第二章:影 [8]
「……というわけで、十日ほど留守にしますので」
事情を説明するラウルなどお構いなしに、ゲルク老人は読書に熱中していた。
(このくそじじい……聞いてやがるのか?)
背中で拳を握り締めつつ、平静を装って続けるラウル。
「その間何かありましたら、お休み中のところ申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。司祭」
「お? お、おお。わかっとるぞ」
一応聞いていたらしいゲルク老人は、いかにも渋々といった具合に頷く。
「留守はワシに任せて、しっかり稼いでくるんじゃぞ」
(このじじい……。やっぱり俺に神殿再建資金の捻出を押しつけてたんだな)
「はい。一刻も早く神殿を再建し、司祭にお戻りになって頂かないと」
ラウルの言葉に、笑顔とは裏腹の凄みを感じ取ったのか、ゲルク老人はごほん、と咳払いすると、読んでいた冊子をぱたりと閉じた。
「エルドナか。あそこにはユーク分神殿があってな。ワシの古い知り合いが神殿を預かっておるんじゃが……」
ふと考えて、ゲルクは机の引き出しをごそごそ探り出した。
「そう言えば、最近とんと連絡がないんじゃよ。手紙を書くから、すまんが届けてくれるかのう? ついでに挨拶の一つもしてくればいい」
同じ神を崇める神殿であっても、あまり交流がないのが一般的だ。とはいえ、街に立ち寄った際に挨拶に行くくらいは当然の礼儀だろう。
「はい、同じ神を崇める者同士、親交を深めるのは素晴らしいことです」
心にもないことを言いながら、ゲルクが短い手紙をしたためるのを待つ。意外なほどに達筆なゲルクが手紙を仕上げるのに、そう長くはかからなかった。封蝋で留められた手紙をしかと受け取り、ラウルは畏まって一礼する。
「確かに承りました。そのお知り合いのお名前は、なんと?」
「ヨハンじゃ。ヨハン=バルトス。ワシの名前を出せばすぐに飛んでくるじゃろうて。何せ五十年来の仲だからの」
それはなかなか、年季の入った知り合いである。ラウルが封書を大切そうに服の隠しにしまいこむのを見て、ゲルクは満足げに頷いた。
「出発は早いのじゃろ。はよ帰って、明日の準備をするといい」
「はい、それでは失礼致します」
一礼して書斎を離れようとするラウルの背中に、ゲルク老人の声がかかる。
「そう言えばお主、妙な卵を拾って育てとるそうじゃな」
ラウルの歩みが止まる。
「……はあ」
恐らくエリナが教えたのだろう。何を言われるかと冷や汗を掻くラウルに、老人はにやりと笑って言ってきた。
「妙なもんが出てこないといいのぉ」
「は、はあ……」
「まあ、拾ったのも何かの縁じゃろ。責任もって育て上げるんじゃぞ」
「はい、頑張ります……」
それでは、と去っていくラウルの後姿が、はるか昔共に戦った仲間に重なって見える。
(ワシもあの頃は若かった……。今となっては、過去の約束にこだわり続けるただの年寄りになってしまったがな……)
かつて。ゲルク老人がラウルと同じくらいの、若く希望に溢れた神官だった頃。
この地には悪しき影が蔓延っていた。
共に戦った友も今はなく、ゲルクだけが取り残されたように、この地に生きている。
それでも、懐かしいあの日々は、目を閉じれば鮮明に蘇るのだ。
ゲルク老人は遥か遠い過去に思いを馳せる。それは懐かしく、そして悲しい過去。
(若いうちは、その時が永遠に続くような錯覚に陥る。しかし時間など、あっという間に過ぎ去っていくものよ……)
時間は、決してとどまることがない。
良くも悪くも、時は流れつづける。
* * * * *
家に戻ると、何やら居間から楽しげな女性の笑い声が聞こえていた。
(あの声はエリナと、レオーナさんと……まだいるみたいだな)
何事だろうと思いつつ、居間の扉を開ける。途端に、
「おかえりなさーい!」
という大合唱が響いた。 見れば居間には、三人組にマリオにエリナ、レオーナと、知り合いが勢揃いしている。
「一体、なんの集まりですか?」
とりあえず一番近くにいたレオーナに聞いてみると、レオーナは笑顔で、
