夢十夜/ハートブレイク・ホテル
ハートブレイク・ホテル
時として、人と待ち合わせをするのは楽しいものだ。
若いうちは、主にオフタイムに遊びに行く時、或いは恋人とデートの時。
年老いてからのことを語れるほど、俺はまだ老いてはいないが、まあ似たようなものだろう。
そして俺が今人を待っているのは、遊びでもデートでもない。
れっきとした仕事にもかかわらず、どこかそれを楽しんでいる。相手は同僚で、待ち合わせ自体には何の危険も問題もないのだが。
きっとそこいら辺りが、俺がこの仕事に適正があると判断された理由なのかもしれない。
そんなことを考え、ホテルのロビーに佇んでいた。そこが指定の場所だったからだ。
46階建てのこのホテルは、この街では勿論、西海岸全体でもトップクラスに入る規模だった。ひっきりなしに客が扉の向こうから現れる。白人、黒人、アラブ人。身なりも人種も様々だ。
修学旅行中の学生らしい外国人の一団がエレベーターに消えたとき、待ち人がやってきた。
俺と同じく、目立たないダークスーツに大型のブリーフケースを下げている。俺と違う点は、服の銘柄にこだわらないことと、彼が生粋のアメリカ人であるということだった。
「待たせたかな」
「いや。俺が早く着いたんだ。フリーウェイが思いのほか空いてた」
俺はロジャーに言った。
ロジャー・ガーランド。陸軍の空挺部隊から軍情報部、中央情報局を経てこの機関に入った。俺とはまるで違う、「正しい」経歴の諜報部員だ。
「もう一人はどうした?確か明後日までは3人で動くと聞いたが」
「その通り。ロスの支局から分析官が一人来る。君の知り合いだよ」
眉を上げてロジャーを見た。彼はにこやかに笑いながら顎をしゃくった。
振り返ると、正面のエントランスから女が一人、やってくるところだった。瞬きをして、彼女を見つめた。
背は高くはないが身体のバランスはとれている。二十代半ばだが十代に見える顔立ちは、母親が日本人のためだろう、と俺は思っている。本人もそのことを自覚しているらしく、むしろそれを逆手に取るような服装を好んでいる。チェックのミニスカートと同じ柄のネクタイが、薄いグレイのブラウスの豊かな胸元で揺れていた。これでベレー帽でもかぶれば、フランスかスイスの寄宿舎の女学生だな、そうからかった事があったのを思い出した。スカートから伸びる形のいい脚は革のローファーまで続いているが、その大半は膝の上までをカバーする濃紺のストッキングに包まれている。右膝から下が義足のためだ。杖をついてはいるが、よほど注意して見ない限りそうとは気付かないほど巧みに歩く。
彼女が俺達の側に来るまで待った。ナイロンのダッフルバッグを肩から降ろして彼女が言った。
「ハイ、ロジャー」
俺の方を見た。
「久しぶりね。また一緒に仕事が出来て嬉しいわ」
「俺もだよ、エレン」
穏やかに、自然を装った笑顔でエレンに言った。成功した自信はない。
ありがたいことに、彼女が何か言う前に、ロジャーが割って入った。
「ようし、これでとりあえずは全員だ。チェックインといこう」
俺は頷いた。エレンが近寄ってきたベルボーイにダッフルバッグを預け、俺達はカウンターへと向かった。
部屋はそれぞれ、25階のシングルだった。30分後に35階のカフェテラスに集合だ、そういってロジャーは自分の部屋に入った。
部屋割りはロジャーがフロアの中心近く、俺が東西に延びる棟の東側、エレンが西側の部屋だった。彼女の部屋がいちばんエレベータに近い。ロジャーがそのように取り計らったのだろう。陽気でフランクに振る舞うところのある彼だが、こういう気配りも怠らないところに俺は好感を持っていた。
ボーイの押してきたカートから自分のブリーフケースを取り上げて部屋に向かおうとすると、エレンがこちらを見ているのに気付いた。
「持とうか、荷物」
言ってから、彼女に日本語で話しかけていたことに気付いた。
