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加藤虎弐の場合


 ――この時はまさか、あんなことになるとは思わなかった。


 夜の10時を回った頃。

 大阪の街は人でごった返していた。

 有名な川の付近には大人数の警察官が警戒に当たり、橋の周りに立ち入り禁止のテープを張る。


 それもそのはず。

 関西を代表する野球チームが、この日10年ぶりの優勝を果たしたのだ。

 騒ぎを警戒した警察の頑張りも虚しく、歓喜に狂乱する者が我先にと川に飛び込んで行く。

 

「っしゃーーー! 見とけよお前らぁ!」


 そしてこの男、加藤虎弐(かとうとらじ)もその阿呆の一人だった。

 虎弐は野球チームのユニフォームをだらしなく羽織り、堂々と橋の欄干に立つ。

 

 (は、どいつもこいつも、足から飛び込むとは情けない……男やったら頭からいったれ!)

 

 先に飛び込む輩を見てため息を吐くと、虎弐はまるで水泳選手のように腰を屈める。


「優勝おめでとーー!」


 虎弐は大きな叫び声を上げると、美しいフォームで水面へダイブした。

 

 しかし、ザブンと水しぶきを上がった数秒後。

 頭に鐘を打ち鳴らしたような衝撃が響き渡る。


「ごぼぉっ!?」


 飛び込んだ先の川は意外にも浅く、虎弐は大きな岩に頭を強打したのだ。

 衝撃ですぐに意識は飛び、痛みを口にすることも出来ない。

 虎弐は頭上に大きなたんこぶを作り、しばらくして虫のような格好で水面に浮かび上がった。 


 ◇◆


「ふむ……はいはい溺死ね。調子に乗って川に飛び込んで? 岩で頭を強打、気絶して溺れるって……ぷぷぷ、なかなかの大馬鹿者っぷり」


 何もないただ真っ白な空間。

 痩せ細った老人は、バインダーに挟んだ書類に目を通し、堪えきれずに吹き出す。

 

 その人物は薄汚れた布を申し訳程度に体に巻き付け、パッと見は超高齢の禿げジジイだ。

 ジジイはぺらりと紙をめくり、顔写真の載ったページをまじまじと見る。


「性格、底抜けの陽キャ(馬鹿)。悩み、モテないこと。仕事、フリーター。好物、マヨネーズ? なんとまぁ、絵に描いた様なアホ面の男よ」

 大して興味の無さそうな顔で、ジジイは項目を読み上げていく。


「ま、こんなのどうせ役に立たんに決まっとるし……なんか適当にくっ付けとこー」


 そう言って小指で鼻をほじりながら、ジジイは持っていたバインダーを放り投げる。

 

 ジジイの目の前には、ぷかぷかと横たわる虎弐の体。

 そして〈パチン〉と指を鳴らした瞬間、虎弐の体は泡のように弾けて消えた。


 ◇◆


「う……」


 どこからか鳥の囀りが聞こえる静かな森の中。

 ふかふかの茂みの上で、虎弐は体を丸め眠ったまま眉をしかめる。


 〈ブゥッ!〉


 破裂音ような屁が響き渡ると、木にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。

 まるで憑き物でも落ちたように、再び安らかな顔で寝息を立てる虎弐。その頬にポタリと鳥の糞が落ちた。


「……ん? う〜ん」


 生温かい感触で微かに眉を動かし、虎弐はようやくうっすらと目を開ける。

 その目の前に映るのは広大な自然。

 どう考えても大阪ではない風景に、虎弐はしばらく瞬きを繰り返す。


「……え? どこ、ここ」


 呆気に取られたまま体を起こすと、妙にスベスベとした肌感に自分の体を見下ろす。

「え、やだぁ! 何で裸!? え? 何これ! ドッキリ!?」

  

 のどかな森の中で、全てを失った全裸男は挙動不審に狼狽え股間を覆う。 


『なんじゃ、やっと目覚めおったか』

「だれぇ!?」

 突然脳内に響く声に、虎弐は股間を押さえたままキョロキョロと辺りを見渡す。


『ばーか、お主には見えんわい』

「な、誰やっ……どこから喋っとんじゃ!」

 声の主は虎弐が見えているのか、顔を真っ赤にしてキレる虎弐をヘラヘラと嘲笑う。


『ぷぷぷ……もう、せっかく転生させてあげたのに、そんなに怒っちゃって』

「て、転生!?」

『うむ。みんな好きでしょ? 冒険ファンタジー。不幸にも死したお主は、ワシの担当するこの世界に転生したのじゃ』

「えっ……俺、死んだん?」

『覚えとらんのか? ほれ、川に飛び込んで、大きな岩に頭をぶつけたじゃろ』

「あ! あの時に!?」


 川に飛び込んだ時の想像を絶する苦痛が甦り、虎弐は愕然と頭を抱えてしゃがみこんだ。


 (嘘やろ……そんな死に方……俺まだ20歳で、彼女も出来たことないのにぃ……)


