んできた、無礼な怪異たちを。
自身の力の暴発を引き起こす人間の儀式を、待ち構えている。
「ウィジャ、始めるよ。……英語で呼びかけた方がいいかな」
鼓舞するように自問した上で、諭一は滑らかに発言した。
「Is anyone there?」
直後、一旦は鎮まった海鳴りが再び、より禍々しさを伴って唸りを上げる。
キッチンの水道のレバーが弾け飛んだかと思うと、蛇口のみならず管の接続部からも濁りきった水が勢いよく噴き出した。洗濯機に繋がる給水ホースも同じ状態になっている。
「わーッ!? 部屋! 洗濯機!」
部屋の主である森が真っ先に悲痛な声を上げた。
濁水は飛沫を上げ、寝室にまで侵入する。辺りを煙らせる驟雨のような水の粒が、寝室の天井近くで集束していく。
「うゥああッ、ああああアア――ッ!」
人の形を成した水の塊が、怨念にまみれた絶叫を絞り出した。
かつては華やかに整えられていたであろう長い髪はざんばらに乱れ、古風な作りのスカートの裾が靄状になって翻る。
見間違いようもない。根岸が『殯』の視界の中で出遭った怪異、エマ・マクギネスだ。
空中に舞う彼女は苦悶の表情で髪を掻き毟り、落ち窪んだ両眼でその場の全員を、続いて諭一を睨みつけた。
濁水から成る輪郭も曖昧な全身のうち、眼だけが異様な輝きを放っている。
「でっ――出たっ――」
慄く諭一に、エマが掴みかかった。
これまでは数日がかりで森を弱らせてきた彼女が、ここにきて次なるターゲットへの、直接的な攻撃手段に出たのだ。
侵入者である他の怪異たちの匂いが、怒りと闘争心を煽ったのだろう。
しかし諭一も、流石に慣れている。
エマの腕が首根へ伸びるのとほぼ同時に、彼は『灰の角』の姿をまとってみせた。
「オォォオオオオッ!」
『灰の角』が威嚇の声を上げ、牡鹿の角を振るう。寝室内の空気が局所的に、一瞬にして冷却された。
冷気と、恐らくは飢餓の錯覚をもぶつけられたエマは、石を投げ込まれた水面のごとく身を震わせてその場から大きく後退する。
ウウーッ、と憎々しげな呻きがエマの口から漏れた。
「森くん、退がって!」
今度こそ腰を抜かしたのか動けずにいる森を庇い、根岸は前へと踏み出す。
血流し十文字が機敏な動きで、エマ目掛けて穂先を突き出す――しかし、躱された。
乱戦の経験もある血流し十文字と違って、根岸の方は狭い場所での足運びに慣れていない。屋外であれば血流し十文字が強引にでも持ち主を引っ張ったかもしれないが、今は間近に壊してはいけない物や人が多すぎる。
(槍を室内で効果的に振るうには……ああ、もっと志津丸さんに習っとけば良かった!)
己の槍さばきの拙さに歯噛みする根岸だったが、しかし事態は悔しがる暇さえ与えてくれない。
「エマ・マクギネス……」
アメヤリが暗い声音でひとつ呟くなり、この場に似つかわしくない緩やかな動作で天井を指差す。
上向いていた人差し指がすう、と前方を示すと、エマの真上の天井板から突如、滝のような雨が降り注いだ。
「ギャアァッ!」
エマが吠える。
濁水状の彼女の身体は、アメヤリが降らせた雨粒に脆くも貫かれ、床へと叩きつけられた。
エマの操る水と同様に、こちらもただの水ではなさそうだ。
「二度も殺すだなんて悪趣味な真似、私の好みじゃないのだけど。……でも、仲介者ラ・ヨローナの矜持にかけて、あんたの暴走は止めなきゃならない」
アメヤリは下ろした指先で、何かを掻き混ぜる仕草を見せる。
いつの間にか浅瀬と呼べるほど床上に溜まっていた水流が、渦を成して逆巻いた。
エマは渦に囲まれ、取り込まれかけるも、不定形の全身を捻じるようにしてそこから逃れる。
窓辺まで跳ね飛んだエマは、ラックだの本棚だのを薙ぎ倒して空中を暴れ回った末に、寝室から廊下へ脱出しようとした。
しかしそこに、『灰の角』が立ちはだかって身構える。
「グルゥゥゥッ」
逃がさない、とばかりに『灰の角』は唸り声を漏らした。フゥーッと吐き出された冷たい息が、牙を剥き出した口の周囲の空気を白く染めている。
「うぅ――あァァァァッ!」
僅かな間、空中で逡巡し静止したエマは、素早く身を返して部屋の奥を目指した。
進行方向にはベッドのサイドボード。その上に、未開封の水のペットボトルが置かれている。
森が飲もうとしたものの、祟りに怯え開封を躊躇していた物だろう。
そのペットボトルが前触れもなく破裂し、噴水のごとく水を噴き上げる。
エマが噴き上がる水の中へと飛び込んだ。
ほんの五百ミリリットルの水だ。彼女の全身を覆うには足りないはずだが、しかしそのシルエットは皆の目の前で崩れ、薄れていく。
「しまった――空間穿孔まで使えるなんて!」
焦燥に駆られた声でアメヤリが叫ぶ。
「逃げるっ……」
根岸はすかさず血流し十文字を振るったが、一手遅かった。
空のペットボトルだけが床の水溜まりに転がり、エマの姿は部屋の中から消え去っていた。