「いいえ。自分で持てるわ。ありがとう」
同じく日本語で言って彼女は首を振った。微笑を浮かべたその表情からは何も読みとれない。
そうか、じゃあ、と言って振り向きかけた。彼女が言った。
「ねえ」
立ち止まり、彼女に向き合うことはせずに、そのまま訊ねた。
「なんだい」
「私の部屋は2511よ」
一瞬、呼吸が止まった。振り向いて、彼女を見つめたい欲求に駆られた。
だが、彼女は俺の返事を待たず、廊下を遠ざかっていった。
俺もそうすることにした。ロジャーを待っていた時の晴れやかな気分は、跡形もなく消えていた。
約束の時間にカフェテラスへ入ると、二人は既に席に着いていた。入り口と店内が見渡せる場所だった。だが今は俺達の他に客は居ない。
二人の向かいに座った。ロジャーはなにやら鳥料理のようなものにかじりついている。エレンの前にはコーヒーカップが置かれていた。
ロジャーがナプキンで口をぬぐった。
「遅かったな。失礼して先に頂いてるよ。昼飯がまだなんだ」
「ごゆっくり」
ウェイターにコーヒーを注文して言った。エレンは時折カップを口に運びながら窓の外を見ている。
俺のコーヒーが運ばれてくるのを合図に、ロジャーが話し出した。
「さて、今回の任務の説明だ。このホテルで近日中に何らかのテロ行為が発生するという情報が、二日前クアラルンプール経由で入った。西海岸本部の読みでは、二週間後の国際オイルビジネス会議を狙ったものだということだ。明後日の対策チーム到着までに、ホテル内と近辺の情報を集めること、これが今回の俺達の仕事だ」
「その石油会議にはアラブ側の参加者はいないの?」
エレンが尋ねた。
「いなくはないがメジャーをはじめ欧米の石油会社に積極的に原油を売ってる連中だ。テロリストがアラブ勢力なら裏切り者と思われてるかも知れん。会議の参加者の半数近くがユダヤ系アメリカ人だし」
「アラブ勢力と決めつけるのはどうかな。極右か、中東と対立する東アジア勢力かも知れない」
俺が言うとロジャーがうなずいた。
「その通りだ。現段階ではまだテロリストの情報は何もない。先入観を持たずあらゆる可能性を考慮することだ」
「もう一つ。二日後対策チームが到着したら、俺達は?」
「一応は我々の任務は終了、ということになる。だが場合によってはチームと合流してそのまま続行になるかもな。他に質問は?」
エレンが溜息をつき、カップを置いた。
「ないわ」
「今夜と明日の夜、それぞれ収集した情報を持ち寄って検討する。よってエレン、それまで君はフリーだ。ゆっくり身体を休めてくれ」
エレンが頷くと、ロジャーは立ち上がり、内ポケットから出した紙をテーブルに置いた。
「このホテルの見取り図だ。頭に入れておいてくれ。じゃ、俺は先に出てホテル内を見て回る。君は周辺を頼む」
俺に言い、ロジャーは会計を済ませカフェテラスを出て行った。
途端に辺りはラジオのスイッチを切ったように静まりかえった。
俺はエレンと二人きりで向かい合い、ロジャーの気配りを呪った。
「どうして連絡をくれなかったの、この一年半」
沈黙を破ったのはエレンの方だった。俺はホテルの見取り図に目を落としたまま言った。
「忙しかったんだ。それに、連絡するべきじゃないと思った」
それが正しかった証拠に、君からも連絡はなかった。そう思ったが言わずにおいた。
もう十年近く前、観光で渡米しそのまま不法滞在していた俺の所に、移民局の役人と共にスーツ姿の男がやってきた。
男はCIAの職員だと名乗り、強制送還を免除する代わりに、中国マフィアがらみのある作戦に協力しろと言った。危険のない身代わりで、アジア系の若い男性が必要だ、と。
俺は引き受けた。若いCIA局員の運転する車に乗り、窓越しにマフィアの情報屋に合図を送る、それだけの筈だった。
だが、指定の場所には情報屋の姿はなく、武装したマフィアの一団がいた。
