二話
走る二人の周囲でも、通行人達が小さな悲鳴を上げつつ駆け出していた。
だが、橋の下へ向かったのは幸樹達だけのようで。
二人とも何とか目的地まで着いたが、ずぶ濡れになってしまう。
水を含んでべったりと体につく制服が、気持ち悪い。
一度脱いで、絞ろうかと思い立つ。
幸樹はスポーツバッグを雑草の生える地べたに下ろし、学ランに手をかける。
だがその時、走ったせいで息を上げていた太一が、左目を手で抑えていることに気付いた。
痛みで顔をしかめている様にも見え、幸樹は彼の顔をうかがう。
「どうしたんだ?」
「目の奥がごろごろする」
雨に含まれる大気中のゴミが、目の中に入ったのかもしれない。
立ったままでは何とも出来ないので、太一を座るように促す。
激しい雨は、橋に打ちつけその飛沫を二人に飛ばしている。
少々湿っただけの地べたに座り、幸樹が彼の顔を覗き込んだ。
太一の頬にはまっすぐな黒髪がぺたりと張り付いていて、なぜだか幸樹は目をそらしたくなる。
先ほど走っていて、彼の背中を押していた時も感じた、あのむずがゆさだ。
一体なんだというのだ、この感覚は。
嫌な感じではないが、認めたくも無い気もする。
「ゴミが入ったっぽい」
太一の言葉に、はっとして幸樹は現実に引き戻された。
今は自分ではなく、目の前の幼馴染のほうが重要だ。
雑念を払うように、敢えてしっかりと彼の顔を、再び見つめた。
左目を抑えている太一の手を、自分の手でゆっくりとどけて、目をちゃんと開くように言う。
太一は痛みで出てきた涙を浮かべつつ、おずおずとまぶたを開ける。
ゴミを逃れるために、無意識に黒目が右往左往しているが、だいぶ白目のところが赤くなっているのが見えた。
「まだ痛いか?」
「さっき指でちょっと目を触ったら悪化した」
「そこは触ったらだめだろ。そうだな、涙を流せば一緒にゴミも出てくるんじゃないか」
「そんな女々しいこと出来ない」
幸樹の提案を、すぐさま太一は断った。
そんな態度に、幸樹は違和感を覚える。
この状況で涙を流すことが、果たして女々しいだろうか。
それに、流したとしても不可抗力だ。
「おい、太一。そんな意地張っても痛いだけだぞー」
「嫌なものは嫌だ」
語尾を柔らかくして言ってみるが、彼は頑なに拒む。
「あのなあ」
「悪いけど、嫌なんだ。わかってるけど、嫌なんだ」
「何でだよ」
「言いたくない」
「それなら、俺が後ろ向いておくからその間に流せよ。俺は見てないから、女々しいとも思わない」
「でも流すことになるじゃないか。いいよ、ここから出て家まで走る。家で顔を洗えば治る」
「おいおい」
妙な問答になって来た。駄々っ子を諭すような展開に、幸樹は苦笑する。
涙を出せば、ゴミは取れる。ただそれだけのことじゃないか。
何故それだけのことが出来ない。
「……ごめん」
幸樹が苦笑いしたのを感じとったのか、太一は痛みに耐えつつ面と向かって謝る。
自分でも、変な意地を張ってるのは自覚しているらしい。
「いや、俺に謝るのはいいんだけどさ」
依然として目を赤くする太一を目前に、彼は困った。
先ほどからずっと太一の左手を掴んだまま、どうしたものかと、幸樹はその目を覗き込む。
太一もこちらを見つめているので、自然と視線がかち合う。胸の奥でむず痒さがまた来たが、今は無視することにする。
太一がそこまで女々しさに執着する理由はわからない。
しかし、たとえ流したとしても、おかしな感じには映らないはずだ。
きっと彼には、涙が似合う。
今だって、こんなに涙をいっぱいに溜め込んで、瞳がきらきらしてる。
すごく綺麗だ。
「そんなに、流したくないのか」
もったいない。そんな言葉が心の中で浮き上がる。
ゴミを取る云々を抜きにして、幸樹はそう思う。
いつの間にか思考が違う方向へ行っているかもしれないが、もういい。
ただ、とても目が綺麗だから、泣くのを我慢しているのがもったいないと感じる。
耐えていても、ゴミは取れないので、涙はどんどん溢れそうになるばかりだ。
一方の太一は、そんな幸樹の心中の変化を知らず、
「流したくない」
「どうしても?」
「ああ」
目を真っ赤にして、彼は頷いた。
その瞬間、ついに太一の左目から涙が零れ落ちた。
一滴だけ、すうっと筋を頬に引くように。
ああ、わかった。
幸樹はその一滴があごのラインで落ちていくまでを眺めて、気付いた。
むず痒さの理由にだ。
目の前の幼馴染は、記憶の中の幼馴染とは少し違っている。
いや、変わったというべきか。
中学まで一緒だった太一は、こんなに綺麗じゃなかった。
さっき触った肩の細さは、自分をどきりとさせなかったはずだ。
こんなに雰囲気が、艶っぽくなかったはずだ。
だけど、そんな彼でも太一は太一だ。
一年前共に笑い、ふざけ、遊んだ太一だ。
そして今いる艶やかな彼も太一だ。
そのギャップが、幸樹の胸を掻き毟りたいほど、むずむずさせる。
こんな感情は危ない。
早く取り去るべきだ。
早く、早く、こいつから涙を取らなければ。
ああ、また流れそうになっている。
「どうした、こう――」
雷が、彼の名を呼ぼうとする太一の声を掻き消し、同時に幸樹の頭をスパークさせた。
そして雷鳴が轟いた後に。
「ひっ……」
太一がか細く、小さな小さな声を上げた。
それもそのはず。
幸樹は彼の痛がっていた左目を、舌で舐めたからだ。
涙が流れた頬から舌を這わせて、そのまま潤んだ瞳にたどり着いたのだ。
ざらりと目玉を生暖かいものが、覆っていく。
太一の左手は幸樹の右手で既に捕まっていたし、頬も彼のもう片方の手で抑えられていた。
右手が唯一空いていたが、突然の出来事に、太一はじっとしていることしか出来なかった。
おかげで、しつこいくらいに幸樹は太一の目玉を舐めあげる。
どこか必死な感じで、ねっとりと、余すことなく。
唾液と吐息が、太一の涙と混ざり合う。
まぶたを舌で押し上げ、空気に触れていなかった所まで侵していくと、小さく粒粒としたものに当たった。
びくりと太一が肩を震わせたのを感じながら、若干強めに舌でその辺を押し舐める。
そうして、幸樹は彼の目から離れた。
呆然としている彼を尻目に、自分の舌に指を這わせて、異物を取る。
「取れた、な」
他にもっと言うべきことがあっただろうが、そんな今更なことしか幸樹は思いつかなかった。
既にむず痒さは、痒さを通り越して痺れへと変わっている。