 虎弐は絶望の中、涙目で自分の股間を情けなく見つめる。

「……小さいままか」

 

 (ってゆーか……転生ってあれ? よくアニメで見るやつ? 担当する世界って何? コイツ何もんやねん)


 転生しても股間のサイズが変わっていないことに軽いショックを受けつつ、虎弐は自分の置かれた状況に思考を巡らす。


『おーい……おーい! 聞いてるの?』

 頭に響く声に気付き、虎弐はハッと顔を上げる。

「お、お前はいったい……」


 そう言った瞬間、脳内にくっきりと老人の笑顔が写し出された。

 

『神様だよ〜ん』

「か、神!? こんな、ただのジジイが!?」

 

 ジジイは虎弐の脳内画面いっぱいに自分の顔を写し出し、テレビ中継に入り込むお調子者のようにピースを繰り返す。


『では、楽しい冒険の始まりじゃ〜。オマケも付けといたから、今度は無駄死にしないよう頑張ってねぇ〜』


 無責任な明るい声と共に、脳内のジジイの姿は薄くなっていく。


「ちょ、待てや! こんな場所に一人で、どないせーっちゅうねん!」

『何とかなるなる〜。あ、取りあえず、そろそろ下は隠した方がいいかもねぇ』

「はぁ!?」


 ジジイはそれだけ言い残すと、完全に姿を消した。

 そしてジジイの言葉通り、ある意味危機が訪れる。


「何にもな〜い、だ〜れもいな〜い〜、ウチはお金も家もなぁ〜い〜♪〜」


 遠くから聞こえてくる壊滅的な歌声と、絶望的な歌詞。

 少女と思われる歌声に、虎弐は焦ってキョロキョロと辺りを見渡す。


 すると、前方数十メートルほど先に小さな人影が見えてくる。


「やばっ! え、えっ? どうしよ……何か隠すもん」


 股間を押さえたまま隠せるものを探すも、だだっ広い草原に目ぼしいものは何もなかった。

 そうこうしているうちに、対象との距離は目前に迫る。

 幸い、その人物は歌に夢中で虎弐には気付いていない。


 (こ、こうなったらっ……)


 虎弐はその場にうつ伏せで寝そべり、身動きせずに時が過ぎるのを待つ。

 まるで熊に出会った時の対処法のように、それはどう見ても無意味だった。


 (頼む……気付かず行ってくれ!) 


 高鳴る心臓の音に、奇妙な歌声は至近距離まで近づく。

 虎弐は息を殺し、冷や汗がたらりと頬を伝う。


 (あれ? 何か静かになった……もしかして、行ったか)


 念のため数分間動かずにいたが、一切の物音はしない。

 ゆっくりと顔を上げると、目の前には何もない。


「はぁ〜……助かった」


「何が?」

「うおぉっ!?」


 突然横から顔を覗き込まれ、虎弐は心臓が飛び出そうなほどの大声を上げた。

 その目の前にはニヤニヤと笑う少女が。

 肩まで伸びたオレンジの髪は所々ピコンと跳ね、大きな丸い目は興味津々に虎弐を見つめる。

 しかし虎弐は、それよりあるものに釘付けになった。


「み、耳が……」

 少女の頭には兎のような長い耳がある。

 精巧なカチューシャのようだが、あまりにも自然すぎた。

 

「ん? 耳ぃ?」

 少女は不思議な顔をして、その耳をピョコンと曲げる。


「動いた!……か、カチューシャじゃないん!?」

「かちゅー、しゃ? わからんけど、これはウチの自慢の耳だ! 聞こうと思えば数キロ先の音もバッチリだぞ!」

 聞き慣れない言葉に首を傾けつつ、少女は自分の耳を触りながら自慢げに鼻を鳴らす。

「す、数キロ!?」

 虎弐はまたも驚き、自分の今の格好も忘れて飛び起きた。

 

 そのまま棒立ちで唖然とする虎弐を、少女は上から下までゆっくりと見つめる。

 そして彼の股間を見つめ、哀れむように呟いた。

 

「……お前も無一文?」


 視線の先を辿り、虎弐は思い出したように股間を隠し黄色い悲鳴をあげる。

   

「へ?……いやぁぁーん!」


 その絹を裂くような男の悲鳴は、広大な異世界の草原に響き渡っていった。

 


  

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