05/10 おっぱい
「いや、全然意味分かんないんですけど」
それはそうだろうな、と俺も思う。けれど、三杉は土下座までして言う。
「この通り、一生のお願いだ! おっぱいを触らせてやってくれ!!」
事の起こりは、昼休みの会話だった。会話と言っても、三杉が一方的にノロケ話を繰り広げているだけであって、俺は野菜ジュースをチューチューやりながら、はいはいと聞き流していた。三杉は最近彼女が出来て、相手は一学年上の三年生らしい。何をきっかけに知り合ったのか、三杉が話していたとは思うが記憶に無い。どうだって良い事は忘れるものだろう。
「なぁ、いいだろーぅ?」
「あぁ、うん、そうだね」
「佐野ぉ、お前も作れよぉ、彼女ぉ」
身を乗り出して気持ち悪く言うから、俺は横を向いたまま腑抜けた顔を押し返した。
「勧誘お断り」
俺の手を払いのけて、また三杉は顔を寄せてくる。暑苦しいったらない。
「えぇー、何でよ。まさか、女に興味が無いとか?」
「その通りだ」
えぇー、と言いながら、今度は遠ざかっていく。いちいちリアクションが大きい。
「お前、まさか、ホ」
「いや違うけど。女に興味が無い、イコール男に興味が有る、ではない。単純に、女ってものが好きになれないだけだ」
「はぁ? じゃあナニか。テレビでアイドルとか見ても、何とも思わんワケ?」
「いや? 可愛いなあ、とか、綺麗だなあ、とかは思う。ただその場合、視覚的な意味でだ。女として付き合いたいとか、どうこうしたいとかは思わない」
「……お前……」
憐れむ目で見てくる。別に性的不能者という訳でもあるまいに。
「分かった。オレが女の子の魅力について説明してやろう」
「結構だ」
あーもう、と三杉は絶叫して崩れ落ちた。価値観の相違というやつだ。押し付けるのと分かち合うのは違うという、良い教訓になった事だろう。
だが三杉は溜息混じりにこんな事を言い出す。
「お前さ、御手洗がずっと近くに居て、どうしてそうなるのよ」
御手洗というのは、近所に住む同じ年かつ同級生の女だ。幼稚園から小中高と同じ、幼馴染みだ、と言ったら聞こえは良いが、まあ腐れ縁と言ってしまった方が良い。
「だってさ、あんなバインとしたの滅多に居ないぜ、バイン、と」
謎の擬音語を発しながら、両手で胸に山を描く。今、ちょっと離れたところの女子が三杉の品性を疑い、口の動きだけで「くたばれ」と言ったが、本人は知る由も無い。更に「オレの彼女には及ばないけど!」と自分を追い込む姿は眩しく、俺には決して真似出来ないだろう。
「なんッとも思わないワケ?」
「なんッとも思わないな」
「ホワイ! ホワイだ、この野郎!!」
何故、と訊かれたら答えは簡単だ。俺はあいつのお蔭で、女に対する興味を失った。
御手洗は、俺の一番古い記憶からして既に男勝りだった。小学生までは男と殴り合いの喧嘩をしていた。女の方が性の成熟が早い、と教わったが、それより早く「生理が来た!」と騒ぎまくるあいつの姿を見て知っていた。中学生になると、男子連中が読み回していた成年指定のコミックを取り上げ、音読してしまう様な奴だった。俺に対して根掘り葉掘り、マスターベーションの仕方だとかその時は何を思うのかとか、右手か左手かとか、訊いてくる事もあった。三杉が言う様に、御手洗は割と早い段階から胸が発達していて、嫌という程に女であるという意識をさせ、その上でそういう事をやってのけるから、困る。
以上をざっくり簡潔に「逆にあいつの所為だ」とまとめ上げると、三杉は納得した。それくらいの影響力と破壊力を御手洗は持っている。
「……大変だったんだな、お前……」
