3-2
先日の雨が嘘のように雲一つなく、澄んだ空だった。
秋も深まり、道の両脇を彩る並木もすっかり赤に染まっていた。通りかかる人も長袖の厚着になってきている。マフラーを巻いた天使が露店で熱いコーヒーを売っているのを眺めながら、マユラは歩く足を速めた。先に行くハデスが、大げさなため息をつく。
「まったく、あれが意味のある行為だとは思えないな」
自然公園の工事妨害の帰り道。相変わらず地味な妨害工作が続いているが、作業員たちも慣れたのか、最近は上手くあしらいながら作業を進めている。
正直、モンスターたちのやる気が空回りしているだけに思える。ハデスもそう感じているのかいら立ちを隠さず道端の石を蹴っ飛ばした。ころころと転がった石は、建物の壁にぶつかって止まる。
「クリスファーさんの事だから、何か考えがあるのだと思いますけど」
マユラからクリスファーに尋ねる事はない。マユラはただ、彼の指示に従うだけだ。積極的に関わろうと思わないので、モンスターよりも焦燥は薄い。
ただ、ライの母親は早く探してやりたいと思う。おとなしくていい子だといえ、ライは幼い子供で、母親が必要な年だ。そんな子供をほったらかして姿を見せないライの母親には、つくづく呆れを通り越して空しい怒りすら感じる。
いつの間にかマユラを追い越していたハデスが、立ち止まってくるりとこちらを向いた。
「ちょっと付き合ってくれないか?」
控えめな言葉で告げて、居心地悪そうに頭をかく。マユラは不信を隠さずに眉をひそめた。
「何にです?」
「メルに、土産でも買っていこうと思ってな。女の意見が聞きたいんだ」
「いいですけど。……だったら、誘いたい人がいるんですが」
ふと思いついて、マユラはそう口にしていた。誘いたいのはリリィだ。
さっそくリリィの屋敷を訪ねると、退屈していた彼女は二つ返事で行くと言ってくれた。マユラと違って乙女力がありそうだし、妹への土産ならば彼女の方が的確だろう。それに以前、リリィに会せると、メルに約束したのもあった。
それから半時間後、シンプルな青いワンピースを着たリリィは、日傘をくるくる回しながらおっとりとマユラに話しかけてきた。
「ハデスさんの妹さん、話には聞いていましたが、会うのは初めてですわ。マユラ先生は会われたんですのね?」
「ええ。お兄ちゃんに似ずに、とても素直そうな女の子でしたよ」
にっこり答えたマユラの傍ら、ハデスが嫌そうに顔をしかめた。リリィの事を、メルにどう説明しようかと考えているのだろう。
三人は表通りの雑貨屋に入った。柔らかな色彩の店内には、様々な食器類――コップだけでも数十種類もある。繊細な小人の陶器人形に、紅玉の髪飾りや髪を結ぶリボン、カバンにぬいぐるみといった小物類が置かれている。ごちゃごちゃしているのに不思議と整列した印象の小物たちが棚に並べられている。
リリィは気に入ったものを指さしながら、マユラにどれがいいか聞いてくる。わからないので首をかしげるしかない。
しばらく二人で店内を見て回り、結局、日常にも利用できるものがいいのではという結論が出て、髪飾りを購入した。濃い紫色の飾り石は、ハデスの瞳の色と同じだ。店の外で待っていたハデスに紙袋を渡し、病院に行くことになった。メルの病室は二階にある。入口に張ったところで、マユラは足を止めた。見覚えのある人間が、白衣姿でうろついている。
「あれ、君はこの前の……」
マユラは小さく頭を下げる。
「お久しぶりです、ブライアンさん」
「院長と知り合いなのか?」
ハデスが不思議そうに問いかけてくる。エクソシストの会議に潜入したことを話すわけにもいかず、マユラは肩をすくめて返答とした。
「今日はお友達とお見舞いかな?」
「まあ、そんなところです」
ハデスとリリィは先にメルの病室に行くようだ。横目で彼らを見送って、マユラはブライアンへ向き直った。
「ブライアンさん、院長をしているんですか?」
「まあね。僕と、あとコルターもエクソシストの傍ら院長なんてものもやらせてもらっているよ。公務員は兼業できないけど、貴族ならできるんだよ」