俺とその局員は協力して応戦した。結果として相手を全員射殺、作戦は中断された。
後に知ったことだが、CIAの作戦担当官(あの、最初に俺の所へ来た男だった)はそうなることをあらかじめ知っていたらしい。予想と違ったのは生き残ったのが俺と局員だったことだ。
それを知った若い局員はその担当官をCIA本部で殴った。そしてCIAをクビになり、働きを認められた俺と共に別の情報機関に拾われた。それがロジャーだった。
「ねえ、何度も言ったことだけどもう一度言うわね。私が脚を無くしたのは決してあなたのせいなんかじゃない。それどころかあなたは私の命を救ってくれたのよ」
「それは、ただの結果だ」
「いいえ違う。私は無理に現場に出たがった。本当ならあの時、私は死んでいた。そうならなかったのは、あなたのおかげ。私は毎朝そのことを感謝してるわ」
目を閉じた。彼女が本気でそう言っているのは分かっていた。だから何も言えなかった。
「・・・一つだけ、教えて」
目を開け、彼女を見た。
「もう私のこと、愛してない?」
再び目を閉じた。眉に皺が寄っているのが、自分でも分かった。
ロジャーと共に「機関」に拾われて数年後、エレン・バークレー・カワサキは「機関」に採用された。
父親が合衆国軍人で、各国の駐屯地生活を経験。英語、日本語、ドイツ語を話し、UCLAを優秀な成績で卒業間近だった彼女を、「機関」がリクルートしたのだ。
実務研修中に、俺達は出会った。互いに、同じ日本人の血に流れる何かを感じたのかも知れない。
やがて彼女は正式に俺のいる支局に配属になり、俺達は週末を共に過ごすようになった。
ある日、エレンが現場任務に就きたいと言った。俺は反対したが、「機関」の上司は許可した。現場で分析官の能力が必要になる場合もある、そう言った。
そして、極右系過激派の武器取引を押さえる任務が回ってきた。俺とエレン、それにロジャーと数名のチームで向かった。
途中まではうまくいっていた。港の倉庫街で、武器の詰まった木箱の受け渡しが終わったとき、エレンを含むチームが倉庫に突入した。
情報では取り引きする武器はせいぜい、自動小銃程度のもののはずだった。だが売り手側は、商品とは別に見本として、ロケットランチャーを持ってきていた。
銃声と爆発音を聞き、後衛にあたっていた俺とロジャーが倉庫に入ったとき、エレンは部員の死体が横たわる中、横倒しになった車の影から果敢に応射していた。俺とロジャーは、彼女を下がらせるべく援護射撃を始めた。
その時、再装填したランチャーを抱えた男が、エレンが隠れている車に狙いを定めた。迷わずそいつを撃った。
だがロケット弾は発射され、直撃はしなかったもののエレンの近くで爆発した。
俺はエレンの方へ飛び出した。そして背中を撃たれた。倒れ込みながら俺を撃った男にありったけの弾丸を叩き込んだ。倉庫内で憶えているのはそこまでだった。
気がつくとロサンゼルスの海軍病院だった。聴取を受け、歩けるようになるとすぐにエレンの病室へ行った。
そして、エレンがどうなったかを知った。
片足で済んだのは幸運だった。彼女はそう言って笑い、俺を抱きしめ、何度も感謝の言葉を述べた。俺の前では笑顔を絶やさなかった。
ロジャーも頻繁に病室を訪れ、俺達を励ました。それ以外の時間の多くを、片足を失ったエレンが「機関」に残れるよう嘆願することに費やしていたと、後に知った。
だが俺は、何もできなかった。退院した後もしばらく職場に復帰せず、ただ震えて過ごした。
恐ろしかった。彼女の人生を一変させてしまったことが、たまらなく恐ろしかった。
あの時あと一秒早く撃っていれば。敵の武器を狙っていれば。注意を引いていれば。一緒に突入していれば。彼女を参加させなければ。
果てしない自問自答だった。
酒の量が増え、反比例するように彼女の病室を訪れる回数が減っていった。
