子供のジレンマ(千鶴)
「今日は18時には絶対に帰ってきてよね!」
ご機嫌斜めの桃花は私をにらみつけて朝ごはんを食べている。
「桃花、それくらいにしてあげましょう。母さんだって休日出勤はしたくないんですよ」
優しい奈々が桃花をなだめる。
昨晩。この地域の学校が臨時休校になり、私の休日と娘2人の休みが奇跡的に被ったのでみんなでゆっくりしようとDVDを借りたり、飲食店の季節メニューを食べに行こうとあれこれ計画していたのだが。
今朝の職場からかかった、一本の電話でその計画は水泡に消えたのだ。
「お母さんいるから素材集め手伝ってもらおうと思ったのに」
桃花はご飯を口の中にかきこみながらまだ文句を言っている。
どうやらこの子の予定では私と一緒にゲームをしたかったのだろう。
素材集めというのはこの子のやっているゲームで強力な武器を作るために必要な素材を集める作業でゲームに興味のない私にはコントローラーのボタンを押す労働に他ならない。
結局、休日でも休めなかったという結論。
「うるさいわね。仕方ないでしょう出勤になったものは」
「あ〜あ。お母さん家族より仕事を選ぶんだね」
「やかましい」
娘の愚痴を一蹴して私は家を後にした。
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そして出勤。
「いや〜、すまないね。せっかくの休みを邪魔してしまって」
登庁すると課長が申し訳なさそうに迎えてくれた。
「電話でも聞きましたが市民課の窓口業務だと」
今回の仕事は市役所の窓口での対応。住民票やらの発行などを行う場所だ。
「間違いないよ。君の仕事は窓口業務だ」
課長は頷いて肯定する。
「しかし、見た様子だと人手は足りてるように見えますが」
20箇所以上ある窓口も全て埋まっているし中で事務作業をする人間も確保できている。
私が来なくても良かったのでは?
「ああ、人数的には問題はないんだが新卒の方が多くてね。まだ業務に慣れていない人が多いんだ」
・・・ そういうこと ・・・
「君と一緒に働いてた子も産休だったり転職だったりでね」
「そうですか」
「少し前までは本当に人が足りなくてね」
「それはご苦労様です。」
課長のしかめた顔を見るに相当、大変だったのだろう。
「では、よろしく頼むよ」
そこで課長との会話は終わった。
・・・ 休日出勤とはいえ窓口業務はよほどのことがない限り残業はないでしょう ・・・
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「おはよう」
聞き慣れた男性の声がした。
「あら、西方さんじゃない。久しぶり、大変だったみたいね」
昔、一緒に働いた部署の人と話す。
「本当に大変だった。人手不足にこの感染症の対策だからな」
辺りを見回すと机等の備品の配置が変わったり、いたるところにアルコールの容器が置いてあった
西方さんはうんざりした顔をして話を続ける
「誰かさんは他の部署に逃げるし」
「逃げたんじゃないわよ。人事で決まったから仕方ないでしょ」
「そうなんだよな、人事でまともな奴がこの後の人材の不足とか感染症の影響をきちんと予測していてくれたらこんなことにならなかったんだがな」
「予測できても西方さんのポジションは変わらなかったんじゃないの?」
そういうと西方さんは数学の難問が解けたかのように顔つきが変わった。
「そうか!! つまり俺の忙しさは変わらなかったということか」
「多分そうよ」
2人で軽く笑いあって、その場を後にした。
そして市役所が開庁。
私も受付をしながら新卒の人からの質問に答えたりしながら仕事をする。
「すいません。身分証の再発行なんですが今、自分が受付をしている方が印鑑を持ってないらしくて」
「本人が来てるの」
「ええ」
「なら実印がなくても大丈夫よ」
「すいません。ありがとうございます」
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そして17時15分。
終業を告げる鐘がなり私たちは簡単な掃除をしたり机や消耗品の補充をして帰宅する時間となった。
・・・ 家に帰ったら今度は桃花のご機嫌とりか… ・・・
ため息をつきながら役所を出て駐車場に向かう。
すっかり日は傾き、オレンジ色の夕焼けが空を染めていた。
「母さん、母さん。」
「ん?」
・・・ 奈々? ・・・
振り向くと娘たちが迎えに来ていた。
「ど、どうしたの?」
「どうもこうも迎えに来ただけですけど…」
「歩いて来たの?」
「買い物のついでです」
「なるほど。で、あんたも来てくれたのね?」
私はもう1人の娘に視線を移す。
「しょうがなく、ね」
「まだご機嫌斜めなの?」
まだ桃花は私に怒っているようだ。
「もちろん。親が約束破るのはいけないことだし、きっちり家族サービスしてよね。ほら、鍵。」
桃花は小さな手を私に向ける。
私が車の鍵を渡すと今度は足早に駐車場にかけていった。
その後ろ姿を見て、ため息が出てくる。
・・・ これは機嫌を直すのが大変ね。 ・・・
「次は主婦としてのお仕事ですね」
隣では奈々が笑いながら言った。
「本当に参るわよ。休日出勤であんなにふてくされて、仕事なんだから仕方ないでしょう」
「桃花も母さんの立場は理解してますよ」
「え?」
「実際、母さんの所によると言ったのも桃花ですし」
「じゃあ、なんで機嫌が治ってないのよ」
私の状況がわかっているなら少しくらい許して欲しいのだけど。
「…ジレンマ… じゃないですか?」
「何それ」
「桃花も母さんと一緒に過ごせなかったのも、それが仕方のない理由だったのも頭の中では整理できてるんですよ。
でも、一方で自分の約束を破られ、ないがしろにされた怒りや寂しい気持ちもまだ残ってるんじゃないですか?」
「何、その矛盾した感情」
「それがジレンマです」
私より奈々の方が感受性が高いのでおそらく今の桃花の心境は当たっているのだろう。
「で、どうすればあの機嫌は治るの?」
「それは、自分でなんとかしてください」
「いいアイデア持ってないの?」
「いえ、問題解決は母さんの方が得意じゃないですか」
頼れる高校生は問題の原因を教えてくれても解決法は持ってなかった。
「・・・」
・・・ じゃあ、このまま放置ね。時間が経てば機嫌も治るでしょう ・・・
「今、放っておこうとか考えませんでした?」
奈々が尋ねる。
「ええ、なんで」
「ダメですよ。確かに母さんが休日出勤で疲れてるのはわかりますが桃花だって寂しいの我慢してたんですから桃花の気持ちも少しはわかってあげてください」
「親みたいなこと言うのね、奈々…」
「私は中立の立場でジャッジしてるだけです。その代わりお風呂のタイマーは予約しましたし、洗濯もしてるので」
・・・ 家事に逃げることもできなくなったわね ・・・
むくれ顔の小学生と高校生の裁判官を車に乗せ、家に帰った後は桃花のゲームに付き合わされるのであった…。