アンドロイドの恋は終わらない
昼下がりの教室は、春の柔らかな日差しに包まれ、黒板の縁に淡い影を落としていた。
狭間正義は、少し癖のある黒髪を額にかかるままにして、窓際の席でぼんやりと教科書を眺めていた。
どこにでもいそうな外見だが、彼には一つだけ有名な点がある。
小学生の頃の授業で発表した「可愛いお嫁さんと幸せに暮らしたい」という夢が原因で、それからずっと嘘告白の標的にされ続けていることだ。
正義への嘘告白は、同じクラスになったことのある生徒なら誰もが知っていて、いかに正義を納得させて騙すかと、その後の正義のリアクションを楽しむ「伝統芸」になっていた。
そんな正義の前で、教室の扉が勢いよく開いた。
振り向くと、長い栗色の髪を軽やかになびかせた姫野美緒が立っていた。
整った顔立ちに、少し強気な瞳。クラス一の美少女として知られる存在だ。
彼女は息を弾ませながら、正義の前に歩み寄る。
「やっぱりあなたのことが好きみたいなの!」
「姫野さん、一か月前の告白の時は、罰ゲームで告白することになったって言ってなかったっけ?」
「それは……確かにそう言ったんだけど……」
教室がざわめいた。
どう挽回するのかと、美緒に期待の視線が注がれる。
「あれは照れ隠しだったの! けど、やっぱり自分の気持ちがわからなくて……もう一度確認したかったの」
「確かに、自分のことでもわからないことはたくさんあるね。確認はできたかな?」
「それが……きっと好きなんだけど、絶対と言い切れなくて。この気持ちに自信を持つために、狭間君に協力してもらいたいの!」
「俺はどうしたらいいんだ?」
「私は掃除が得意な人が好きだから、今週の掃除当番を代わってほしいの!」
教室のあちこちで笑いが漏れたが、正義は真剣な表情で頷いた。
夕方の教室で、男子の掃除当番たちが、正義を囲んでため息をつく。
「あんなの、お前に掃除当番を押し付けるための嘘に決まってるだろ」
「お前への嘘告白イベントは、もう風物詩というか、お前の問いかけに相手がどう答えるかがコントみたいで面白いんだけど、さすがに今回のは笑えない」
「まだ嘘と決まったわけじゃないさ。姫野さん、すごい綺麗好きなのかもしれないだろ」
「仮にそうだとして、自分は掃除せずに男女合同カラオケ大会に行くような女子が好みなのか、お前は」
「好みなんて言えるような身分じゃないからな。将来可愛いお嫁さんと幸せに暮らすために、できることは何でもやるさ」
「お前が不満に思ってないならいいけどよ……」
一通りの掃除を終えて、友人たちが帰り支度をする中、正義は鞄の中から銀色のハンディクリーナーを取り出した。
「狭間、なんだそれ?」
「狭い隙間の埃もスイスイとれる、超強力ハンディクリーナーだ。たまたま家にあったから、昼休みに取りに行った」
「そうじゃなくて、それをどうするんだよ?」
「一味違う掃除をしたら、姫野さんもときめいてくれるかもしれないだろ?」
呆れながらも「頑張れよ」と背中を押して帰っていく友人たち。
正義は一人、教室の隅々までクリーナーを走らせた。
静かな教室に、軽いモーター音だけが響く。
そのとき、教室の入口から、澄んだ声がした。
「この教室だけ空気が綺麗……あなたは掃除のプロですか?」
振り向くと、白い肌に黒髪のストレートが映える少女が立っていた。
細い体つきで、どこか儚げな雰囲気をまとっている。
初めて見る顔だった。
正義はクリーナーを止めて答える。
「このクリーナーが凄いんだよ」
「凄いクリーナーを使って掃除をしてくれるあなたも、十分に凄いです。こういう教室があると、とてもありがたいです」
柔らかな声に、正義は思わず照れてしまう。
少女は軽く会釈し、「また後日」とだけ言って去っていった。
翌朝、昨日の少女が、教師に連れられて教室に入ってくる。
肩までの黒髪が揺れ、静かな気品を漂わせていた。
「水鏡映子です。よろしくお願いします」
