翻訳家の午後 ―手をつなぐ距離
縦長の格子窓から差し込む昼の光が、床に四角く切り取られて落ちている。
それはゆったりと、水のように揺れていた。
遠くからは、馬車が通り過ぎる音。
ローテーブルの上には、カップがひとつ置かれていた。
だが中身は空で、とうに冷えている。
深緑色のソファの端に座ったセオドアは、脚を組み、肘掛けに肘をついて本を読んでいた。
膝の上の本。ページをめくるたび、その音だけが部屋にささやかに広がる。
扉の開く音。
紅茶の香りがわずかに漂ってくる。
セオドアが視線だけを向けると、リオンが湯気の上るカップを持って居間に入って来たところだった。
二人は翻訳家業を共にしている同僚兼同居人。
セオドアは、気にせず本に視線を戻した。
リオンの気配が近づいてくる。
彼はソファの前に立つと、しばらくじっとしていた。
そして、反対側の端に座る。
カップをテーブルに置き、膝に手を置いた。
息を吐く音がする。
リオンはカップを持って立ち上がる。
一歩、歩く。
そしてセオドアのすぐ隣に座り直した。
クッションが沈む。
脚が少し触れ合う距離。
セオドアが視線だけを向けると、一瞬だけ目が合う。リオンがすぐに目をそらした。
リオンはカップに口をつける。
飲む時にズッと音がした。
セオドアがまた視線を向けると、彼は口に手を当てて、気まずそうに一人で笑っている。
カップをテーブルに置いた。
足先を落ち着かなそうにしきりに動かしている。
膝の上で拳を握っているが、やはり落ち着かずに、親指を拳の中に入れたり出したりしていた。
セオドアは、それを静かに横目で見ている。
またカップを持ち上げて飲む。
置く。
持ち上げる。
両手で持つ。
まだカップの中の紅茶はほとんど残っているが、リオンは立ち上がった。
そして静かに歩き出す。
向かいのソファに脚をぶつけて「いたっ」と小さくつぶやきながら、彼は部屋を出ていった。
セオドアはその背を静かに見送る。
――あれはいったい、なんだ?
しばらくそのまま見ていた。
やがて、セオドアは小さく首を振ると、また本に視線を落とした。
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翌日。
翻訳作業が一段落し、セオドアが休憩にと居間に入ると、すでにソファには先客がいた。
ソファの背もたれに身を預けて深く腰掛けていたリオンは、セオドアに気づくと、放り出していた足を戻して座り直した。
そして、ふわりと笑う。
「セオドアも休憩?」
「あぁ」
セオドアはソファに近づき、持っていたカップをテーブルに置くと、リオンとは反対側のソファの端に座った。
「……あれ?」
小さくリオンの声が漏れる。
セオドアはリオンの方を見た。
「……どうした」
リオンは視線をそらして、首を振る。
栗色の猫っ毛が彼の動きに合わせて揺れた。
セオドアは脚を組んで本を開くと、そこに視線を落とす。
衣擦れの音。
リオンは腰を曲げて、セオドアの顔を覗き込む。
視線を一度天井に投げ、テーブルに置いていたカップを持つと、滑るようにセオドアの隣に来る。
セオドアはリオンを見るが、彼はこちらを見ない。
セオドアはわずかに片眉を上げたが、何も言わずにまた本を読み始めた。
リオンは口角を上げる。
膝の上に手をおいたまま、窓の方を見た。
淡い霧の向こうに、空を泳ぐ白い雲がぼんやりと見える。
「……ふふ」
わずかに脚が当たる距離。
セオドアも、少しだけ口角を上げた。
本のページをめくる音だけが、部屋に静かに落ちていた。
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またある日。
小さな庭で、二人は庭仕事をしていた。
リオンはせっせと花を植え、セオドアは少し離れた場所で野菜の芽引きをしている。
スコップでそっと苗に土を被せると、リオンは顔を上げた。
白い頬には泥がついている。
セオドアの背をじっと見つめ、かがんだまま、一歩、また一歩とにじり寄った。
互いの肩がトンと当たる。
セオドアがゆっくり振り返ると、黒い瞳と、リオンの琥珀の瞳が交わった。
リオンは視線を外す。
「花……植え終えたのか?」
「うん」
「俺ももうすぐ終わる」
「……お茶にしようよ」
「……疲れたのか?」
「そういうわけじゃないけど」
「先に部屋に戻っててもいいよ」
「なんで?」
――“なんで?”……とは?