エレンが義足のリハビリを始めた頃、俺は久しぶりに彼女に会いに行った。それでも彼女は俺が来たことを喜び、歩けるようになったことを無邪気に喜ぶふりをした。
距離を置きたい、俺がそう言っても、まだ彼女は微笑んでいた。ずっと待っている、と。
しばらくして復職したとき、彼女のデスクはなかった。ロスの支局に転属になったと、ロジャーから聞かされた。俺のデスクのメモには、彼女の筆跡で新しい連絡先が残されていた。
俺はそのメモをシュレッダーにかけた。それが彼女と触れ合った最後だった。
目を開けて、再び彼女を見た。上品な長めのボブカットの髪に包まれた瞳が、俺を見据えていた。
目を落とし、どうにか言葉を絞り出した。
「・・・あのとき、俺は君を守れなかった。これからも守っていけるとは思えない」
「できるかどうかじゃないわ。したいかどうかよ」
「それは、俺が言っていい事じゃない」
エレンが息を吸い込んだ。唇を噛んでいた。昔の彼女なら、こんな時は即座に感情を爆発させていた。会わずにいた一年半に、驚くほどの忍耐力を身につけていた。
「わかったわ」
息を吐き、エレンは言った。もう彼女の顔を見る気力は残っていなかった。
「だめなのね、もう」
何も答えなかった。答えられなかった。
俺は最低だ。エレンに一生消えない傷を付け、自分の苦しみから逃れる為に彼女を放り出した。そして今また、それでも俺と共にいたいという彼女を拒絶している。
エレンが立ち上がり、カフェテラスを出ていった。後ろ姿を見ることもできなかった。
しばらくして、うつむいたまま座る俺の前に、誰かが立った。顔を上げる前に言葉がかかった。
「その様子では、だめだったか」
言うと、ロジャーは俺の向かいに座った。
「ご明察のとおりだよ、くそ。何で俺達を残して出て行った」
ロジャーは溜息をついた。
「こうならないことを願っていたのだ。余計なお世話だったかもしれないが、君の状況が好転する可能性に賭けたかった。任務に参加する人間の状況把握も、俺の仕事なんでね」
ロジャーは連邦政府職員の等級でいうとG6、俺よりひとつ上にあたる。
「任務に支障をきたすようなら、君を外すこともできるが」
俺は首を振った。
「馬鹿を言うな。それに、交代要員がいるくらいならはじめから俺は選ばれちゃいないだろう」
ロジャーはやれやれといった顔で息を一つつき、腕時計を見て言った。
「仕事熱心だな。さすがは日本人だ。いいだろう。さっきホテルの警備主任と話をしてきた。全面協力を約束してくれたよ。ただし可能な限り一般の宿泊客には何も知らせない、それが条件だ。爆発物やなんかが見つかって、避難が必要にならない限りは」
ロジャーが言ったとき、三つの事が同時に起きた。足元が揺れ、轟音が聞こえ、照明が消えた。反射的に辺りを見回すとロジャーが言った。
「或いは、実際に爆発が起きない限りは、だな。くそっ」
俺達は立ち上がった。照明は消えたが、窓があるため行動の支障にはならない。ロジャーがIDを取り出し、厨房から飛び出してきたコック達に叫んでいた。
「我々は政府機関の者だ。パニックを起こさず警備担当の指示に従ってくれ」
<照明が消えた。人為的な爆発だとすれば変電室だ。見取り図によれば変電室は12階だった。エレンの部屋は25階。彼女は無事、彼女は無事だ>
ロジャーが俺の方に向いた。
「エレンの所へ行け」
一瞬、心を見透かされたのかと思った。
「何を…」
「聞け。今は事態を掌握せねばならない。彼女が必要だ。エレンを連れて来るんだ。俺は警備の連中に指示を出してくる。終わったら、無線で連絡するから1階のロビーで落ち合おう」
俺達は非常階段へ向かった。階段室のドアを開けると、ロジャーが俺の腕を掴んだ。
「気をつけてな」
俺はうなずくと、非常階段を駆け降りた。降りながら、ポケットから無線のイヤホンマイクを引っ張り出して左耳に押し込んだ。ロジャーは階段を上っていった。