教師の説明によれば、体の事情で空気の綺麗な教室が必要になり、急遽このクラスに入ることになったらしい。
映子は正義を見つけると、丁寧に頭を下げた。
「昨日はありがとうございました。こちらの教室を綺麗にしていただいたお陰で、私の体でも負担なく過ごすことができます」
「どうも。喜んでもらえたならよかったです」
映子はまっすぐ正義を見つめた。
「私にはあなたのような人が必要です。あなたに好意を抱いています。私と付き合っていただけますか?」
教室が一瞬でざわめきに包まれた。
「狭間への嘘告白イベントだ」と、二人のやり取りに期待する視線が集まる。
「誰だ、教えたのは?」
「わからないが……ノリのいい子だな。可愛いし、理由もきちんとしてるし、これは狭間もイチコロだろう」
正義は驚きつつ、落ち着いた声で答えた。
「ありがとう。君のような綺麗な子にそう言ってもらえて光栄だ。俺の将来の夢は可愛いお嫁さんと幸せに暮らすことでな。付き合うなら本気の付き合いだけだ。結婚を前提にした付き合いでいいか?」
映子は即答した。
「あ、それは無理です」
「だよなぁ……」
教室中が笑いに包まれた。
姫野が呆れたように言う。
「狭間はホント、女の子の気持ちがわからないわよね。あんたみたいなのに好きだなんて、冗談でしか言えないでしょ」
「姫野さん……そういえば、掃除が得意な人が好きって言ってたけど、どうだろう。俺は割と掃除が得意だと思うんだが」
「ホント、わからない奴よね……。無理に決まってるでしょ」
「そうか」
正義は映子に向き直り、深く頭を下げた。
「君の気持ちを理解しようとせず、俺の想いだけ伝えてしまってすまなかった。こんな男に一生を託すなんて、怖くてできないよな。俺のことは気にせず、楽しくやってくれ。掃除が得意な男に需要があるとわかったから、お付き合いできなくても、君が過ごしやすいように掃除はするよ」
映子は小さく首を振った。
「あ、いえ、一生を託したいのは山々なのですが、私は人類との結婚が許されていないんです」
「は……?」
教師が前に出てきて説明する。
「水鏡さんは国の最新技術で作られたアンドロイドなんだ。機械だから、当然人間とは結婚できない。でも、何かの縁だし、狭間が面倒を見てやってくれ」
「面倒って……?」
「水鏡さんは精密機械だから、呼吸した時に相性のよくない埃が入ると不調をきたすことがある。移動教室の時に気を付けて掃除してあげてくれ。あと、みんなが珍しがって叩こうとしたら、止めてくれ。精密機械だから、衝撃を与えちゃダメなんだ」
正義は呆れたように言った。
「精密機械だからっていうか……同級生なんだし、叩いちゃダメでしょ。そんなのみんなわかってますよ」
その言葉に、クラスの全員が頷く。
「そうだそうだ」「俺たちを何だと思ってるんだ」と生徒たちが非難の声を上げ、教師は慌てて退散した。
休み時間の教室は、昼の光が差し込んで明るく、机の間を行き交う生徒たちの声で賑わっていた。
その中心にいるのは、転入してきたばかりの水鏡映子だった。
艶やかな黒髪をさらりと流し、落ち着いた雰囲気をまとった彼女の周囲には、自然と人だかりができていた。
「年齢は?」
近くの女子が身を乗り出す。
「皆さんと同じ、今年十七歳になる設定です」
映子は穏やかな表情で答えた。
「勉強はできるの? さっきの授業の内容わかったら教えて?」
別の女子がノートを差し出す。
「勉強は、皆さんとの会話に困らない程度にできるように設定されています。先ほどの授業の内容は、幸いわかりました」
そう言うと、映子は黒板の前に立ち、数式を丁寧に説明し始めた。
その姿は、まるで長く教師をしてきた人のように落ち着いていて、生徒たちは感嘆の声を上げる。
午後の体育の時間では、映子はしなやかな動きでバスケットコートを駆け抜け、小柄な体からは想像できないほどの俊敏さで、次々とシュートを決めていった。
「すげえ……」
生徒たちは皆、口を開けたままその姿を見つめる。
