花坂市子の導入
花坂市子が口にした"爺ちゃん"こと、花坂市子の祖父、花坂御幸は決して彼女を起こさなかったわけではない。むしろ、御幸は何十分も物言わぬ石像のような女を叩き割ることなくただひたすらに起こそうと試み続けた勇者である。
御幸は何度も「市子」とその名を呼んで石像を少女に戻そうとしたが、彼女はその都度ゴトンゴトンと重たい寝返りを打つだけだ。揺り動かしてみても、声に緩急をつけてみてもそれは変わらなかった。御幸に悪いところなど一切ない。いや、一切ないというのは言い過ぎかもしれない。その"言い過ぎ"の可能性には、御幸が市子に言わせるところの「質が悪い」部分が現れていた。
寝返りを打つ彼女を見て、御幸は思った。
私の孫可愛いな、と。
それは遠まわしに己の遺伝子を褒め称えるという一種のナルシシズムであったが、御幸にその自覚はない。御幸は地蔵がヴィーナスの石膏像に見える病気にかかっていた。恋の病ならぬ、愛の病にかかっていた。厄介と言えば厄介であるが、他人には被害の及ばぬその病を"身内贔屓"や"爺の欲目"と市子は呼んでいる。
血の繋がりというものを重要視していなかった御幸は、血を分けた息子が可愛くないというわけではなかったが、市子という存在を得たことでそれを重要視するようになった。といっても、決して身内以外はゴミを見るような目で見るなどという行為をするような排他的な人間になったわけではない。血の繋がりはないよりもある方が目に愛しいことを知っただけである。
御幸の目には、市子があたかもヴィーナスのように愛らしく美しい娘に写っているが、ただひたすらに盲目というわけでもない。御幸は確かに孫が可愛かったが、客観的に孫の容姿を見ることもできた。そうして客観視した市子はヴィーナスよりも地蔵に似ていたが、御幸の思考には相も変わらずヴィーナスが踊っていた。客観視できるはできるが、その前に御幸は病にかかっている。
兎に角、幸衛は孫である市子が可愛かった。具体的に述べるとすれば、寝返りによりずれた布団をかけ直して、その上からぽんぽんと眠りを促すように彼女の体を優しく叩いた程度に御幸は市子が可愛かった。正直可愛くて仕方がなかった。堪らなかった。しかし、その結果孫が遅刻して大変になることは頭からすっぽ抜けていた。御幸が省みるべきところがあるならば、そこだろう。
しかし、「何故起こしてくれなかったのか」と叫んだ市子も御幸の行動が全て悪意ではないところから生まれてくることを分かっていた。それが、市子の言う「爺は質が悪い」ところにあたる。起こすどころか寝かしつけてくれようとも、市子は憎めない可愛さを持っている祖父が大好きだった。
市子の敗因は、御幸が自分に対し駄目な甘やかし方をするということを忘れていたことと、その前に自分で起きる努力というものを怠ったことにある。自業自得、それだけが市子の頭を占める ― わけがない。爺も少しは悪い、と市子は思っている。
「市子ちゃんは朝から元気じゃのぉ、ハッハッハッ」
「やろ!元気やろ!元気だけが取り柄 ― とか言ってる場合じゃない!!」
バタバタと忙しなく家中を駆け回り出かける支度をする孫を見て、御幸は球体状のプラスチックの遊具に押し込められて駆け回る小動物を思い浮かべた。孫が死活問題だと必死な表情で駆け回っている様は、祖父にとっては微笑ましい光景以外の何でもなかった。最初こそ不思議に思った、"遅刻にならない時間でも遅刻だと叫ぶ"孫の行動も、理由の分かる今では微笑ましい。
慌てる市子とは対照的に和やかに笑う御幸は、自分の思ったことを全て言葉として市子の背中に投げる。それに対し返事が欲しいという願望はなかったが、市子は律儀に度々立ち止まっては言葉を返し、笑う途中で我に返るという流れを繰り返した。いつも笑おうとして途中で固まって我に返るがために、市子は妙な表情ばかり浮かべている。くしゃみが出そうで出なかった時とも、くしゃみをしてもスッキリしなかった時とも似ているような、妙な表情だ。
御幸は、体を少ししならせて見るからにハッと我に返っていく孫を見ては面白そうに目を細めた。御幸はわざと市子の気を引く言葉を投げて、市子が"一連の流れ"を起こす為の糸口を与えている確信犯だった。御幸は孫が可愛くて好きだが、孫をからかうことが一等好きであるということを市子は知らない。
花坂市子は実に日本人らしい体型をしている。胴長短足低身長、特段肥えているということではなかったが、安定感には自信があった。昔ながらの日本人体型である市子は、踏み込みが強くスタートダッシュに関しては神がかっていると近所の子供に褒められていた。
そんな彼女には、毎日の習慣があった。正確に言えば、週五日で繰り返される週間だ。市子には、幼馴染がいる。名前は瓜生恵、市子とは打って変わって実に日本人らしくない体型をした彼女の友人である。その友人を、市子は迎えに行かなくてはならないのだ。だから、自分一人であればどうにか間に合いそうな時間であっても市子は飛び跳ねて遅刻だと叫ぶ。