セオドアが見ていると、リオンの視線が一度持ち上がり、また下がる。
「待ってる」
「……そうか」
もうしばらく作業をして、セオドアが抜いた葉をまとめて立ち上がると、リオンも合わせて立ち上がった。
セオドアが歩き出すと、リオンは鴨の子どものように後をついて歩いた。
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居間のソファ。
焼菓子の乗った皿をテーブルに置いたリオンは、ソファの端に座った。
後から部屋に入ってきたセオドアは、二人分のカップをテーブルに並べると、僅かに首を傾げる。
リオンはそれをじっと見つめていた。
紅茶の白い湯気が、二人の間に舞う。
セオドアは、結局、リオンの隣に座った。
脚が少し、触れ合う距離に。
リオンは少しだけ身じろぎすると、にっこりと、声には出さずに笑った。
セオドアは脚を組んでカップを持ち上げる。彼の口元も、わずかに弧を描いた。
焼菓子の甘い匂いがする。
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またある日。
窓の向こうには雨が降っていた。
ぽつぽつとガラス窓を水滴が打ち、心地の良いリズムを生み出している。
居間にはガスランプの明かりが灯り、部屋の隅に柔らかい影を落としていた。
セオドアはいつものようにソファで休憩している。
肘掛けに本を乗せ、片手は自分の膝の上に無造作に置いていた。
部屋に、リオンが入ってくる。
手には紅茶の入ったカップ。
彼はローテーブルを回り込むと、セオドアの隣にぴたりと腰を下ろした。
ページをめくる音。
紅茶の香り。
リオンはテーブルに音を立てないよう静かにカップを置くと、セオドアの端正な横顔を見つめた。
それから、視線は彼の手。
またページをめくる音。
リオンは指先で自分の顎に触れた。
しばらくは、紙をめくる音と雨音だけがする。
リオンは手を伸ばして、セオドアの手の甲に人差し指で触れた。
すぐに手を引く。
セオドアが横を見る。リオンはぱっと顔を背けた。
「……どうした」
「……別に」
セオドアはしばらく見ていたが、やがて視線を本に戻す。
リオンがセオドアの顔を覗き込んだ。
また、セオドアの手を見る。
今度は中指と薬指でくすぐるようにそっと触れた。
すると、セオドアの手がくるっと返り、リオンの指先を捕まえる。
リオンは肩を震わせて驚き、とっさに手を引いた。
横を見ると、セオドアの黒い瞳とぶつかる。
「……どうした?」
リオンは立ち上がると、急ぎ足で部屋を出ていった。
扉が閉まる。
セオドアはしばらく扉を見つめていたが、また本に視線を戻した。
雨音が心地よく部屋に落ちている。
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夕刻。
セオドアが鋳鉄ストーブの上に置いた鍋を覗き込む。
時折かき混ぜながら、壁に飾られた小さな絵を眺める。左手を腰に添え、小さくあくびをした。
リオンがやってくる。
リオンは、インクまみれの手を洗うと、セオドアの鍋を覗き込んだ。
「美味しそう」
「うん」
そのまま隣にい続けるリオンに目を向ける。
「……今は特に君に手伝ってもらいたいことはない。休んでていいよ」
「なんで?」
――“なんで?”……とは?
セオドアは黙って横を見ていた。
リオンは台所を見渡した。
「お茶淹れる?」
「……リオンが飲みたければ」
セオドアが鍋に視線を落とし、かき混ぜ始める。
リオンは、セオドアの腰にある左手に、そっと触れた。
セオドアは鍋を見つめたまま、その手を握り返した。
鍋が、コトコト鳴っている。
リオンはにっこりと笑った。
料理ができあがるまで、特に言葉を交わすこともなく、ただ二人は並んでいた。
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その日は、霧が出ていた。
窓の向こうは白く、隣の家も見えない。
部屋の中も、ほのかに薄暗い。
居間のソファに、リオンは腰掛けていた。
背もたれに頭をあずけ、腹の上に本を置いている。
両手足は適当に投げ出したまま、ぼんやりと天井を眺めていた。
扉が開く音。
セオドアは部屋に入るなり、見渡す。
ガスランプをつけ、テーブルを回ってソファに座った。
リオンの隣。
リオンはずっと、セオドアの動きを目で追っていた。
セオドアの横顔が、ランプの明かりに照らされている。
視線の動き。
彼は、ソファに落ちていたリオンの手に視線を落とすと、そっと握った。
リオンは慌てて手を引っ込め、起き上がる。その時に足がローテーブルにぶつかり、大きな音がした。
セオドアがリオンを見ると、リオンは目をそらす。
リオンは、自分の手をさする。
霧の匂いが、部屋にまで染み込んでいた。
セオドアは小さく首を傾げると、持っていた本を開き、手は自分の膝に乗せた。
リオンは眉を下げてその手を見つめ、小さく息を吐く。
そして視線をそらした。
ガスランプの明かりが、心許なく、部屋をじんわりと染めていた。