日本の技術はここまで進んでいたのかと、誰もが驚いていた。
数日も経たないうちに、映子はクラスの人気者になった。
放課後も、クラスメイトたちと色々な場所へ遊びに行くようになった。
夕方の廊下は、沈む陽の名残が窓に薄い橙色の帯を作っていた。
正義が帰り支度をしていると、男子数人が近づいてきた。
「狭間、今日みんなでカラオケ行くんだけどさ、お前も来いよ」
「え、俺も?」
「当たり前だろ。人数多い方が盛り上がるしな」
正義は少し驚きながらも頷いた。
「じゃあ……行くよ」
その返事を聞いた映子が、すぐそばでぱっと顔を明るくした。
黒髪が揺れ、嬉しさがそのまま表情に出ていた。
「正義さんも行くんですね。よかった……一緒に楽しみましょう」
正義は照れくさく笑った。
カラオケボックスに着くと、店内は薄暗く、壁の照明が色を変えながら揺れていた。
受付を済ませたクラスメイトたちは、部屋の前で正義を振り返る。
「狭間、ちょっと中見て、掃除してこいよ」
「どうしてだ?」
男子が当然のように言う。
「この前カラオケに行った時、映子ちゃんが埃を吸って体調を崩したんだよ。またそうなったら可哀想だろ?」
女子も続ける。
「そうそう。狭間君なら掃除得意だから安心だよね」
正義は腕まくりしながら部屋に入った。
「……よし、任せてくれ」
部屋の中は前の客の名残があり、テーブルに指でなぞれば跡がつく程度の埃があった。
正義は黙々とクリーナーをかけ、テーブルを拭き、窓を少し開けて換気まで済ませた。
外で待っていた男子が手を振る。
「おー、助かった助かった。ありがとう狭間。もう帰っていいぞ」
女子も笑顔で言う。
「そうそう、あとは任せて。映子ちゃんも安心して歌えるよ」
正義はあっさりと頷き、荷物を肩にかけた。
翌日の放課後、教室には掃除用具の音が響いていた。
事の次第を知った友人たちは、怒りを隠さなかった。
「もうこんな風に綺麗に掃除をしてあげるのは、やめてもいいんじゃないか?」
「水鏡さんや他の生徒たちが楽しめるように、いいように使われて、正義は大変なだけじゃないか」
正義はほうきを動かしながら、穏やかに答えた。
「俺自身、水鏡さんに楽しく過ごしてもらいたいと思ってるから、いいんだよ。まだこの学校に来て間もないし、体調を崩してクラスに馴染むタイミングを失くしたら、気の毒だろ」
「ロボットだから、馴染むとか馴染まないとか、気にしないんじゃないか?」
正義は苦笑した。
「どうだろう。姫野さんが言うには、俺は女の子の気持ちがわからない男らしいからな。人間の気持ちがわからないのに、ロボットの気持ちなんてわかるわけがないし……俺が思う最善のことをするよ」
友人たちは顔を見合わせ、ため息をついた。
「お前、割といい奴だよな……」
正義は照れたように笑い、掃除を続けた。
その日の放課後、校門を出ると、街路樹の影が長く伸びていた。
夕暮れの街は、車のライトがちらほらと灯り始め、少し肌寒い風が吹いていた。
正義は、いつものように掃除役としてクラスメイトたちとカラオケボックスへ向かっていた。
映子は制服のスカートを揺らしながら、静かに歩いている。
その横顔は、街灯の光を受けて淡く照らされていた。
道中、前を歩いていた男子が、突然、柄の悪い大男に怒鳴りつけられた。
「おい、ぶつかっておいて謝りもしねえのか」
男子は震えながら後ずさる。
大男の拳が振り下ろされたその瞬間、映子が二人の間に割って入り、拳を細い片手で受け止めた。
周囲が息を呑む。
「なんだ、このガキ!!」
大男は怒りに任せて次々と殴りかかるが、映子はすべてを払いのけた。
その動きは滑らかで、まるで訓練された兵士のようだった。
「精密機械だから、衝撃を与えちゃダメなんだ」
正義は教師の言葉を思い出し、慌てて大男に抱きつき、必死に止めようとした。
「すみません、彼女は繊細な子で……これ以上は勘弁してあげてください」
大男は怒鳴る。