エレン、エレン。どうか無事でいてくれ。
気がつくと、口に出してそう言っていた。あの時もそうだった。苦い記憶が頭をかすめた。
この一年半、俺の頭に取りついていた何かは、きれいに消えていた。
エレン。もう二度と、君をあんな目には遭わせない。
そう決意して25階のドアノブを握った時、聞きなれた金属音と話し声が聞こえた。
気持ちを落ち着け、静かに深呼吸し、僅かにドアを開けた。
「女の部屋は2511だ。殺さず捕らえろ。仲間が来るかも知れんから警戒を怠るな」
2511。エレンの部屋だ。こいつらが何者かはわからないが、エレンを、俺達を狙っている。上着の内側からシグの9ミリ拳銃を引き抜いた。
「待て、階段室に誰かいる!」
階下へ続く階段に体を躍らせると同時に、弾ける様な銃声が連続して響いた。踊り場で身を立て直し、銃口をドアに向けた。
ドアが蹴り開けられ、アサルトライフルを抱えた男が二人飛び込んできた。警告を発する余裕は無かった。
階段越しに、二人に撃ち込んだ。二人が倒れてから、開いたドアに注意を払って穴の開いた階段を上った。
二人とも死んでいた。白人で、当たり前だが見たことの無い顔だった。
廊下に足を向けたとき、銃声とともに金属のドア枠に火花が散った。
廊下の先にいて、俺が出てくるのを狙っている。安全な位置から、何か遮蔽物になるものを探したが何も無かった。
足元の死体の傍らから、アサルトライフルを取り上げて点検した。ロシア製で、弾倉にはまだ弾が残っている。全自動に切り替え、ドアから腕だけを出して掃射した。
呻き声と何かが倒れる音がした。シグを構え一瞬だけ廊下を見ると、エレベーターホールの陰から血まみれの上半身が覗いていた。死んでいるのは一目でわかった。
物陰に注意して廊下を進みながら、イヤホンマイクに向かってロジャーを呼んだ。応答は無かった。
廊下は無人だった。銃声はこのフロア中に響いたはずだ。誰も出てこないほうが都合がよかった。
2511まであと二部屋という位置まで来たとき、また銃声が聞こえた。拳銃の音だった。呼応するようにアサルトライフルが唸った。エレンの部屋からだ。部屋の前まで走った。
開いたドアから、バスルームの陰で屈み込んでいる男が見えた。そいつに叫んだ。
「動くな!」
振り向いて銃をこちらに向けようとしたそいつに、残りの弾丸を撃ち込んだ。シグの弾倉を交換して、室内に飛び込んだ。
ドアからベッドへ続く短い通路に、男がもう一人倒れていた。
ベッドの陰から、ゆっくりと誰かが立ち上がった。銃を向けかけたが、すぐに下ろした。
「エレン」
彼女に駆け寄った。俺と同じシグの小型拳銃を握っている。その腕が、俺の首に巻きついた。銃を持ったまま、彼女の背中に腕を回した。
「来てくれるって、信じてた」
エレンが短く言った。一瞬目を閉じ、彼女の髪を撫でた。柔らかな香りが、硝煙と混ざり合って俺の鼻をくすぐった。
「エレン、俺は…」
俺の首に回された腕に力がこもった。
「何も言わないで。あなたは来てくれた。また私を助けてくれた。それだけで十分よ」
呼吸をひとつして、彼女の匂いを吸い込んでから、体を離した。エレンがベッドにくずおれた。
「エレン!」
「大丈夫」
エレンはひらひらと手を振った。
「跳弾が義足に当たったの。怪我はしてないわ」
見ると右の踵がえぐれていた。
ほっと息をついたとき、ロジャーのことを思い出した。
「ロジャーと連絡が取れない。何か言ってきたか?」
「いいえ何も。彼は?」
「警備の所へ行くと言っていた。エレン、君を襲った連中は、俺たちのことを知っていた。狙いはオイル会議じゃなかったのかもしれん」
「どういうこと?」
俺は首を振った。
「わからない。とにかく俺は、ロジャーを探す。君は…ここにいたほうがいいだろう」
通路とバスルームの男の武器を集めて、エレンに渡した。
