花坂市子の第一
事実は小説よりも奇なり、という言葉は私の人生によく似合う。
人は"前世"という存在を信じることはあっても、そのことに関する記憶は有さないものである。と思う。中には有している存在も人知れずいるのかもしれないけれど、私は自分以外でそういう人間に出会ったことがないので何とも言えない。しかし、そうしてその記憶を有する存在を肯定した場合でも、私は少し特異な存在なのではないかと考えている。理由は、記憶の数にある。前世の記憶はもちろん私はその前の記憶も有している。そう、この脳には二生の記憶が存在しているのだ。しかし、そのどちらもが惨たらしい結末で生涯を終えているが為に、私はこれらが脳に巣食っていて得があるとは思ったことはない。
私が初めて花坂市子になった時。
私が初めて花坂市子を終えた時。
私はまだ十五歳で、どこにでもいるような。
所謂"普通の女の子"だった。
高校に入ると、今まで絶対に自分とは合わないと思ってたジャンルに属している友達ができた。彼女たちと話をしているうちに、私はただ偏見で彼女たちの上辺をそうと決め付けているに過ぎず、ただ子供のように食わず嫌いをしていたのだと気づかされた。自分の世界の狭さを思い知ったとでも言おうか。まさに顔面に思いっきり拳を入れられたような気分だった。
所謂ギャルというジャンルに入った友達につられるように、家計を理由として飲食店でアルバイトを始める。家計の為なんて、いけしゃあしゃあと口から並べられた理由は"お小遣い稼ぎ"の建前だった。家庭がとても裕福だったわけでもないけれど、かといって私が働いて家計にお金を入れないといけないほどまでに困窮しているわけでもなかった。周りがやっているから、そんな理由もあったのかもしれない。
お小遣いを稼いで、学校の帰り道に友人と寄り道して甘いものを食べて、馬鹿な話をしては笑い合う。部活はテニス部で、肌はちょっとどころじゃなく日焼けして小麦色。淡い片思いをした若い男子教諭に「健康的で可愛い」なんて言われて、セクハラ野郎だと言いながら照れ隠しに背中を叩いて。甘酸っぱい想いを散らし続けた。
消えないそばかすと筋トレのやりすぎで太くなってしまった足がコンプレックス。彼氏は居ないけど恋愛話が大好物で、メイクだって服だって大好き。休日はおしゃれして街に繰り出して、いつだって皆ではしゃいでる。どこにでもいる、クラスに一人はいるだろう。そんな、平凡な女子高校生だった。
だというのに。
花坂市子は銃殺された。
殺されたのだ。
死因は、頭部に受けた流れ弾による脳損傷。
どこにでもいるような女子高校生の死因にしては、不思議で有りがちではない死因だということは私が一番理解している。だけれど、それは覆しようのない事実だ。私は、十五歳の時に一度殺されている。
私のアルバイト先は給料が銀行振り込みで、その日は友人と一緒に銀行に行って振り込まれた給料の一部を引き落としに行った。いつものことだった。近場に銀行があって、ATMがあって、引き落としに銀行に入る。いつものことだった。いつものように銀行に踏み入れば、他の利用者がいて、銀行員がいて。ただそれだけ。いつものように、財布に少しだけ蓄えを増やした後に何をするかと頭に楽しい予定を立てながら自動ドアの前に立っただけ。だから、想像もしなかった。それを落ち度と言われてしまえば、落ち度なのかもしれない。
だけど、まさか。銀行に足を踏み入れたその瞬間、一人の男が狂ったように叫びながら黒い何かを掴んだ右手を突き上げ、指を曲げて引いたその黒いものからけたたましい音を発するなんて。誰が予想できたというのだろうか。
きっと、その場にいた誰だってブラウン管の向こうでその事態を知ることはあっても、「まさか自分が銀行にいるときに」という根拠のない自信にも似た想いを抱いていたに違いない。私を含め、人間という生き物はニュースをどこかしら"フィクション"や"ファンタジー"と思い込んでいる節があるからだ。私だって、絶対そうではないなんて綺麗事は言えない。所詮は他人事、と甘えている。