「まあな」
ううむ、と三杉は腕組みをして唸った。どうにかして俺に彼女を作らせたいらしい。
そして暫し考え込んだ挙げ句、「あっ」と三杉は手を打った。
「この通り、一生のお願いだ! おっぱいを触らせてやってくれ!!」
何が、あっ、なんだか。あっ、と閃いたのがコレというのは、全く意味が解らない。
放課後、帰ろうとする俺を引き留め、御手洗の居る隣のクラスにまで乗り込み、人気の無い階段最上の屋上出入り口前まで連れてきて、コレだ。俺はもう脳味噌が凍り着いた様な気分だったし、御手洗は呆れや当惑を通り越して、悟りを開いた様な佇まいをしている。
「佐野に彼女が出来ないのは、御手洗が原因なんだ! だから、頼む! せめてもの贖罪として、御手洗からおっぱいの感触を教えてやってくれ!!」
何を言っているのか分からない。さっぱり分からない。俺の為に必死で頭を下げてくれているんだ、などと感動するどころか、心の芯まで冷え切っていく。たった一つ分かったのは、三杉は救い様の無い馬鹿だという事だけである。
「ふーん、あー、そう」
腕組みをして三杉を見下ろす御手洗の目は、雨上がりの道路でうねるミミズを見るのと殆ど同じだった。死んだな、三杉。せめて出棺ソングは俺が選んでやろう。お前の彼女には、死に至った経緯を詳らかにしてあげよう。
御手洗は溜息を吐く。組んだ腕の上で、胸が上下する。そして、俺をチラッと見た。
「別にいいけど」
え。
「え? いいんですか!?」
「いいよ」
いいのかよ。いや、いい訳無いだろう。御手洗がもう一度俺を見るから、よせ、やめておけ、とブルブル頭を振った。よせと言っているのに、御手洗は頬を引き攣らせて、ニヤリと笑った。
「あたしの所為じゃあ、しょーがないじゃん。おっぱい触らせたくらいで済むなら、何百回でもどーぞどーぞ」
「おお、よかったな、佐野ッ」
よくねぇよぶっ殺すぞ。たった一回だとしても、考えただけで冷や汗をかいているんだから。
しかし、一体何を考えてるんだ、御手洗。さっきから妙にニヤついているのは、よからぬ事を思い付いたからに違い無い。
「でもさあ」
と、御手洗は言う。
「おっぱい弱いんだよね」
「はっ」
三杉がぎょっとして目を皿にする。未だに御手洗のキャラクターを把握していない様だが、こういう事を平然と言ってのけるのだ、こいつは。
「だから、さ、良い雰囲気になっちゃったら、気まずいじゃん?」
太腿を擦り合わせて、人差し指を唇に当てて、流し目に俺を見てくる。加えて、御手洗は自分がそこらの女より余程女らしい事を知っている。要するに、タチが悪い女なのだ。
「あ、あ、あ、そうだよな! お、おう、オレ先に帰るわ」
「ま、待て俺を置いていくな」
「うん、じゃあな、佐野! ガンバ!」
ハハハハ、と笑いながら、すっ飛んでいった。ガンバ、じゃない。お前は今誤解を植え付けられたんだ。御手洗は、そういうのさえ楽しむ女なんだぞ。待て、待ってくれ。
三杉が去って行った方から、視線を戻すのが怖かった。しかし、「で?」と低く訊かれては、面と向かい合うしかないではないか。
御手洗は、顎をしゃくり上げて、俺を睨んでいた。目をカッと見開き、下瞼から俺を覗くその形相は、どんなホラー映画や心霊写真より、恐怖だった。
「お、俺の発案じゃあないんだ。三杉が勝手に言い出した事で」
「ふーん、で?」
「お、おま、俺がお前の胸を触りたがる筈が無いじゃないか? そんな事したところで、どうなる訳でも無し?」
「じゃあ、触らないの?」
「えっ」
えっ、いや、えっ。
「えっ?」
