現着
鼻を突くのはむせ返るほどの潮の香りと、微かに混ざった消毒液の匂いだった。
アミは仄暗い部屋で、曖昧になっていた意識を取り戻す。
「うっ……」
うだる頭をそっと抱えながら、彼女は辺りを見回した。
ここは病室か何かだろうか? 自身が寝かされていたベッドと、投棄されたであろう電子機器の残骸から、それを推し量ることが出来た。
しかし、自信があるわけではない。
足元は浸水し、無数のフジツボが張っている。白かったであろう壁も薄汚れ、病室特有の清潔感や無機質なんて、当の昔に損なわれているのだ。
「だけど、やっぱり私はこの場所を知っている……ここは……」
頭の奥がジンと痛んだ。一度失われた記憶が彼女の中からも溢れだす。
自分の異質な体質と、その要因も。
忘れていた名前と、自分自身の正体も。
それら、すべてを思い出した────
「私は……」
「貴女の名前は、ブループリンセス」
軋むような音を立て、向かいの鉄扉が開く。その向こうに立っていたのは、白い仮面をつけた、あの少女だ。
無機質な仮面とボロ布を羽織る姿は相変わらず死神じみている。それでも、彼女をよく知っていた自分には恐怖を感じることができなかった。
「ホワイトエッジ」
口に出して初めて、アミは彼女の名前を呼び慣れていたことを自覚した。記憶を失う前の自分は頻繁に彼女の名前を呼んで、たくさん言葉を交わして来たのだ。
自分を合わせた十三人の生き残りたちと。海の底へと沈んだこの研究の跡地で「いつかは助けが来る」と、そうやって励まし合った十年分の時間をアミは思い出す。
その様子を察したのか、ホワイトエッジの雰囲気が柔らいだ。
「よかったよ、心配していたんだからな」
仮面で表情が見えずとも、彼女はきっと安堵しているのだろう。
「その様子だと、混濁していた記憶も元に戻ったようね」
けれど、アミは、そっと胸を撫で下ろす彼女を睨んだ。
「何が……何が良かったんですかッ! 貴女は自分がどれだけ酷いことをしたかわかってないじゃないッ!」
首を絞め落とされて、朦朧とする意識の中でも彼女は覚えている。ホワイトエッジが鋼助たちにしたことを。
あの時、刃を剥いた彼女は殺意を隠そうともしなかった。自分を追って来た蛍に重傷を負わせた時のように。もしも何かが一つ食い違っていれば、彼女は容赦なく誰かを切り捨てていただろう。
「私はただ貴女を助けようとしただけよ。その障害を排除しただけで」
「だとしても、どうして鋼助さんや蛍さんを傷つけたんですッ! 皆さんは……第六の皆さんは私を助けてくれると、きっと私たちのことも助けてくれるような優しい人たちだった! それを貴女はッ!」
沸き立つ感情をそのままホワイト・エッジへとぶつけた。声を必死に絞り出したアミの瞳は涙で揺れている。
「……なら、貴女は本当にあの連中が私たちを救ってくれると思っていたのか?」
今度はホワイトエッジが質問をぶつける。
「仮に私たちが記憶を取り戻し、全てを打ち明けたとして。────それで彼らは本当に私たちを救ってくれる?」
「そんなの、決まっていますッ! 鋼助さん達は私のことを助けてくれたんですよッ!」
────けど、それは彼らが貴女の正体を知らなかったからでしょう?
ホワイトエッジがそっと仮面を外してみせる。
「私の顔を貴女に見せるのは、これが初めてね。きっと貴女も私が仮面をつける理由を、レッドハンマーみたいに手術の古傷を隠している程度のものだと思ってたんでしょ」
彼女の顔には大きな傷も、縫い痕もない。
それでも、その顔に絶句してしまった。
「ウソ……その顔は……」
「しっー」
人差し指を立てて。ホワイトエッジは、それをアミの唇へと押し当てる。
「私は誰よりも自分が忌むべき存在であることを自覚しているの。もう助けが来ないことだって、本当は分かってた」
生命倫理を無視するような人体改造の研究と、その果てに生まれた因子持ち。そのどちらもが、十年前に暗闇へと葬られたはずのものだった。
「私たちの存在が明るみになれば、必ず不都合になる人たちがいる」
この暗い海の底で「助けが来る」と励まし合うことは事態には、ホワイトエッジも賛成だ。希望という小さな光でもなければ、自分たちは深淵の底で正気を保つことさえできないだろうから。
ただ、それと同時に彼女はもっと強い自覚を持てと言いたいのだろう。
「いいかしら、ブループリンセス? 私たちは助かっちゃいけないの」
炎のように紅く燃えたぎる瞳に対し、そこに映るのは「諦念」である。
彼女は外した仮面を付け直し、幽鬼のように佇んだ。
「それでも……!」
アミは唇をキツく結ぶ。
「それでも鋼助さんたちはきっと助けに来てくれます! 彼は約束してくれたんですッ!!」
────彼女が助けを求めてくれるのなら、俺はそれに全力で応えたいッ!
彼がそう誓ってくれたことを、アミは忘れない。
「……約束。……本当にそんなものを守ってもらえると思ってるの?」
「えぇ。彼はきっとここに来てくれます」
自分がこの暗い海の底を飛び出して、誰かに助けを求めようとしたことが無駄ではなかったことを、アミは確信していた。
初めて鋼助たちと出会った時のように。彼らはきっと自分の声を聞き逃しはしない。
「私はここにいますッッ!! 助けて下さいッ!!」
「無駄よ。そんな声が届くわけ、」
何かを殴りつけたかのような轟音が、ホワイトエッジの言葉を遮った。
閉ざされた鉄扉を突き破り、一つのシルエットが飛び込んできた。一対のブレードを両腕から発現させたそれは、アミを庇うように抱き抱え、ホワイトエッジと対峙する。
「〈特務海上保安庁〉第六救助隊ッ! 玄野鋼助、現着しましたッッ!!」