つまり彼もコルターも貴族らしい。確かに彼の優男風の顔は、育ちのいい坊ちゃんといった印象がある。彼は親しげな笑みをふりまいて、柔らかな声で言葉を続ける。
「この前はありがとうね。記録だけじゃなくて、わざわざ翻訳まで……。ところで、あれはどこの国の文字で書いたんだい?」
「さあ、どこでしょうね」
マユラは曖昧に笑って見せた。この曖昧な笑顔が有名な日本です、と言ったところで通じるはずがない。
ブライアンと別れて、この前に訪れたメルの病室へ行く。入口の手前に立つリリィを見つけて、マユラは小首をかしげた。どうして部屋の中に入っていないのだろう。
「……リリィさん?」
声をかけると、リリィが戸惑った表情で振り向いた。扉は半開きになっており、部屋の中にハデスが立っていた。彼の視線の先のベッドに、いるべき少女の姿はない。
「おまえに選んでもらったプレゼント、無駄になったな……」
俯いたハデスの表情は見えない。だけど部屋の空気が深刻そうに張りつめ、リリィも悲しげに目を伏せる。
「ハデスさん、メルさんは検査中ですか?」
ハデスは振り向かないままぽつりと告げる。
「メルは、死んだ」
何を言われたのか一瞬理解できなくて、マユラはきょとんと眼を瞬いた。この部屋にはハデスの妹が入院しているはずで、彼女の名前がメルである。
病室のベッドへ目を向けると、白い布団がぬくもりなく横たわっている。
「だって……この前は元気そうだったじゃないですか」
メデューサ病は、治療に時間がかかるが、容体の急変はない病気だったはずだ。それがどうして、そんな急なことになったのか。
頭でいくら考えたところで無駄だ。
事実は、はっきりと目の前に広がっている。
何も言えないハデスの言葉を引き取って、リリィがぽつりと語る。
「先ほど看護婦さんが来られて、メルさんは昨日の夜に亡くなられたと教えてくださいました。ハデスさんにも連絡しましたが、通じなかったそうで……。メデューサ病は感染病ではないとはいえ、遺体からも感染しないとは言い切れないので、メルさんはすぐに埋葬されたそうです」
マユラは無表情に彼女の言葉を聞いていた。急なことばかりで、どう反応していいかわからない。感情が追い付かなかった。
ハデスは妹を亡くしただけでなく、死に目にも会えなかったと言う事か。
ハデスがうつむいたまま、絞り出すような声を出した。
「…………俺は馬鹿だな」
マユラは入り口に立ったまま、どうすることもできずに彼を眺めていた。
リリィがマユラの袖を引いた。小さく耳元に囁きかける。
「マユラ先生、行きましょう」
ここにいたって、彼のために出来る事はない。マユラとリリィは並んで病院を後にした。秋も終わりに差し掛かり、冷たい風が二人の髪を弄ぶ。マユラの隣で、リリィが黒い傘を広げた。
リリィは青い瞳をどこか遠くに向けて、考え込むようにしていた。
「リリィさん、大丈夫ですか?」
声をかけると、リリィはこちらを振り向いて曖昧に微笑んだ。
「わたくし、何もできませんでした」
儚げで透明な笑みを浮かべる少女に、マユラは虚を突かれた。
「ハデスさんが悲しんでいるのに、どう声をかけていいのか、わからなかったんです」
リリィはどこまでも優しげで、マユラにはないものをたくさん持っている。そう思った。彼女はハデスが傷ついているのを感じて、心を痛めているのだろう。
彼女が眩しくて、遠い。
(ぶっちゃけると、一緒に悲しんだところで、なにも解決しないんですけどね。そんな事を思うのは、私が捻くれているからでしょう)
マユラは頭の中で客観的な思考を続けた。自分はリリィのようにはなれない。過ぎたことは切り捨てて、前に向かおうと思う。
だって、悲しんだところで死んだ人が戻ってくるわけではないのだから。
それでも、わかっていても、悲しいと思うのが普通なのだろう。
心のある、生き物なのだろう。
「リリィさんは、優しいですね」
マユラは柔らかに語りかけた。リリィのようになりたいと思って、でも彼女のような性格ならば、それはもうマユラではないとも思う。
変わりたいと感じながら、どう変わればいいのかわからなかった。
「わたくし、強くなりたいです。ハデスさんを支えられるくらい」
リリィが囁くように呟いた。