そうして、ブラウン管の向こうからやってきた突然の驚異に誰かが叫び声をあげた。これはフィクションではないのか、と。黒い覆面を被って銃を担ぎ上げた男たちを見て、これは悪い夢だと悲鳴を上げるのだ。
そう、彼らは銀行強盗である。
・・・まぁ、ここまでは仮にいいということにしよう。よくはない、よくはないが。この状況においても"確実に死ぬ"なんて言い切ってしまうほどに、己が死んでしまう確率は高くないはずだからだ。
はずで、あったからだ。
しかし、ここから先を考えて頂くと私の運のなさが如実に理解していただけるであろう。男はあろうことか、自分から一番遠いところに固まって突っ立っていた女性 ― 私の腕を掴んだのである。手を掴まれてから男の方へと引き寄せられるのは一瞬で、何が起こったのかわからなかった。なんて、そんなことはない。叫ぶように脅されながら腕を取られたのだ。分からない理由がない。私は一瞬で人質という、男にとっての体の良い盾にされたことが解った。動くと打つ、なんてセオリー通りのセリフと共に頭に突きつけられる銃。そんなことを言われずとも、体は硬直していて動けやしないということを彼は分からなかったのだろう。まるで鳥の雛に刷り込みでもするように、繰り返し脅し文句と共にゴリゴリと固くて冷たいものが頭皮に擦り込むように押し付けられた。
友人の近くに居た女性があまりの恐怖に叫び声をあげる。当然だ。怖いから叫ぶ。矢印で結ばれる現象と言っても過言ではないだろう。私だって硬直していなければ叫んだに違いない。しかし、男はそれが気に食わなかったのであろう。良く分からない、言葉にも満たない言葉を叫んで、その女性を銃で撃った。ドン、と重たいような重たくないような曖昧な音が鼓膜を打った。ビリビリと揺れる頭を無視して咄嗟に閉じた瞼の裏で、女性が倒れていく。頭の隅でバタリと重たいものが倒れる音がした。目を開けずともそれが女性が倒れた音だと分かる。恐る恐る開いた目の先で、女性が頭から血を流して倒れていた。頭に穴があいている。ピクリとも動かない。彼女が死んでいることなど一目瞭然だった。
私は戦慄した。
それは、"人が一人死んだ音"が自分の想像よりも遥かに軽い音であったからではない。
私の未だ腕を掴むこの男は、私の手を掴まぬその手に持つ銃で人を撃った。それも、腕でも足でも腹でもない。頭を打ち抜いた。黙らせる為ならば腕でも足でも良かった。だが、彼は照準を少しも揺らすことなくただ真っ直ぐに頭を撃ち抜いたのだ。的確に頭を撃ち抜いて、文字通り一発で女性を沈黙させてしまったのだ。その迷いのなさに、私は戦慄した。
女性が撃たれた瞬間、その場にいた人間が異様なまでに沈黙した。女性が打たれたことで小さく悲鳴を上げそうになった若い女性の口を、その隣に居た初老の男性が手で塞いだ。口を突然塞がれたことで暴れだしそうな女性の四肢を周りの人間が押さえ込んで拘束した。その場にいた人質が協力して沈黙した。誰もが隠れるように息を殺して、いつでも他人の口を塞いで"助けられるように"と手を握り締めた。目だけ頷き合った。
そうだ、動いてはいけない。
音を立てては、いけない。
死が如実に見えるこの場所で、彼の視線を得てはいけない。
殺しへのためらいなど、そこにはないのだから。
銀行強盗の男 ― 20代くらいであろうその青年の頬は痩せこけ、窪んだ眼は仄暗くまるで躯が動いているようだ。人の顔を見てゾッとしたのは初めてだ。今にも死にそうな顔、とはこのような顔のことを言うのではないだろうか。次第に彼の腕が上がり首を抑えられる。余計なことを考えるな死ね、ということだろうか。目だけで見上げた彼は少しもこちらを見ていない。それでは無意識だろうか、と考えるとまたゾッとした。私はこの男に無意識に殺さてしまうのだろうか。
じいっと見つめ続けている私の視線にも気づかない。時折背後へと投げられる視線と怒鳴るような最速の声からは相当余裕がないことが伺える。そりゃあそうだ、銀行強盗が余裕綽々で笑っている方がどうかしている。小説の中の話でもあるまいし。息苦しく意識が朦朧とする中、突きつけられた冷たい固形物を感じながらどこか冷めた自分が客観的に観察しているのを感じた。私を人質にとった彼の背後で、正確に言えば彼の背後にあるカウンターの奥で彼の仲間だろう男たちが銀行員に金を詰めろと声を荒げている。