恵は酷く"朝に弱い"。どれくらい弱いかというと、市子に運ばれても目が覚めない程度に弱い。担がれてもリアカーに乗せられても引きずられても寝たままだ。市子は運びながら幾度も恵が呼吸をしているか否かを確認しなければ気が気でならない。それくらい弱かった。
今日はどうやって運ぼうか、と悩んで玄関先に置かれる運ぶ手段を横目にそのまま飛び出した市子のスタートダッシュは素晴らしかったが、すぐに御幸に呼び止められた為に勢いを殺しきれず前のめりに転けた。
「市子ちゃん、手提げ」
ズシャァ、と音を立てて土煙を出した市子に御幸が大丈夫かと声をかけることはない。声をかけずとも、市子はそれくらいでは何にもならないということを御幸は経験上知っているからである。その御幸の知識通り、バネじかけの玩具のように跳ね起きた市子は"怪我一つ"なく、恥ずかしそうに目線を泳がせながら服に着いた土を手で払った。
「手提げ、忘れてるよ」
そうして満足いくまで土を払い終えた市子が視界に収めた御幸の手には、市子が玄関先で握りしめたはずの通学カバンが握られている。市子は急ぎすぎて、掴んでないものを掴んだという錯覚を起こしたまま走り出していたのである。市子は笑いながら、御幸の元へと戻っていく。笑い声は乾いており、目線は右斜め上へとバツが悪そうに揺れていた。
そんな市子の手に今度はしっかりと持って行きなさいと通学カバンを握らせた御幸は、こちらをバツが悪そうに見る孫の顔が茶色く汚れていることに気づいて、笑いが噴き出しそうになる。グッとこらえて噎せかけた御幸を見て不思議そうに首を傾げた市子を見て、いよいよ御幸は辛抱出来ないと噴き出した。年甲斐もなく腹を抱えて笑う自分を叱りつけなければと思っても、こちらを目を皿にして見る市子を視界に入れてしまうと、理性という部分が弾け飛んだ。
御幸は言えない。幼い頃に体が小さくて土まみれになり狸の子供に似ていると言われては泣いていた孫に対して、茶色く汚れているところが丁度鼻の頭だったから、狸の子供のように見えておかしかった。とは、口が裂けても言えない。もう笑うまいと笑いをこらえながら、顔についた土を指で拭ってやれば顔が汚れていると気づいた市子は慌てて顔をペタペタと触ってしきりに擦るような仕草をし始めた。それを見て今度は御幸が慌ててタオルを取り出し、市子の顔に押し付ける。
目は口ほどに物を言う。
正にその通りだと市子は思う。御幸がどこからともなく取り出したタオルで顔を拭われる市子は、御幸の優しく細められた目に「全く仕方のない奴だ」と言われているようで、何だか無性に恥ずかしくなり目を逸らした。顔も俯きがちになる。
「回れ右」
― しかし、顔が俯きかけたところで耳に入った御幸の声に、弾かれたように顔が元の位置に戻り、一歩下げられた右足を軸に体がクルリと回った。号令だ、と市子は喉をゴクリと鳴らして唾を飲み込んだ。市子は御幸の号令に昔から不思議と逆らえない。いや、御幸と血の繋がりがある人間であれば御幸の号令には従ってしまうに違いない。いつだったか市子は自身の父親が御幸の掛け声で木登りをしている光景を目にしたことがある。理由は解らないが、御幸に回れ右と言われればその言葉通り体が動く。抵抗などと考える暇さえ与えられない。しかし、不気味だとか怖いだとかは一度も思ったことがない。不思議な話だ、と市子は他人事のように思った。
自分のかけた声でクルリと回り、遅刻だと騒ぐことを忘れてピシリと行儀よく固まったままである市子の背中に、御幸はそっと手を置いてそのまま優しい力で市子を押し出した。
「はい、いってらっしゃい」
声と一緒に両手をパンッと弾けば、市子はよろけながら歩き出す。それを見て御幸は悪戯を親に見つけられてしまった子供のように笑い、もう一度「いってらっしゃい」と声をかけた。すると、市子は足取り軽やかに走り出す。前だけを見て、真っ直ぐに走っていくその姿に御幸は満足そうに頷いた。段々と小さくなっていくその背中に手を振り玄関の戸を閉めようとした御幸の視界の端で、市子が振り返って手を振っていることに気づく。玄関の戸に手をかけたまま少し隠れるような形で手を振り返せば、市子は花が咲いたように破顔して駆け出した。
「いってきます!!」
花坂市子、十五歳。ここぞという時には桜柄のパンツを履くと決めている、どこにでもいそうな少女である。そんなどこにでもいそうな少女は
― あの、"花咲爺"の子孫なのでありました。
金太郎のモデルが坂田金時であったり、桃太郎のモデルが彦五十狭芹彦命であると言われるように、諸説存在するモデル説等を重々承知した上で、それらが同軸に存在する人物でありモデルは別にいるという設定の元に進みます。決してモデルや元になる話を馬鹿にする意図はございませんが、苦手な方はどうぞ、そっと見逃してやってください。




