皇国諜報員 シレン
「……シレンくん?」
ユフィが立ち止まり振り返ったため、手を繋ぐゼロも一緒に振り返る。
ゼロとしてが、銀髪の青年とすれ違ったかな、と思った程度だった。
取り立てて特別感もない、まるで普通の一般人とすれ違った、そのくらいの感覚だったのだが。
「ほお。平和ボケしているかと思ったが、そこまでではなかったようで安心したよ」
声をかけられた青年は、よく見れば整った顔立ちをしていた。少しよれた灰色のシャツと黒のズボン姿で、目元にかかるほどに伸ばされた前髪からは陰鬱な印象を受けがちだが、背筋はすっと伸びている。
そこにいるはずなのに、油断すると存在を忘れてしまいそうな、不思議な感覚を与える青年だった。
「知り合い?」
「うん」
道端で立ち止まった3人へ、通りかかる人々がちらほらと視線を送る。
ゼロの質問に端的に答えたユフィは、彼についてどう説明したものか考えているようだった。
一瞬ゼロが東部に来るまでの間に出来た知り合いかと思ったのだが、既に東部の中でも皇国の公爵家出身ということが有名になってきているユフィに対して「平和ボケしているかと思った」などと言える者は、この街にはいないだろう。
ユフィに敬語を使わないあたりは気になるが、きっと皇国の誰かなのだろうと判断したゼロは、どう対応したものかと考えていた。
「人が多いところで話すべき人じゃないから、ちょっと場所を変えようか」
ユフィの言葉の意図は分からなかったが、今は従うべきだろうと判断し、ゼロとユフィ、銀髪の青年は近くの喫茶店へと移動するのだった。
「ええとね、彼はシレンくん。シレン・フーラー。セルナス皇国諜報部を取りまとめる、フーラー侯爵家の人だよ」
「ご紹介に預かったシレン・フーラーだ。はじめまして、ゼロ・アリオーシュ」
「フーラー侯爵家……」
ゼロとユフィが横並びに座り、正面の席にシレンと呼ばれた青年が座る。
正面に座っているのに、なんだかすぐに意識から消えそうになる、不思議な存在だと思っていたが、彼が諜報部を取りまとめる家柄の出自と聞き、合点がいった。隠密行動は、お手の物なのだろう。
「あ、ゼロのことは知ってるか」
「はじめまして。それで、なんだって皇国の諜報部が東部なんかに?」
間を取り持とうとするユフィが目線をいったりきたりさせているのを気にもせず、ゼロは正面に座った青年を少しだけ警戒するように、そう尋ねた。
「麗しの君に会いに来た、といえば君はどうする?」
警戒されていることは重々承知だろうが、シレンの口ぶりはいたって自然なものだった。そんな口ぶりで、恐らくゼロとユフィの関係も知っているであろうにも関わらず、挑発的なことを言ってくる彼へ、ゼロの目線が険しくなる。
先ほどまでの平和はどこへやら、緊張感漂う二人にユフィが大きくため息をつく。
「冗談はやめて。ゼロも本気にしないでいいからっ」
少しだけ声に怒気を含めた声に、シレンが小さく笑みを浮かべる。
「これは失礼。安心したまえ、俺には婚約者がいるからな」
二人の言葉を受け、まだ少しだけ警戒心を残しつつも、ゼロはシレンへ向ける視線を和らげる。得体がしれないな、とは思うが敵意はないようだ。
「シレンくんの冗談は分かりにくいんだから、ほんとそういうのはやめて」
「わかったわかった。俺がここにきた理由は2つ。1つ目はゼロ・アリオーシュ、君を見てみたくて。2つ目は少しよくないことが起きていることを、ユフィ嬢に伝えるためだ」
「よくないこと?」
「ああ。まだ法皇様にはお伝えしていないが……皇国東部の、東公が死んだ」
それが誰かは分からないが「死んだ」という穏やかではない言葉にゼロは眉を顰める。
その言葉を聞き、一気にユフィの表情が青褪める。
「嘘でしょ……」
「こんな嘘をついて何の意味がある」
目元が前髪で隠れているため、何を考えているか分かりづらいシレンだが、恐らく彼はいたって真顔だろう。冗談や嘘を言うような雰囲気でもないため、先ほどの言葉は嘘ではないだろうなと、ゼロは感じていた。
「東部はまだ事態を隠しているが、まもなく法皇様の耳にも入るだろう」
「なんで? なんでセレマウにすぐに言ってあげないの?」
「御三家には御三家の思惑があるのだろう。御三家より緘口令が敷かれているため俺もまだ報告はできないんだ。……この事態がどう転ぶか分からないが、ここしばらくで王国の商隊も皇国全土で活動するようになっているし、いい方向には進まないとは思う。この話を聞けば、おそらく法皇様は君に側にいて欲しいと願うだろう。だから俺が先にここに来たんだ」
話の流れが見えないゼロを置き去りに、青褪めた顔のユフィへシレンは淡々と語り続ける。
3人の異様な雰囲気に気づいたウェイターは、注文されたコーヒーを恐る恐るテーブルにコーヒーを置くやいなや、足早にテーブルから去っていった。
提供されたコーヒーに口をつけるシレンの表情からは、何を考えているかは全く分からない。
「ゼロ・アリオーシュ、もしかしたら君の力を借りる事態にもなるかもしれない。君とユフィ嬢の寄り添う姿こそ、両国が目指すべき未来そのものだからな」
シレンの言葉を胸に止めつつ、ゼロはその言葉の真意を探る。
「二人に会うことができてよかったよ。ユフィ嬢をよろしく頼む」
その言葉を言い切るや否や、気が付くと目の前の席に座っていたはずのシレンの姿はなくなっていた。
残されたのは、少しだけ減ったコーヒーと、コーヒー1杯の値段としては多すぎる皇国銀貨1枚のみ。
遠くからちらちらとゼロたちのテーブルに目線を送っていたウェイターも、気が付いたら一人人数が減っていることに驚きの表情を浮かべている。
「……なんだってんだ?」
あまりに見えてこない話の流れに茫然としつつも、もう買い物どころではないだろうと判断し、青褪めたままの表情のユフィを何とか立たせ、ゼロたちはアリオーシュ家へと戻っていった。
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