「だから、触りたくないのかって」
「ば」
馬鹿をおっしゃり遊ばせないで下さいませ。ほほほ、と奇妙な笑いが口を突く。
「いいって言ったじゃん。佐野が触りたいなら、好きなだけ触りなよ。ほら」
御手洗の胸がずいと迫ってくる。いやいや、ご遠慮させて頂きます、なんて言わせない雰囲気だ。「ほら」ともっと迫ってくる。こいつ、何を企んでいやがる。
俺は仰せの通り触る事も、押し返す事も出来ず、後ずさった。
「は、はは、そういう冗談は」
言い掛けたところで、御手洗が俺の手首を掴み、力任せに引っ張った。
俺はこの瞬間、御手洗のおっぱいを、
御手洗の手を振り払って、逃げる。壁に後頭部を強か打ち付けたが、痛みなんて感じない。鼓動の音がガンガン鼓膜に響いてきた。
「どうだった?」
ニヤニヤと笑い顔で、挑発的に訊いてくる。
カーカーとカラスが鳴いている。西の空が朱色に染まっている。俺の左手を御手洗が歩いている。一緒に帰っているのではないから。家の方向が全く同じだというだけなのだから。
けど、御手洗のおっぱいが、ショルダーバッグをたすき掛けにしている所為で、ブレザーの襟の間から、おっぱいが、すぐ隣に、ワイシャツの白が、おっぱいが、ついさっき俺は、おっぱい、おっぱい、
落ち着け。落ち着けってば。何を意識しているんだ。冷静になれ。相手は御手洗だぞ。俺をからかって楽しんでいるだけだ。だって御手洗だぞ。おっぱいが大きくったって御手洗だ。あのおっぱいだぞ。いやいや違う、あの御手洗だ、そう、御手洗だ、御手洗。
「あのさあ、佐野」
俺の心臓は間違い無くその瞬間捻り潰された。なのにどうして死ねないんだ。いっそ死にたい。寧ろ殺してくれ。
「あ、何でもない」
「いや言ってくれ、寧ろ言え、言いたい放題言ってくれ、さあ今だ言え、頼むから言って、殺して!!」
「え、な、何……?」
俺の錯乱ぶりに、御手洗は、うわあ、という顔をする。俺だって自分で、うわあ、と思う。
「……ごめん」
何故だか知らないが泣きそうだ。うわあ、としたまま立ち止まっている御手洗を置いて、とっとと歩き出す。顔を見ないで欲しかった。
「ねえ」
もう話しかけないでくれ。惨めで仕方無いのだ。
「ねえってば!」
御手洗に肩を掴まれた。そしてぐいと引っ張られて、俺はでんでん太鼓の様に振り向かせられた。
「あんな事、佐野以外にもさせると思ってんの?」
翌朝、席に着いてぼうっとしていた俺に、三杉が話しかけてきた。
「よっよっよっ、あの後どうしたんだよ、おい」
下品な笑いを浮かべている。俺は三杉から身体ごとそっぽを向いた。
「触らせてもらえたのかよ?」
「ああ、触ったよ」
「マジかよ、おい。どうだったんだよ、御手洗のおっぱいの触り心地ッ」
「固かった」
「ぬっは! 何、そのリアルな感想! 殴って良い? ねえ、殴って良い?」
触らせる様頼んでおいて何を言い出すのか。勝手に大はしゃぎする三杉はやはり気持ち悪く暑苦しい。
「で、どうなの? 女に興味涌いた?」
ねえねえ、としがみついてくる三杉の額を手の甲ではたき返す。
俺の視界の真ん中で、女子達が朝の挨拶を交わしている。キャッキャと楽しそうに笑い合っている。先に来た方は既に着席していて、少し前のめり。だから、アンダーが机の縁に押し当てられて、おっぱいが強調されている。
「別に、だ」
可愛いとは思う。綺麗な形をしたおっぱいだなとも思う。でもそれだけだ。
「やっぱり(御手洗以外の)女に興味は無いな」
一日一話・第十日。
むしろ俺が死にたい。
「おっぱいの話書いてよ!」と言ってきたPESを、俺は生涯許さないと思う。