花坂市子の秘密
タッタッタッタッ
花坂市子は家から飛び出してからというもの、異様な速さで田畑の間にある舗装の甘い道を駆け抜けていた。表情はなく、ただひたすら無心でかけ走っているという表現が相応しい。走っているというのに、彼女の顔は微動だにしない。鼻も動かない、口も開かない。どうやって呼吸をしているのだろうか。時折目を伏せる仕草がなければ、彼女は確かに走っているというのに何故だか"生きている"かが疑わしく見えてしまう。精巧に作られたロボットがひた走っていると言われたら、納得して頷いてしまうかもしれない。
一度目を閉じれば、止まるまで目を開けることはない。そのままの状態で、彼女は走っている。目を閉じた彼女は感覚が研ぎ澄まされている、とでも言うのだろうか。いつもであれば躓くだろう足元にある石に躓くこともなければ、彼女の前方よりこちらにゆっくり歩いてくる老婆とぶつかることもなく"まるで見えているかのように"軽やかに避けた上に、「おはようございます」なんて明るい声で老婆に挨拶までしてみせる。
老婆は彼女の目が閉じていることに気づいた様子もなく、ただ"いつものことのように"ゆっくりと挨拶を返しながら彼女の後ろへと歩いていくだけだ。異様な光景なはずなのに、それは不思議と成り立っていて差支えがない。風が吹かず、まるで止まってしまった絵のような光景の中で、市子の地を蹴り上げる軽い音だけが光景に現実の色を添えていく。
タッタッタッタッ
彼女が目を伏せている時、彼女は決まって頭の中に走馬灯を描いている。人生を振り返るのだ。十五年しか生きていない少女の、その行動は"普通に考えると"可笑しいことだろう。しかし、その十五年しか生きていない体の中に不釣合なほど年季の入った物を抱えていた市子にとっては、それは日課といっても過言ではない"普通のこと"だった。
花坂市子は他人には言えない秘密を抱えている。
人間誰しもが、その大きさや重さに違いはあれど人には言えない秘密というものを抱えながらに生きているだろう。しかし、花坂市子の秘密は人のそれとは一味も二味も違っている。市子はその異常性に気づいていてから、何度も口から出かかったそれを唾と一緒に飲み込んだ。"墓場まで持っていこう"なんて誓いを立てた時、市子は未だ七歳の少女だった。
花坂市子は誰にも言えない秘密を抱えている。
己が"ハナサカイチコ"という音を持った名前を授かり続け、今世が三度目の"ハナサカイチコ"であるという秘密を抱えている。後にも先にもこの口が語ることは勿論、他の口が語ることはないだろうその秘密は、市子が当事者でなければ語った人間の頭の中に綿が詰まっているのではないかと疑うレベルで可笑しい話だ。
花坂市子の頭は確かに正常である、と市子の主観が訴えている。それこそ、異常なのかもしれない。ただし、客観的に見れば異常であるということも市子は分かっている。だからこそ、やはり口から出してはいけない、秘密として抱えておかなければならない話なのである。
数奇な人生を一生どころか三生、そう今まさに三ラウンド目を迎えようとしている次第である、なんて。誰が言えるだろうか。両親も知らなければ、祖父も知らない。幼馴染の瓜生恵だって知らない。誰も知らない。それでいい、それでいいはずだ。だけれど、少しだけ胸に沸く感情はいつだって喜びや安心とは違うものだった。
短いです。