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灰と白が混ざった石畳の街並み。
学院街であるハートウェル区には、今日も人の気配が滲んでいた。
本屋から出てきた若者は、本を読みながら歩き、人にぶつかりそうになりながらも器用に避けている。
掲示板にはたくさんの紙が貼られ、風にかすかに揺らされていた。
早歩きの老人の後を、書類カバンを抱えた中年の男が「先生!」と言いながら追いかけている。
小ぶりの馬車が急ぎ気味に通りを抜けていく。
セオドアとリオンはそれを横目に、ゆったりと歩いていた。
二人のブーツの音が、霧の向こうの青空に吸い込まれていく。
店が立ち並ぶ区画に入ると、人の声はわずかに華やぐ。
リオンは迷わず扉を開け、店内に滑るように入っていった。
澄んだドアベルの音。
セオドアも後からのんびりと入る。
焼菓子屋の女性店主は、二人を見てにっこりと笑った。
「今日は暖かいですね」
リオンもにっこりと笑んで返す。
店主のそばで作業していた若い従業員の女性も顔を上げ、リオンの隣に並ぶセオドアを見、ぱっと視線を下げた。そして、店の厨房へ駆けていく。店主はそれを見て笑っていた。
「僕、ジャムが乗ってるのが食べたいな」
「……これかしら?」
店主が木製のカウンター上のガラスケースに並んだ菓子の中から、小さなトングで菓子を取った。
真鍮の皿に乗せ、秤を見つめる。
店主は頷く。
菓子を紙で包み、リオンに渡す。
リオンはカウンターにそっと銅貨を並べた。
セオドアは店の壁際に立って、それを眺めている。
麻紐で括られた無地の紙包みを持ったリオンが振り返ると、セオドアは少しだけ口角を上げた。
「買えた。帰ろ」
「……あぁ」
セオドアも踵を返す。木床が小さく鳴った。
「あ……あの……」
厨房に入っていた若い女性店員が駆け寄り、小さな紙包みをセオドアに差し出す。
「新作なんです……。良かったら……」
彼女の耳が赤い。
リオンは彼女とセオドアを交互に見る。セオドアは手を伸ばして受け取った。
「ありがとう」
背を向けて扉を開ける。
街の霧の匂いが流れ込んだ。
二人は店を出て、また並ぶ。
行き交う人。
通り過ぎる馬車。
等間隔に並ぶガス灯。
リオンはセオドアの手の包みを見る。
少しだけ頬を膨らませた。
「リオン……これ」
セオドアが包みを持ち上げる。
「食べるか?」
「え」
黒い瞳が優しく細められる。
「いいの?」
「……焼菓子、好きなんだろ?」
リオンがセオドアから包みを受け取る。
リオンの頬がほころぶ。
「食べる」
リオンが笑うと、セオドアも少しだけ笑った。
空には、雲が浮かび、風に押されては形を変えていた。
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買ってきた焼き菓子を皿にのせ、リオンはローテーブルに置いた。
窓から差し込んだ白い光の層が、部屋を満たしている。
菓子の甘い香りが、ほわりとリオンの鼻をくすぐっていた。
ソファに座り、足先を組んで、しばらく待つ。やがて扉が開き、セオドアがカップを二つ持って部屋に入ってきた。
「ティータイムにしよう」
「待ってました!」
リオンは、にこにこしながらセオドアを目で追う。セオドアはカップをテーブルに並べると、リオンのすぐ隣に腰を下ろした。
クッションが少しだけ沈む。
リオンはカップを手に取って一口飲むと、手を伸ばして焼菓子を頬張った。
「……美味しい。これは正解だった」
「……良かったな。あの店で外れだったことが、そもそもないだろう?」
「……そうかも」
リオンは「あはは」と笑いながら、もうひとつ摘む。
遠くで馬車の音。
クッキーを噛み砕く音が、静かに鳴る。
リオンがふと隣を見ると、セオドアの瞳とかち合った。
セオドアは、静かに手を差し出す。
セオドアと、その手のひらを、リオンは交互に見た。
リオンは自分の手に視線を落とす。
カップをテーブルに置き、指先をこすり合わせた。
手を開く。
そして、そっと、セオドアの手に自分の手を重ねた。
優しく、手が握られる。
紅茶と甘い菓子の香り。
カップの白い湯気。
リオンの頬が緩んだ。
セオドアも、少しだけ口角を上げた。
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また別の日。
セオドアがソファで本を読みながら休憩していると、リオンも部屋に入ってきた。
右手についたインクを気にしながら、セオドアの隣に座る。
リオンは、ぼんやりと窓の向こうを眺めた。
ふと、視線を下げる。
膝に置いていた手に、セオドアの手が重ねられる。
そして、そっと握られた。
リオンがぱっと顔を上げてセオドアを見ると、彼は相変わらず優しい瞳でリオンを見ていた。
リオンの頬が緩む。
「へへ」
リオンが笑う。
リオンもセオドアの手を握り返した。
セオドアも少しだけ笑うと、また本を読み始める。
リオンの耳は、わずかに赤い。
今日も部屋には、紙とインクの匂いがする。
焼菓子は無いけど、なぜか、甘い香りも少しだけ混ざっていた。