「まだラウルさんには内緒よ。でも、エルドナから帰ってくる頃には出来上がってると思うから、楽しみに待っててね」
と、何やら意味深なことを言ってくる。これはますます怪しい。
居間の机の上には、籠に入った卵。その周りには、カイトがいつも計測に使っている巻尺やら、針や糸、布切れなどが散らばっていた。何やら設計図のような物も広げられていたが、ラウルが視線を向けた途端にカイトがさっとしまってしまった。
(何をやらかしてるんだ? こいつらは……)
カイトをひとまず問い詰めたい気分だったが、レオーナ達がいるのでそうもいかず、代わりに少々引きつった笑顔を浮かべるラウル。
「なるほど。それでは楽しみに待っているとしましょう」
「絶対気に入りますよ、ラウルさん」
「そうそう」
エリナとマリオが楽しげに言っているが、どうにも嫌な予感がする。
(妙なもん作る気じゃないだろうなあ……)
卵の服など作られた日には、さすがのラウルも参ってしまう。
「それじゃ、あんた達が出かけてる間に作っておくから、楽しみにね」
裁縫道具を片付けて、レオーナが椅子から立ち上がる。
「あ、私もそろそろ……」
「僕達も、明日の準備があるんで失礼します」
レオーナにつられるように、どやどやと人が去っていき、ラウルと卵が取り残された。
「おい。マリオ達には人見知りしないのか?」
ふと聞いてみると、
――ぴぃっ――
と肯定的な返事が返ってきた。
(まあ、あいつらは見慣れてるんだろうしなぁ……)
はた、とラウルはあることに気づいた。
「……お前、見えるのか?」
そう。卵なのだから目があるはずもない。それなのに人を判別しているというのも妙な話だ。
――ぴぃ……――
今度は否定とも肯定とも取れない鳴き声が返ってくる。
(気配とか足音なんかで分かるのか……?)
しかし、その気配や足音をどこで感じ取っているのかも甚だ疑問である。
しばらく悩んだ末、ラウルは溜め息をついて卵を籠に戻した。
(考えたって分からねぇや……やめよ)
明日は早い。旅の支度をしようと寝室に移動するラウルの後ろで、卵は楽しそうに明滅を繰り返していた。
* * * * *
朝早くの出発とあって、見送りはコーネル一人だった。
「よろしくお願いしますね」
そう言っていつまでも手を振り続けるコーネルに、カイトとアイシャが手を振り返している。
幌なし馬車の綱を握るのは、綱裁きも手馴れたエスタス。馬も馬車も農家からの借り物だが、乗り心地はまあまあだ。
「馬車を使えば、エルドナまで三日で着きますよ」
エスタスの言葉に、ラウルはそうか、と相槌を打つ。馬車の振動が、寝不足の身には何とも心地よい。
(結局よく寝られなかったなあ……)
昨日ふと思いついてしまった疑問が、結局どうしても頭から離れず、なかなか寝付けなかった。おかげで見事に寝不足である。
欠伸をかみ殺しているラウルに、カイトが話しかけてきた。
「この卵、馬車の振動で割れちゃったりしませんよねえ?」
「大丈夫だろ? 殻も随分硬そうだし……。これだけ毛布やら布やらで包んでるんだから心配ないさ」
卵はいつもの籠に入れられて、更に人目を引かないよう布を被されている。一見何かの荷物にしか見えないはずだ。
かく言うラウルもいつもの神官衣から、エスタス達と似たような旅装束に着替えていた。ユークの神官衣は黒尽くめで、ある意味目立つのだ。ただでさえ噂になってしまっているのに、自分から宣伝するような真似はしたくない。
「昼前には隣村に着きますから、そこで昼食をかねて休憩しましょう。それまで寝ててもいいですよ、ラウルさん」
「そうか? それじゃ、着いたら起こしてくれ」
エスタスの言葉に甘えて、ラウルはごろんと荷台に寝転がった。
雲ひとつない青空が視界一杯に広がる。五の月に差し掛かったばかりの北大陸は、ようやく春本番を迎えたくらいだ。
「今日は暖かくて気持ちいいですね。この北大陸は、春と夏が極端に短いんですよ。あっという間に寒くなって、長い冬に入っちゃうんです。それというのも北大陸の……」
カイトの解説を聞きながら、ラウルは心地よい眠りに吸い込まれていった。