「ふざけんな! ここまでコケにされて終わらせられるかよ!」
正義は震える声で叫んだ。
「気持ちが収まらないなら、この財布の中の、俺の全財産を納めますから! どうか許してあげてください!」
「いくらだ……?」
「千百円ほどは、入っています!」
「その程度で許せるわけねえだろ!!」
「高校生の小遣いなので! これから半月間俺が日中飲み物を買えなくなって苦しむ刑を負います! それで許してください!!」
正義は路上で土下座した。
大男は舌打ちし、正義を蹴ろうと足を上げる。
だが、その脚を映子が素早く掴んだ。
「またお前か……」
正義は叫ぶ。
「水鏡さん、下がって! 俺のことはいいから!」
「正義さん、私のことなら気にしないでください。この程度、問題ありません」
「でも、殴られたりしたら……」
映子は淡々と言った。
「私は国内における他国工作員との戦闘や、彼らの暗殺のために作られたタイプです。一般人に後れを取ることはありませんし、多少殴られても壊れません」
「え……」
その言葉に、大男もクラスの皆も動きを止めた。
映子は大男を見据え、静かに歩き出す。
「この男の処理は任せてください。デートを装って二人きりになり、息の根を止めます。死体は見つかりません。初めての実地訓練ですが、やり遂げて見せます」
大男は青ざめ、クラスメイトたちは凍りついた。
そのとき、巡回中の警察官が駆けつけ、事態は収まった。
翌日の朝、教師はスーツ姿の無表情な男を伴って教室に入ってきた。
「昨日のことは口外しないように。口外した生徒とその家族の将来は、保証できない」
男は自らを内閣府の職員と名乗り、生徒たちに淡々と告げた。
「彼女には特別な任務があり、人間と仲良くなる技術を身に着ける必要がある。これまで通りに接し、高校生としての日常の過ごし方を教えてあげてくれ」
男が去って行った後、昨日までと違って、生徒たちの態度はぎこちなかった。
映子の周囲には、以前のような賑わいはない。
映子は窓の外を見つめ、どこか寂しげだった。
正義はその横顔を見て、席を立った。
「このクラスには伝統的な行事というか、風物詩のようなものがあってな」
映子は首を傾げる。
「風物詩……?」
正義は笑った。
「クラスの女子が俺に告白して、何度騙せるか、どんなリアクションを引き出せるかを楽しむんだ」
映子は目を瞬かせる。
「正義さんは、何度も騙されているんですか?」
「ああ。数え切れないくらいにな。人間は期待した展開になると、あっさりと騙されるんだ。仲良くしたかった転入生が、想像と違って怖い人だったのかもしれないと思って、つい距離を取ってしまっても……怖い人じゃない、面白い人だと伝えられれば、また仲良くしたいと思うはずだ」
正義は肩をすくめた。
「だから、俺にもう一度告白して、何でも言うことを聞く彼氏としてお付き合いに至るにはどうしたらいいか、クラスの女子に相談してみるといい」
映子は不安そうに尋ねる。
「正義さんは、嫌じゃないんですか? 私の利益のために、正義さんを利用することになります」
「たまに傷つくことはあるけど、俺にとってもチャンスだと思ってるから、気にしないでくれ。冗談で告白して付き合うことになって、本当に俺のこと好きになってくれる子がいるかもしれないだろ?」
映子は小さく頷いた。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」
映子は女子たちの輪へ向かって歩いていく。
声をかけると、女子たちは一瞬驚いたが、すぐに笑い声を上げ、映子の肩を叩きながらあれこれと助言を始めた。
映子の表情には、再び明るさが戻っていた。
翌日の放課後、校舎裏は夕陽に染まり、地面が淡い橙色に染め上げられていた。
風が少し強く、木々の葉がさらさらと揺れている。
その静かな空間に、正義と映子が向かい合って立っていた。
映子は制服の裾をそっと押さえながら、真剣な眼差しで正義を見つめる。
