プロローグ
―― プロローグ ――
上空から落ちる無数の水滴が、アルファルトを叩いて単調な音を立てる。
空を見上げて陰鬱な気持ちになりかけた時、突風が真由良の手から傘を奪い取った。
あっ、と思った時には傘は遥か上空。追いかける真由良をからかうように、どんどん遠くへ離れていく。
「まったく。傘だってタダじゃないんですよ」
ため息をつきながら雨の中を走って、ようやく手が届きそうになったが、白く濃い霧が視界をかすめて傘を見失った。
気づけば一寸先もわからない状況だ。
煙のように白い霧が辺りを包み込むが、不思議と冷たく感じなかった。雨の匂いもせず、ただ視界を塞いでいるだけ。
しばらくして周囲の霧が晴れた。ほっとして辺りを確認してみると、目の前に広がるのはクリーム色やアイボリー、白茶の石が敷きつめられた煉瓦道。周りに立つのは石でできた西洋の住宅街。すっかり変わっていた風景に、真由良は目を瞬かせた。
「どうなっているんですか……?」
確か学校から帰った後、着替えるのが面倒で制服のまま買い物に出かけたはずだった。
だけど、振り返ってみても来た道はどこにもない。視線を巡らせてみれば、周りがまったく別の世界に変わっていた。視界に広がる素朴な石造りの家も、細長い時計塔も、日本よりもヨーロッパを連想させる。
呆けたまま歩み、小柄な男とぶつかる。「すみません」と反射的に謝って真由良が男へ目を向ければ、男は緑の頭で振り返って、爬虫類特有の黄色の目で真由良を眺めた。
「気をつけてくれ」
トカゲの頭から人の声を出して、男は人ごみにまぎれる。
(え? トカゲが喋りました?)
驚いて人ごみの中に彼の姿を捜した真由良は、市場でドワーフが商品を値切る光景を目にした。武器を並べて売っている露天商の前で、髭を弄りながら文句を言っている。
視線を動かすと、光があふれ出る噴水。虹色に輝く水が吹き上がり、空気をあでやかな色に染めている。その前では、背中に白い翼をもった男女が楽しげに語らい、獣の頭を持つ半獣が散歩道を歩く姿が見えた。悪い夢を見ているようだ。
ぽつり、ぽつりと、こちらでも雨が降りだす。
冷たい雨が長い黒髪と頬を濡らし、これが現実だと教えてくれる。道行く人達が傘を広げて足早に通り過ぎるのを、真由良は呆然と見送った。
(ここは異世界、なんですか……? 神隠し?)
混乱まじりの疑問が浮かんでも、答えてくれる声はどこにもない。
降り始めた雨が、ぽつりぽつりと真由良の服を斑に濡らす。
唐突に冷たい雫が途切れた。
暗雲の空を遮ったのは藍色の傘。きょとんと顔をあげてみれば、真由良に傘を差しだしながら、金髪の少年がそっけなく視線を向けてくる。
「親とはぐれた……という年齢ではないし、大方、お使いにきたけど傘と荷物を奪われて途方にくれているメイド、と言ったところか。……行くぞ。送ってやる」
「えっ、どこにです?」
「君が働いている屋敷だ。事情を話せば屋敷の主人もわかってくれるだろう」
あまりに当たり前に言うので、面食らってしまう。
「どうして私が、メイドってことになっているのですか?」
「違うのか。まあ、どっちにしろ、ここで呆けていても雨は止まない。送って行ってやるから帰る家を教えてくれ」
真由良は小さくため息をついた。
「帰る場所なんてありませんよ」
正直に告げると、少年はとても嬉しそうに瞳を輝かせた。
まるで、喜ばしいことでもあったかのような笑みを向けられて、真由良は虚を突かれる。
「それは好都合だ。なら、僕の仕事を手伝わないか? ちょうど助手を探している」
「仕事……?」
「まだ事務所を手に入れたばっかりで、これからはじめるところだけどね。どうだ?」
「どうだって、言われましても……」
初対面で仕事の勧誘をしてくる少年を、相当な変わり者だと思う気持ちはある。怪しい仕事をさせるつもりかとの不信感や危機感も。
だけど、彼には少しも後ろめたい気持ちはなさそうで……。
それに、右も左もわからない世界へ来た真由良に『これからはじめる』という言葉は魅力的に聞こえた。
だから、
「……いいですよ」
と、思わず頷いてしまう。
「よしっ、決まりだ。こっちへこい!」
少年は真由良に傘を押し付け、雨の中を率先して歩き出す。雨の雫が金の髪に弾け、不思議とそこだけ世界が輝いて見えた。
「僕はクリスファー。君は?」
屈託のない問いかけに、少女は生まれて初めて自然に笑顔を浮かべた。
「私はマユラ。ただのマユラです」