第10話 父祖の声は峰の果てに (4)
無形文化財の担い手、という肩書きからイメージされる人物像よりも、随分と若い女性だった。二十歳そこそこか、あるいはまだ十代かもしれない。
明るい茶髪をボブに整えていて、直線的な眉と一重の目元は日本人形を思わせる。
身につけているのは和服だった。それも早乙女姿というのだろうか、茶摘みか田植えでも始めそうな、袂の短い絣の着物に橙がかった茜色の前掛け、脚絆という出で立ちだ。
頭に被った笠は、よく知られている茶摘み娘の装いとは異なる特徴的な形状で、片隅に花と鈴の飾りがつけられ、縁から肩口まで届く麻布が垂れている。
「ご紹介に与りました、唐須芹子です」
と、彼女は頭を下げた。発音に薄っすらと関西の訛りがある。
「おおっ、可愛い……」
諭一がこそりと呟いた。
「えー……前回の授業でも簡単に説明しましたが、虫喚びとは、十世紀頃の文献にもその原型が散見される、我が国の伝統的民間医療です」
壇上を芹子に譲った遠藤が、講義室前方の片隅からぼそぼそと解説を加える。
「『腹の虫』や『疳の虫』という言葉が現代にも残っているように、昔の人々は、体調異常の原因が人体の内部に巣くう『虫』にあると考えました。体内に潜んで宿主の悪事を監視する虫なんてのもいます……いわゆる『三尸の虫』ですね。
医療や科学技術が未発達だった時代に生まれた迷信、とも言えますが……しかしこの『虫』というのは、怪異の一種と考えられます。
日々のストレス、病気や死に対する不安といった人間の思念が、極小の怪異を体内に発生させ、そのまま取り憑かれる。そして症状や精神状態を悪化させる……」
解説の内容はなかなか興味深いのだが、お経のような抑揚のない話しぶりがどうにも眠気を誘う。周囲の席に着く学生達も、萎びた青菜のごとき姿勢を取り始めた。
「この極小怪異を人体から抜き出す技術が、『虫喚び』でした。唐須さんのような『虫喚び乙女』は各地を放浪し、『虫』から人々を救ったと言います……。
西洋医学の発展した二十世紀には多くの流派が途絶え、虫喚びの担い手はごく僅かとなりましたが……ご存じのとおり、一九四五年の怪異パンデミック以降、需要が復活……。現代では、虫喚びの専門家は、陰陽庁や医療機関、赤十字と連携して怪異対策に取り組んでいます……」
ついに根岸にも睡魔が訪れた。眼鏡をずり上げつつ目の間を指先で押さえ、眠気を誤魔化す。この心地、下手をすると意識が木曜日まで飛ぶぞ、と警戒心を抱いたその時だ。
「むしよ、来よ、来よ、来よ」
突然、朗々とした張りのある歌声が室内に響いた。
歌い出したのは芹子である。彼女は檀上から一歩前に進み出て、懐から奇妙な道具を取り出した。
形はパン屋に置いてあるようなトングに似ているが、全体が木で出来ていて、いくつか穴が空いている。穴の並びは和楽器の横笛を想起させた。
芹子がそれに唇を近づける。
――ピィィッ。
澄んだ音が鳴った。やはり正体は管楽器らしい。
合いの手のような短い笛の音の後、芹子は更に歌う。
「いずくより御座し
いずくに渡らせ給や
ごりょのお山か
底根の国か」
「山……ごりょのお山?」
根岸の隣で諭一が呟いた。ごく小さな声だ。
意外にも真剣な顔で芹子の歌に聴き入っている。
――ピィーィイッ。
再度、甲高く笛が鳴る。それから芹子は口元に当てていた笛をくるりと回して、トングのように持ち替えた。
「御座せば甘露
たてまつらん――」
そこまで歌ったところで、芹子は壇上から降り、日本舞踊を思わせる足取りで進み出ると、最前列の席でうつらうつらと舟を漕いでいる男子学生の胸元に、唐突に笛を突きつける。
――かちん。
拍子木に似た、硬い木と木が打ち合う音。席に着く学生の、丁度心臓の真上あたりで、二つ折りになった笛が何かを挟む風に閉ざされたのだ。
芹子が笛を持つ手を引く。すると、学生の胸からひゅるりと、蛇のように細長く、赤みがかった体色の小さな生き物が引っ張り出された。