その黒い瞳は、昨日までよりもずっと強い意志を宿していた。
周囲には、噂を聞きつけた生徒たちが集まっていた。
映子は深く息を吸い、はっきりと言った。
「正義さん、改めてお伝えします。私と付き合ってください。私にはあなたが必要なんです」
「水鏡さんのような子にそう言ってもらえるなんて、光栄だよ。でも、前にも言った通り、俺は結婚を前提としたお付き合いしか考えられないんだ」
「確かに私はアンドロイドなので、婚姻届は受理されず、法律上の結婚はできません。しかし、事実婚という選択肢があります。愛し合っていれば、生涯を共にするという気持ちがあれば、形式にこだわる必要はないはずです」
正義は視線を落とし、弱く笑った。
「俺は異性にもてないから、ちゃんと籍を入れておかないと、結婚相手に逃げられてしまいそうで不安なんだよ」
映子は必死に訴える。
「私は絶対にあなたの傍を離れません! だから……私と、事実婚を前提に付き合ってください!」
「ありがとう。そう言ってもらえて、すごく嬉しい。けど……」
正義は頷くことなく、沈黙が流れる。
映子は不安に駆られたように叫んだ。
「……法律婚ができないことを理由にしていますが、本当は私に不満があって、それで断っているんですか? 不満があるなら直すので、遠慮なく言ってください!」
「水鏡さんは、まだ会って少ししか経ってないけど、いい子だし、不満なんてないよ」
「やはり私がアンドロイドだから……エッチができないからダメなんですか!?」
その瞬間、観衆が一斉に騒ぎ出した。
「体か! 狭間、お前結局体目当てだったのか!」
「ふざけんな! 水鏡さんが可哀想だろ!!」
「不潔よ! 狭間君最低!!」
正義は両手を振り上げ、必死に否定した。
「違う! 体目当てなんかじゃない!!」
観衆と映子に向けて、正義は大きく息を吸い、言葉を絞り出した。
「俺は何もいいところが無いし、水鏡さんみたいな素敵な子とは釣り合ってない。それはみんなわかってるはずだ。そんな俺に水鏡さんが好意を抱いてくれたのは、アンドロイドにとって過ごしやすい環境を用意することができるから……その一点に尽きるだろう」
映子は目を見開いた。
「正義さん……」
正義は続けた。
「そういう風に水鏡さんがプログラムされているんだとしたら、たまたま掃除をしていただけで選んでもらうのは、申し訳なく思うんだ。世の中には俺よりずっとカッコいい、掃除も得意な男がいる。だから、もっと色々な人を知って、水鏡さんに釣り合う人と付き合って……それで、幸せになってほしいんだよ」
映子はふっと微笑んだ。
その笑顔は、どこか人間らしい温かさを帯びていた。
「確かに私は、自分の任務遂行の助けとなる人間に好意を持つよう、プログラムされています。それが自分の利益になるからですが、その点は人間も変わらないと思っています」
正義は困ったように笑みを浮かべた。
「まあ、好みっていうのは、自分の利益になるかどうか……という考えもあるかも知れないな」
映子は静かに続けた。
「一方、私は先日、本来言ってはいけないのに、私が製造された理由を人前で言ってしまいました。これは一切私の利益にはならないことですが、あなたを守らなければいけないと思うと、ああして威嚇をするのを止めることができませんでした」
「内閣府の人、怒ってたもんな。ありがとう、危険を顧みずに俺のことを守ってくれて。あの後、怒られただろ」
「はい。でも、後悔はしていません。あの時私は、罰せられる可能性をわかっていながら、利害を無視した行動をしました。これはバグに近いことで……理由は私もわからないのですが、それだけあなたのことを好ましく感じたからだと思っています」
映子はそっと正義の手を取った。
その手は温かく、機械らしさを感じさせなかった。
「自信を持ってください。私はアンドロイドなので、本当の意味では人の気持ちはわかりませんが……私の人格データを作る元になった人格は存在します。あなたは優しくて、いつも最善を尽くそうとしてくれて……そんなあなたを好きになる人が必ずいるはずです」