正直、警察来なければ大丈夫なのではないだろうか。
私はそう思った。それに、実際"そうだったのかもしれない"。私の首を絞めつつある彼は、下手に刺激した方が被害を産む人間だろう。実際に、沈黙を作り上げてからは彼は私の首を無意識に締める以外は誰に銃を向けることもなかった。騒がなければ、この男の望み ―すなわち銀行強盗の成功― を満たしてやれば、生存率は低くはないはずだ。寄りそうように彼と接触をしてしまっている、絞殺されかかっている私以外は。
聖人君子を気取るつもりもないが、流石に目の前でバタバタ死体が量産されては寝ざめが悪い。少しでも生存率が高まるならそれが一番いいに決まっている。自分の命よりも見ず知らずの他人の命を重んじるなんて、常であれば偽善者だと吐き捨ててしまう様な、絶対に考えない考えばかりが頭を埋めた。女性が銃殺された様を見た私は、自分が思っている以上に神経が磨り減って疲労していたのかもしれない。
それに、と唇を噛む。私が助かりたいとその場で叫んだら一発でお陀仏だろう。想像しなくても分かることだ。ならば、と私はそのまま唇を噛み締めて耐え忍ぶ道を選んだ。まぁ、よく考えるとその時私には選ぶ選択肢なんてなかったのだが、疲労した精神はせめてそれは自分で選びとったのだという体にして私の自尊心を守ろうとしたのかもしれない。
私は必死で耐えていた。表面に出してはないが溺れるような不快感に許されるものならば、その場で嘔吐してしまいたかった。怖い、恐い、恐ろしい、オゾマシイ。指先の震えを感知出来ないくらい、私の手は大分前から冷えきっていたのだ。
そこに、彼らは乗り込んできてしまう。
私たちを救いに、乗り込んできてしまう。
救いにきたつもりで、彼らはその敷居を踏みしめて。
「警察だ!銃を下ろし、人質を解放しろ!」
― 嗚呼、乗り込んできてしまった。
あとは、容易に想像して頂けるだろう。パニックに陥った彼らの、彼の行動など。それはもう、手に取るように。しかし、最初に私が流れ弾と申したように、そう実は、
私は一度彼の手からは逃れている。
パニックに陥った彼の隙をついて、逃げ逃れている。
標的になることもなく、本当に逃れていたのだ。
そう、彼からは。
確かにパニックに陥った彼は銃を翳して打ち放ってはいたが、錯乱の中放たれたそれらは床に当たったり壁に当たったり。兎に角、その"全て"がまさに奇跡的に人に当たることはなかったのだ。
では、何故誰にも当たらなかった弾丸が私に当たったというのだろうか。そう、疑問に思われることだろう。全てと言いながらにして己を弾いて全てと数えたのではないだろうかと思われるかもしれない。
答えは簡単だ。
犯人である彼は銃を所持している。そうすると、敵対しなければならない彼ら
― 警察も、銃を所持することになる。
小さくだが、中年の男性の声を聞いた。その声は焦りを含んでいたが、それを不思議に思うまでも確認するまでなく私の頭で千切れるような音がした。ブチッと何かを無理やり引きちぎったような音だった。それから、何故だか目の前が白んでいくし、口の中に漸く湧いた唾が飲み込めなくて口の端から垂れていくし、その感覚すらも何だか酷く曖昧になっていく。それに、何だか体が重くて。よろめいたそこから立ち直る力がなくて。重力に逆らわずにゆっくりとまるでスローモーションのように体が傾いていく。
私が崩れ落ちると共に消えていくその世界には、顔を絶望にゆがめ真っ青になって震える男が一人立っていた。不思議だ。他にも人は立っていたというのに、その人が嫌に目に付いた。目を閉じる暇なく見えなくなっていく視界の中で、最後まで私の世界に立ち続けていたその人は。まだ若いのだろうその人は ― 何だか"一生懸命訓練してきました"という顔をしていた。