「俺が来るときは、必ず無線で連絡を入れる。それ以外の誰かが来たら、撃て」
エレンはうなずいて、銃を点検した。ドアのほうを向いた時、後ろから呼ばれた。
振り向いた途端、頬に柔らかな感触を感じた。エレンの掌だと気づく前に、唇が押し付けられた。
手が離れ、エレンが俺を見つめていた。
「戻ってきてね」
「ああ」
それだけを言うと、廊下へ出た。
エレンの部屋のドアを閉め、銃を構えながら非常階段へ向かった。
階段室には、まださっきの二人が倒れている。その脇をすり抜け、階段を踊り場まで上ったとき、違和感を感じた。
さっき廊下に出るとき、ライフルを拾って撃った。撃ったのは一挺だけだ。
撃った後のライフルはどうした?その場に放り出した。いま踊り場から見える25階の出口の前にあるのがそれだ。死体の脇にある銃はそれだけだ。二人はそれぞれ一挺ずつ持っていた。
誰かが、もう一挺の銃を持ち去ったのだ。誰が。
俺の上、26階の出口の陰から単発の銃声が鳴り、俺はその場に倒れ込んだ。
どうにか仰向けになり、こんなにも動きづらい理由を探した。答えは脈動する脇腹だった。上着の生地に穴が開き、血が流れ出ている。壁に背中を預けて上半身を起こし、シグを捜した。階段の途中に転がっていた。
撃たれたのは腹なのに、なぜか頭がガンガンする。顔をしかめながらシグに手を伸ばそうとしたとき、上からライフルを構えた男がゆっくりと近づいてきた。
ロジャーだった。
「すまないな、同僚のよしみで一発で楽にしてやるつもりだったのに」
肩の力が抜けた。腕がだらりと垂れ下がった。
「そうか。お前が爆弾を仕掛けたんだな。俺とエレンを残して出て行ってすぐに」
「その通りだ。もっと早く君達の話は済むと思っていたんだが、どうにか間に合った。やはり不慣れなタイマーなど使うものではないな」
なぜだ、と言いかけて咳き込んだ。しばらく止まらなかった。
かわりにロジャーが言った。
「理由を聞きたいんだろう?簡単さ。俺は実はCIAを辞めちゃいない。まだラングレーの人間なんだ。今回のテロ情報も俺達が流した。
栄光のダレス長官時代以降、CIAの予算は削られっぱなしだ。あちこちにテロ対策室やら情報機関ができたせいさ。右手のやることを左手が知らない、とはよく言われるが、今の状態は手なんてもんじゃない。何十本もの根が広がってるようなもんだ。この国のスパイ組織はCIAだけでいい。余分な根は引っこ抜かないと、本体の養分をみんな吸い取っちまう」
息を静めて、どうにか言葉を絞り出した。
「それで、ほかの機関にもぐりこんで失態を演じさせるわけか。国への忠誠はどこへ行った」
ロジャーは鼻で笑った。
「そんなもの最初からありはしないよ。俺はただ、自分の能力を認めてくれるところで働くだけだ。お前だってそうだろう?国を出て、アメリカの為に働いているじゃないか。いや、働いていた、か」
言ってロジャーは俺に狙いを定めた。
エレンに逃げろ、と言いたかった。だが倒れたときに無線のイヤホンは外れてしまっていた。付けなおす時間はない。
エレン。これは俺の罰なんだな。あの時君を守れなかった事への。どうか君は逃げ延びてくれ。
そう考え、目を閉じた。連続して銃声が響いた。
何も変わらなかった。脇腹の痛みは相変わらずだったが、それだけだ。
目を開けた。ロジャーが倒れるところだった。そのまま階段を転げ落ちた。
下の出口に、エレンが立っていた。撃ちつくしたシグを構えている。
安堵して、深呼吸した。間違いだと気づいたのは、痛みが肋骨を駆け抜けてからだった。
足を引きずって、駆け寄ってきたエレンが俺を抱き起こした。
「あなたが私を守るんじゃないわ。私が、あなたを守るの。これからもずっと」
言って微笑んだ。遠くからサイレンが聞こえ始めていた。無理をして笑い返した。
「そう、頼むよ」
血まみれの手でエレンの手を握った。力強く、握り返してきた。