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第117話 魔女の殯 (2)

 案の定というか何と言うか、その後の根岸は目の回るような忙しさに襲われたのだった。


 上田うえだ禍礼まがれ、それに富山県の陰陽士おんみょうしである堀田ほったが邸宅に到着し、諭一や伊藤と合流する形になった。


 堀田は中央局の司令である伊藤と対面して、すっかりかしこまってしまい、つい監視対象の禍礼から目を離した。

 その間に禍礼はミケに発情し、茶の用意をしている所に後ろから抱きついたものだから盛大に茶が零れる。


 根岸は慌てて畳を拭き、スラックスの裾に茶がかかった諭一は裾を洗おうと洗面所に向かったのだが、その彼は数十秒後に下衣を脱いだ状態で、


「キャー!」


 と悲鳴を上げて廊下に飛び出した。


 何事かと思えば、音戸邸おとどていのかかりつけ医である河童の老人がいつもの癖で風呂場から侵入してきたのだ。

 池や沼を縄張りとする河童は、遠方に出向く時、水場から別の水場へと転移する。彼には玄関から訪問するよういつも言っているのだが、どうにもこの悪癖が抜けない。


 甲羅を背負ったアマガエル色の体表の老人と鉢合わせして、すっかり動転した諭一は、更に悲鳴を聞いて廊下に出てきた伊藤たちから下着姿を見られ、混乱と羞恥のあまり『灰の角』に変身した。


 牡鹿の角を生やした『灰の角』の身の丈は、音戸邸の廊下にはいささか大き過ぎる。状況の分からないままび出された『灰の角』は、一先ず直立出来る場所を求めて玄関へと突進した。