「……そんなふうに言われたの、初めてだよ。俺なんかに、そこまで言ってくれるなんて……」
「私はあなたが好きです。私は人間のようにあなたの全ての望みには応えられませんが、結婚を前提にお付き合いいただけないでしょうか?」
正義はゆっくりと頷いた。
「ありがとう。君のような子に好きになってもらえたなら、誇らしいよ。結婚を前提に付き合おう」
映子は念を押すように言った。
「繰り返しになりますが、エッチなことはできません。いいですか?」
正義は笑った。
「いいよ。今こうして話していて、すごく嬉しいし、落ち着くんだ。この先ずっと二人で生きていけたら、きっと幸せだと思う」
映子は表情を輝かせ、正義に抱きついた。
「ありがとうございます! 一緒に幸せになりましょう!!」
観衆から盛大な拍手が起こった。
翌朝、映子の席に彼女の姿はなかった。
教師が前に立ち、静かに告げる。
「水鏡さんは、任務で転校することになった」
正義は机に突っ伏し、声にならない嘆きを漏らした。
クラスメイトたちも、誰一人笑わなかった。
「まあ待ちなさい。水鏡さんと入れ替わりで、転校生がいるから紹介しよう」
扉が開き、一人の少女が入ってきた。
映子とそっくりの顔立ちだが、髪色だけが淡い色に変わっている。
「水無鏡花です。よろしくお願いします」
正義は震える声で尋ねた。
「水鏡さんの……姉妹か親戚ですか?」
鏡花は柔らかく微笑んだ。
「製作者です。映子は私がプログラムを担当しました。海外の大学を飛び級で卒業し、巷では天才プログラマーと言われていますが、この度社会経験のために、日本の高校で学ばせていただくことになりました。年齢は皆さんと同じですので、鏡花とお呼びください」
正義は身を乗り出す。
「製作者……水鏡さんは、無事なんですか? 俺たちを守ったせいで罰せられたんだとしたら、ちゃんと状況を説明すればわかってもらえると思うんで、内閣府の方と話をさせてください」
鏡花は嬉しそうに笑った。
「ありがとう、あの子を心配してくれて。大丈夫よ、正義さん。あなたの住む国を守るんだって、やる気満々で任務に就いてるわ」
正義は胸を撫で下ろした。
「無事ならよかった……」
「映子に会えなくなって、寂しい?」
「それはまあ。クラスメイトだし、結婚を前提にお付き合いすることになったばかりだし……」
「また会いたい?」
「会えるなら会いたい」
「よかったわ。ところで、あの子の人格データには、元となった人格があることは聞いているわよね?」
鏡花は一歩近づき、言葉を続けた。
「その元になった人格は、私の人格なのよ。あの子の目を通して、あなたのことをずっと見ていたわ。これからよろしくね、婚約者さん」
正義は固まった。
「え……? それはどういう……」
「あの子の人格は私の人格に、暗殺と潜入工作の知識と技術を加えて作られたの。基本的に映子と私は同じ……映子の好みは私の好みなのよ。あなたを幸せにすることで、映子とはちゃんと話がついているから、浮気にはならないわ。安心してちょうだい」
正義が戸惑っていると、鏡花は映子と同じようにその手を取った。
「一緒に幸せになりましょう。これも映子から聞いているとは思うけれど、変なことは無しよ。古臭いかもしれないけど、結婚するまでそういうのは一切してはいけないと、私は考えているので」
「あ、うん……それは構わないんだけど、突然すぎて理解が追い付かなくて……」
鏡花は少し目を細めた。
「まさか、アンドロイドから人間になったからって、好みじゃなくなったとは言わないでしょうね? 中身は同じよ? 結局あなたも外側が大事だと言うなら、軽蔑するわ」
正義は慌てて首を振った。
「いや、水無さんが水鏡さんと同じだって言うなら……きっと俺も好きだと思う。これからよろしく」
鏡花は満足そうに微笑んだ。




