3-6
どれほど時間が経っただろうか。何者かが近づいてくる気配に、マユラは顔をあげた。
その人物の姿を見とめて、マユラは露骨に嫌そうな表情になる。
「解放されたんですね」
「おかげさまで、怪我一つなくな」
ヴィクトールは手首をさすりながら、余裕を持った佇まいで頷く。その姿にわけもなく苛立ちが募り、マユラは舌打ちした。
「何か用ですか?」
「君に用事はない。エクソシストは、まだそこにいるか?」
彼が顎をやった道の向こうに四角い建物を確認して、マユラは自分が図書館からそれほど離れていなかったことを知る。あの場所に、まだクリスファーはいるだろう。リリィ相手に何を言っているのか……気にはなったが、マユラには関係のないことだ。
気づけば、マユラはヴィクトールを見上げるようにして睨みつけていた。
「あなたが全部悪いんですよ」
冷ややかな声が、目の前の男を責める。昨日まで……いや、ほんの一週間前までは変わりない日常を送れていた。モンスタークラブの手助けをして、ライの母親を探して、クリスファーとライと、劇場で暮らしていた。
マユラはあの日々が、嫌いではなかった。
「上手くいっていたのに、あなたのせいで――」
嘘なんて、知りたくなかった。気づかないまま、騙されていたままのほうがよかった。知ってしまえば、もう戻れない。モンスタークラブも、マユラも、クリスファーを見限った。彼が信用に値する人物ではないと、知ってしまったから。
マユラの言葉を、ヴィクトールは正面から受け止めた。彼は謝りも慰めも口にせず、大人の正しさで淡々と告げる。
「その程度だったわけだろう。君たちの絆は。まあ、無理もない。歪な関係では、友情なんて生まれないな」
「勝手なことを言うんですね。上から目線で。ご立派な大人さんは違いますね。さぞかし楽で楽しい事でしょう」
嫌味をぶつければ、ヴィクトールは目を丸くする。
「そういう考え方をするのか」
自分がひどく見下された気がして、マユラは何も言わずに彼の横を通り抜けた。静かな足取りが、ヴィクトールから離れるほど、どんどんと早足になっていった。
スネール地区を抜けたところで、息を切らした声がマユラの背中を叩いた。
「マユねーちゃ、どこにいくの?」
マユラは答えないまま、足を進める。
「マユねーちゃ?」
左手に握った幼子の手から、するりと力が抜ける。温もりが離れてはっとしたマユラは、振り返って地面に倒れ伏す幼子の体を呆然と眺めた。
空白の一瞬の後、マユラは慌ててライを抱き起した。
「ライ君、……ライ君? どうしたんですか」
ライはマユラの腕の中でぐったりとしたまま、苦しげな息を吐き出した。体は氷のように冷たいのに、頬は上気して赤くなっている。朦朧としたまま、小さな手が、マユラの姿を探すように動いた。マユラはどうしていいのかわからなくて、その手をぎゅっと握りしめる。
きっと、マユラが無理をさせすぎた。幼子の歩調に合わそうともせず、寒空の中、歩き続けた。抱き上げるくらい、なんてことなかったのに。
元々具合が悪かったのかもしれないし、ハデス達やマユラの様子に不安を覚えたせいかもしれない。ぐったりとしたライを抱きかかえたまま、マユラは途方に暮れる。
どうすればいいのか、全く考えられなかった。
雲に覆われた暗い空から、白く冷たい雪が落ちてくる。ちっぽけな二人を隠してしまいそうなほど、しんしんと周囲を白く染めていく。
マユラは地面に座り込んだまま、雪を眺めた。降り積もった雪の白が、通行人の足に踏み荒らされて、土に汚れる。口元に歪な笑みが浮かんだ。綺麗なままの白なんてない。みんな汚い。クリスファーも、マユラも。嘘ばかりで世界を汚していく。
コツ、と固い皮靴の音が地面を叩いて、大きな体がマユラの前に立ちはだかった。
「君は……マユラさんだっけ? こんなところでどうしたんだい……その子!」
白衣の男が、雪に濡れるのもかまわずに跪いて、ライの頬に手をやった。
「病気みたいだけど、大丈夫かい?」
(大丈夫に、見えるんですか? だったら目の病気ですね)
反射的に八つ当たりまじりの思考をしながら、力なく顔をあげたマユラは、ブライアンの春空のような青い瞳を見つめた。
ブライアンは安心させるように、にっこりと微笑む。
「この前のお返しに、僕の病院で治療させてよ。大丈夫。診療代なんて取らないから」
そういえば、彼は医者だった。マユラは迷いつつも、どうしようもない現状に気づく。行く当てだってない。渡りに船は好きではないが、そうするしかあるまい。
空虚な気持ちのまま笑みをつくって、マユラは小さく頭を下げる。
「よろしくお願いします」
どこまでも無力な自分を感じて、いっそ、雪に解けて消えてしまいと思った。