 丁度そこに――極めて間の悪い事に――陰陽(おんよう)小金井(こがねい)支局の陰陽士が訪ねてきたのだ。


 陰陽士は怪異対処の専門家、といっても、『灰の角』は北米大陸の怪異ウェンディゴである。この種族を見慣れている日本人などそうそういない。


「ぎゃー!」


 仰天した陰陽士はその場で怪異避けの結界を構築した。

 正確には、怪異の物質世界への干渉を妨害する結界方術『未掟時界アンコンヴィクテド』である。


 その結界に、畳を拭いた雑巾を二階の欄干で干そうとしていた志津丸しづまるが巻き込まれ、翼が風を集められなくなって空中から転げ落ちた。


「おいコラッ! 何しやがる!」


 額にコブを作り、かんかんに怒る志津丸をどうにかこうにか宥めて、方々(ほうぼう)を落ち着かせ、しょげ返る小金井支局の陰陽士には助六寿司の折詰を持たせて帰す。


 伊藤と堀田もそれに合わせて、邸宅を一旦辞した。

 彼らはこれから深夜まで、周辺の警備にあたるのだと言う。

 今夜は稀に見るほどの大物怪異が一堂に集う事になる。やはり陰陽庁としては警戒しているらしい。


 上田もまた、雁枝への挨拶を礼儀正しく済ませて帰っていった。


 一旦人間が少なくなったところで、ミケが「根岸さん、ちょっと休んできなよ」と肩を叩いてきた。


「まだ昼飯も食ってないだろ。これ食って、あとは着替えて夕方に顔出してくれりゃいい。怪異の客なら俺の方が顔覚えてるから」


 海苔巻と稲荷寿司を乗せた皿を渡され、疲労困憊の根岸は、有り難さ半分、不甲斐なさ半分の思いを抱えて居間へと引っ込んだ。



   ◇



 「それは大変でございましたね」


 音戸邸の居間の隣、いわゆる『次の間』にあたる和室にて、こうはそんな風に根岸をねぎらった。


 彼女は父親ともども、呪いの槍である血流し十文字に取り憑いている。この和室の槍掛けに据えられた十文字から離れる事は出来ない。

 父親に至っては人間の姿を喪失しているので、槍の穂先から伸ばせるのは赤黒く不明瞭な右腕のみだ。


 それでも彼は彼なりにこの暮らしを楽しもうとしているようだった。

 今も血流し十文字は、右腕だけで器用に抹茶を立て、根岸に差し出した所である。


『人とものの、容易く交わる時代か。面妖なり』


 と、この寡黙な武将の霊は呟いた。

 人を呪い殺せる怪異が神秘体験を不思議がるというのも妙だが、彼の率直な実感だろう。つい最近まで周囲の世界を上手く認識出来なかったのだ。


「人と怪異の交流って……言うほど簡単じゃないですね」


 抹茶の入った器を持ち上げて、ぼんやりとした表情で根岸は応じる。


 一応は根岸も、トクブン勤めだ。怪異と人間の関係を調停するプロの立場である。

 しかしトクブンの主な業務は、人の生活の中に紛れ込んだ怪異憑きの文化財が、人に迷惑をかけないように対処する事である。

 人間社会と怪異社会が、真っ向から入り乱れる状況にはほとんど巻き込まれてこなかった。それも怪異側の立場では。


「お疲れのご様子ですね、秋太郎様は。無理もございませんけど」


 幸が小首を傾げてみせた。


「ミケさんの方が大変ですよ、多分」


 抹茶を飲み干し、一息ついた根岸は皿の上の寿司に目を落とす。


 どうもミケに気を使わせたようだ。しかし、内心穏やかでないのは確実に彼の方だろう。

 怪異同士の関係をそのまま人間の血縁や組織に当てはめるのは難しいが、ミケにとって雁枝かりえは――最愛の存在なのだ。そこは間違いない。


 跡を継ぐと言っても根岸には、何もかも雁枝に取って代わってやろうなどというつもりはない。そこまで傲慢にはなれない。

 第一、彼女は眠りながらでも屋敷中に強力な結界を張り巡らせる実力の持ち主なのだ。その一点を模倣する事すら根岸には無理な話だった。


 自分なりに出来る形でやれば良い。有り体な心構えとしてはそうだ。

 しかしまさしく、言うは易く行うは難し、である。音戸邸のあるじとしての未来を考えるほどに、彼は早くも自信を失いかけていた。


「――いただきます」


 沈んだ表情でもそもそと、根岸は海苔巻きを口にする。憂鬱であってもミケの作った料理は美味い。


 何だかんだで速やかに最後の一切れまでを頬張ったあたりで、不意にふすまの向こうから声がかかった。


「おぅい、きみ。岸根きしねくんだったかねぇ」


 実にのんびりとした老人の声である。その出所に、根岸は心当たりがあった。


「僕ですか? 根岸秋太郎ですよ、藻庵そうあん先生」


 からりと襖を開けると、そこに河童かっぱが立っている。


 人間の十歳児くらいの身長で、背に張りついた甲羅が大きなランドセルのようだから、遠目には小学生にも見える。

 しかし、前述のとおり皮膚はアマガエルの如く鮮やかな緑色で、顔には皺が目立ち、くちばしからはナマズ風の髭が生えていた。


 いかにも伝統的な妖怪といった風情の、インパクトの強い外見である。

 ただ、腹甲ふっこう側を覆う割烹着かっぽうぎと、くちばしの付け根にちょこんと乗った丸眼鏡がどこか洒落ていて、頭頂部の皿を囲むタワシのような髪も整えられているから、慣れると案外清潔感のある人物に思えてくる。


「どうも、お邪魔しておりますよ。おや、呪いの槍さんもお出でかねぇ。着流し一文字だったかな……」

「血流し十文字、と呼んであげて下さい。そちらは娘さんの幸さん」


 河童の名医、名を藻庵。

 ミケよりも高齢で、幕末の頃の生まれだという。となると、『灰の角』よりももう少し年嵩かもしれない。

 河童という怪異種は特別長命な方ではなく、今の日本で見かける彼らの多くは戦後、怪異パンデミック以降に顕現したと言われているので、藻庵は非常に希少な長寿個体である。


 ともあれ、訪問時に風呂場から侵入する癖がいつまで経っても直らない所と、新しい名前をなかなか覚えられない所は難点だった。何しろ高齢だから、相応に衰える部分は衰えている。


「このたびは、きみも大変な事だねぇ」


 部屋の中に招き入れられた藻庵は、座布団に正座してしみじみと零した。


「雁枝さんがいよいよ()()()()という時に……。いや、今この時だからこそ相応ふさわしい跡継ぎが現れたのかねぇ」

「……本当に相応しいんでしょうか」


 つい根岸は口走っていた。

 通夜の客を相手にこんな愚痴を吐くべきではなかったか、と急ぎ口を押さえ、咳払いで誤魔化そうとしたが、無論吐いた言葉が消えるはずもない。


 藻庵の方を見れば、丸眼鏡の奥できょろりと黒目がちな河童の両眼が瞬いていた。


「相応しいんじゃないのかねぇ? 私には、詳しい事情は分からんが」


 ごく気安い口調で藻庵は応じる。それから少し考えて、「そうそう」と彼は水かきの付いた指を振った。


「あの……ひとつ気になったんだがねぇ。さっき風呂場からこちらに上がり込んだ時」


 諭一と鉢合わせて、彼を仰天させた時の事だろう。


「結界がね……張られてなかったように思うよ、風呂場にだけ」

「結界が?」


 意外な話題に、根岸は俯けかけていた顔を上げた。


「りふぉーむというのかねぇ? つい最近、風呂場だけあまりにも様変わりさせただろう。雁枝さんの認識上、あの場所が『守護まもるべき音戸邸の一部』でなくなってしまったんじゃないかね。それで、結界が外れた」

「そんな――じゃあ今、あそこは」

「無防備だったよ。私ぁ、雁枝さんに許可を貰ってるから元々いつでも出入り出来るが。それ以外の厄介な水妖も、今なら忍び込めるかもしれないねぇ」


 ――それはまずい。


 これからいよいよ、大物怪異たちが訪ねてくるという時に。

 トラブルに対処可能な人員は大勢いる。寧ろ大勢過ぎるのが問題だ。万一、音戸邸内で全員が暴れまわったら、葬儀場としては無茶苦茶の台無しになりかねない。


 すぐさま、根岸は腰を上げた。

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