講義室内の学生達がどよめく。自分の胸から蛇状の生き物が抜け出るのを目の当たりにした当の学生は、声も上げられずに硬直している。
蛇の首根を挟んだまま、芹子は懐から更に何かを取り出した。太い糸でノート風に綴じられた紙束である。時代劇や博物館で見かける、大福帳に近い。
「籠綴じ!」
一声上げて、芹子は開いたノートの一ページを笛の先でとんと叩く。蛇を紙に押しつけた形だ。直後、蛇の姿は紙に溶け込んだかのように平らになって見えなくなり、それを確認した芹子は、素早くノートを閉じた。
ふっと息を吐いて、芹子は表情を緩める。そして呆然としている男子学生に向け、にっこり笑いかけた。
「今、『欠伸の虫』を喚び出して籠帳に封じました。お兄さんあなた、ここの所寝不足が続いて、昼間に眠とうてしょうがなかったんと違います?」
「はっ……は、はい……」
張りのある歌声から一転、柔らかな関西弁で話しかけられ、学生はかくかくと機械的に頷いた。
フフフ、と芹子は得意げに笑い、籠帳と呼んだノートをめくる。中身は各ページに濃い罫線の引かれたノートで、彼女が開いてみせたページには、先程トング状の笛でつままれた赤い蛇が絵図として載っていた。なるほど、罫線と同じ紙面に描かれた蛇の図は、虫籠に囚われているかのようだ。
「『欠伸の虫』はその名の通り、昼間に欠伸や眠気を誘発します。
睡眠時間が乱れたりすると憑かれやすくなるもんやね。そんなに怖い虫やあらへんけど、放っとくと睡眠障害を起こす場合もあるんよ。
虫を追い出しただけやったら回復せえへん事もあるから、お兄さん、これからは規則正しい生活に戻して、調子が全然戻らんようなら、ちゃんとお医者さんにかかって下さいね」
「は、はい!」
芹子に諭され、熱心に首を縦に振る男子学生である。
「大層な技だな」
ミケが素直に感嘆の声を上げた。根岸もそれに同意する。
「ええ。あの笛は、霊験機器が開発される以前に造り出された霊験具ですかね?」
「だろう」
潜めた声を交わしていると、再び遠藤のお経のごとき解説が始まった。
「唐須さん、どうもありがとうございました……。えー、お聞き頂けましたでしょうか。この歌詞はですね、成立時期は不明ですが近畿地方に伝わるものと言われております。
歌の途中に『ごりょのお山』という地名がありましたね。『ごりょう』の名を持つ山は日本各地に見られます。『御陵』『御寮』など様々な漢字が当てられますが、この場合は『御霊』と推定され、亡くなった人の霊が還る山という意味になります。
先祖の霊と『虫』の怪異を結びつける信仰が見られる地域は……」
また眠気が来そうになったので、根岸は素早く目元を押さえる。
と、後方の席から学生の囁き合う声が聞こえてきた。
「え、でもつまり、あのノートの中に怪異を閉じ込めてるってこと? ……ヤバくない? 危ないんでしょ怪異って」
「ぶっちゃけこえーよな」
「ていうかキモい」
怪異に対する一般市民のよくある意見だ。
しかし、いざ自分が怪異になってみると少し違った風に聞こえるなと根岸は思う。単に傷ついた、という訳でもない。今ここで根岸の意識が飛んで、身体ごと掻き消えてしまったら彼らはどんな反応をするか。そんな好奇心や悪戯心に近い感情が沸く。
これも、怪異ならではの危なっかしい感情の機微かもしれない。
それよりも、先程の会話が芹子に届いていたら、彼女は気を悪くするのではないかと根岸は危ぶんだ。――芹子は、教壇の隅で背筋を伸ばし、澄ました顔で立っている。学生の反応を気にする様子はない。
左隣のミケには確実に声が聞こえていたはずだが、彼も飄然と席で頬杖をついている。
「ごりょうの山……先祖の霊の還る先、か……」
右隣では、諭一がまだ真剣な顔で呟いていた。
虫喚びの歌の、何がそうも彼の琴線に触れたのだろうか。




