1-8
三人は途中で水路をそれて入り組んだ道に入った。
石でできた建物が威圧的にそびえ立つ細道。そこを抜ける手前で、クリスファーが壁に寄りかかって片膝をついた。力なく伏せられた顔には血の気がなく、色のない唇から苦しげな息が漏れる。マユラはライを降ろしてクリスファーに駆け寄った。
「大丈夫ですか」
何かひどく胸騒ぎがする。嫌な気持ちが胸のあたりに迫ってくるが、マユラは出来るだけ平静を装ってクリスファーに肩を貸した。
「しくじったな。あいつはかなりの使い手だ」
男にやられた傷が紫色に膿んでいた。毒だろう。マユラはゆっくりと息をのむ。考えたくない考えが頭に広がりそうになる。クリスファーが足を動かして、マユラははっと我に返った。今はとにかく、安全な場所に避難しないと。
つたない足取りのクリスファーに肩を貸しながら、マユラは大きな建物に近づいた。ライが不安そうにマユラの服の裾をぎゅっと握る。ちらりと向けられる金の瞳へ、大丈夫ですよというように固く頷く。ちゃんと笑えていただろうか。
クリスファーはゆっくりと塀に手をやって、壁の材質を調べている。毒のせいか指先が小さく震えていて、マユラは思わず目を逸らした。ライがますますマユラに身を寄せる。
やがて目的の壁を見つけたのか、クリスファーが手で押した。壁の一部が扉になっており、静かに内側へ開く。
中は映画館のような内装だった。舞台と、それを見るためにずらりと並んだ椅子。今は何も上映しておらず、ライトのない暗い室内に寂しげに整列しているだけ。
「今は使われていない劇場だ。ここならしばらくの間、過ごせる」
クリスファーは仮面を外し、近くの壁にもたれかかるようにして座り込んだ。緑の瞳は何も映していないようにぼうとしている。相変わらず顔色が悪く、動くのもつらそうだ。
「大丈夫。毒には慣れているから、しばらく休めば……」
無言のマユラの気持ちを察してか、クリスファーが薄く微笑みを浮かべた。マユラは小さく頷いて、こちらを窺ってくるライを抱き上げると、館内の詮索を始めた。今、出来ることをやらなくてはいけない。他愛のないことでも、マユラに出来ることはあるはずだ。
入口近くの壁に劇場内の見取り図が張られていた。ところどころ霞んでしまっているが、間取りを知るのに問題なかった。マユラは舞台の袖にある部屋へ移動する。
扉を開けて中へ入ると、長細い楽屋の両脇に、ハンガーにぶら下げられたままの古びた衣装が放置されていた。
「衣装も残っているんですね」
「マユねーちゃ、何しているの?」
不安気なライににっこりと笑いかけて、マユラはその柔らかな髪を撫でてやる。
「食料がないようなので、変装して買い出しに行って行こうと思いまして」
籠城するなら最低限の食料が必要だ。先ほど襲撃してきた男に顔を覚えられた恐れがあるが、ここには男物の衣装も多く置いている。男装をすればばれる心配はないだろう。
マユラは新聞売りの男の子が着るような、チェック柄の上着とジーンズを身につけた。黒い長髪は布の帽子の中へ隠す。鏡を覗いてみれば、なかなか普通の男の子に見えるマユラが映っていた。
満足してそのまま楽屋を出ようとしたマユラの背に、小さな声がぶつかった。
「マユねーちゃ、クリスにーちゃが怪我したの、ライのせい?」
ライの金色の瞳がじっとこちらを見つめてくる。真剣な眼差しに、マユラは内心で舌を巻いた。これは、下手なごまかしは通じそうにない。
ライをしっかり見つめ返しながら、軽く首を傾げて何気ない口調で話しかける。
「わたし達、職業がら恨みを買うことが多いんですよ。こんなのは慣れっこなので、ライ君は気にしなくていいです。クリスファーさんをお願いしますね」
しゃがみこんでライの両肩に手を置くと、ライは躊躇いがちにこくんと頷く。一応は納得してくれたのか、素直にホールへと走っていく。
マユラも小さな背中の後を追った。
クリスファーは曲げた膝に顔をうずめるようにして座っていた。肩が小さく上下している。マユラの目に彼がやけに弱々しく見えて、自分と同じくらいの年だという事実を漠然と思い出した。
ライはクリスファーの腕に手をかけながら、不安気な瞳で寄り添っている。
不安が伝染しないように、マユラはあえて明るい声を出す。
「クリスファーさん、買い物に行こうと思うんですが、何か欲しい物あります?」
クリスファーがわずかに身じろぎした。
「……解毒の薬草を頼めるか。この毒は、思ったよりも厄介らしい」
「わかりました。……それじゃ、いってきますね」
あははと乾いた笑い声を出して、マユラは劇場の入り口に向かった。
買い物は案外スムーズに進んだ。
適当な商業区で食料屋と薬草屋に入って、目当ての物を紙袋へ入れてもらう。そっけない店員からお釣りを受け取ったマユラは店を出て、赤い陽射しに照らされた歩道を歩く。時刻は夕方。帰路につくマユラの脇を、犬の頭部を持つ魔物――コボルドの子供達が楽しげに話をしながら駆けていく。会社帰りの人間も多く、食堂からは賑やかな声が聞こえてくる。今日もまた、一日が終わろうとしている。
「雷獣がこの街に滞在しているそうだ」
聞こえてきた雷獣という単語にマユラは足を止めた。
「本当なのか? あの伝説の神獣が?」
横目で声の元を眺めてみると、自分の首を小脇に抱えた騎士が、緑色のナイトキャップを被った妖精と話している。デュラハンとピクシーだ。金髪の生首が驚いた顔をしていた。
二人はマユラに気づかずに、会話を続ける。
「だったら会合の旗印になってもらえば……いけるよな?」
「ああ、エクソシストのやつらだって俺達の話を聞いてくれるはずだ」
「俺、エギュトに教えてみる! きっと……」
その次の言葉は、地下に吸い込まれて聞こえなかった。彼らは道をそれて階段を下り、地下の店に姿を消した。
周囲を見回して視線がないのを確認し、マユラはゆっくりと階段を下る。薄暗い灰色の階段の下に、茶色い木の扉があった。喫茶店らしい店には、白い簡素なプレートに妙な文字が書かれている。店の名前のようだが、生憎、マユラには読めない。
「何の話でしょうね」
とりあえず、文字を紙に写して、マユラは来た道を戻り始めた。