花坂市子という少女が命を潰されたその日から約二十年後。一人の男の手には一枚の紙が握られている。それはどうやら古新聞のコピーのようだ。古新聞の日付はその日から約二十年前、新聞の下方に小さく一人の少女が亡くなったという内容が書かれていた。そこから読み取れる情報に男の眉間に深いシワが刻まれる。少女の死因は銀行強盗の放った弾丸による脳損傷であったと一般的メディアは語っていた。
グシャリ
男は古新聞のコピーを握り締めた。憎悪に満ちた目を細めて、今しがた己がゴミにした紙を睨めつけた。意味はないとは分かっていても"そうしないと気が済まない"。やりきれない思いがそこにあった。ややあって苛立たしげな声と共に紙がグシャグシャと丸められボール状となり、乱暴にゴミ箱に投げ入れられる。緩い弧を描きながらゴミ箱の方へと向かうそれは、入るかと思わせておいてゴミ箱の淵に当たり床に転がってしまった。しかし、投げたと同時にそこに背を向けた男はゴミをゴミ箱に入れ損ねたことに気づきはしない。男の部屋にまた一つ、男の知らないゴミが増えた。
台所に向かった男はやりきれない想いを吐き出すように溜息を吐き、インスタントの珈琲の粉末をマグカップに小さじで数回振り入れた。ポットから湯を注ぎ入れる。小匙をカップに突っ込んで持ち手を指先で摘み、グルグルとかき混ぜる男の表情は奇妙だった。確かに苛立っており顔は怒りに満ちているはずなのに、何故だかホッとしたような顔にも見える。そう、確かに男は苛立ちの中、一つの事実に安堵していた。確かに得た情報は己の思った通りではなく、"隠蔽されたとしか思えないもの"だった。それでも、少女の頭から鉛の玉が取り出されたとは書かれていなかった。それに安堵の息を吐く。頭部貫通とも書かれていなかったが、ゴミになった紙ではない物から得た情報と組み合わせると頭部を貫通したと考える方が道理だったのだ。
男は生まれながらにして罪悪感を抱えていた。それは"今となっては他人とされる人々"に対する、消化のしようのない感情だ。消化しようとしたところで、その対象にとって"見ず知らずの人間である己"は彼らに警察へ通報されるだろう。一度実行を考えもしたが、何度シュミレーションしたところで結末は苦いし不味い。まるで己の淹れた珈琲のようだと思いながら、男はインスタントの珈琲を啜る。結局、実行は出来ていない。この先も出来ないのだろう。男は己のことをよくよく理解していた。
男は生まれながらにして嘆いていた。自分受けた痛みすら碌に分からなかったことも確かに嘆いたが、それ以上にさようならの一言が言えなかったことを嘆いていた。そうして、直接手に渡ることはまず、ないだろうが"亡くしてしまった"彼らの元へ死因となった弾丸を遺してきてしまったかもしれないという可能性に酷い罪悪感を抱いていた。
それでも、貫通したというのであれば。体に遺してこなかったというのであれば。遺した可能性は限りなく零だということが決定したも同然だった。
「・・・・ハハッ」
これほど喜ばしいものはない、とソファにもたれかかる。仰いで目に入った天井は年季が入っているせいで少し黄ばんで見えるというのに、何故だか眩しくて掌で目を覆い隠した。このまま寝てしまおうか。そうも考える。今夜だけは全てを忘れてしまっても許されるだろうか。そんな許されないことを考える。きっと疲れている。全身の力を抜いてソファに沈めば、視界の端にだらりと腕が垂れた。まるで人形の腕のようだとも思ったが、力を込めれば拳を握ることができる。人形ではなくてちゃんと生きているんだな。しみじみと、男は当たり前だろうと怒られてしまいそうなことを考えて目を伏せる。このまま溶けてソファの染みになりたいと言ったら、誰かは怒ってしまうだろうか。それとも、クリーニングに出して俺など要らぬと取り除いてしまうだろうか。
「嗚呼、」
男は、生まれながらにして既に自分が一度死んでいることを知っていた。花坂市子、という名前だったことを覚えていた。
「何で、生きてるんだっけ」
乾いた笑いが部屋に篭っていく。
そこから、花坂市子の第二の人生が幕を開ける。




