イルカな彼女
姉崎白江────ベース因子・坂東海豚。
彼女の正体は、第六救助隊に所属することが決定した玄野鋼助を随時監視するための密偵であった。
鋼助を監視役に求められる能力は二つ。
一つは優れた医療知識。Reデザイン計画によって弄り回された鋼助の肉体構造は一般人や、〈EXD手術〉を受けた隊員とも大きく異なっている。それを本人に悟られることなく、カルテを偽造し、言いくるめるための能力だ。
そして、もう一つは船内活動において常に鋼助を監視できるか。長期間に渡り、一瞬たりとも鋼助から目を離さずにいられる能力があるかだ。
姉崎が受けた〈EXD手術〉は、一般的な隊員と異なり人命救助に特化したものではない。彼女の身体にかかる負担を最小限にするために、坂東海豚の遊泳能力や、エコーロケーション能力などを徹底的に排した簡易手術であった。
その結果として彼女が獲得したのは、脳の特異性。
海豚は、右脳と左脳を交互に休ませることで休眠を取る。彼女も同じように脳を片方ずつ休ませることによって、二十四時間にも及ぶ鋼助の監視体制を一人で確立するに至ったのだ。
「ごめんな。騙してて」
普段、彼女がどちらか片方の瞳を閉ざしているのは、脳の半分を休ませていたためだ。
それが今はハッキリと見開かれている。
「そんな……けど、待ってくださいよ、ドクター! 俺はReデザイン計画なんかに参加した覚えなんてありませんッ!」
「けど、鋼助はんは記憶喪失なんやろ?」
〈EXD手術〉を受けた人間の瞳がかつての海のように蒼く輝くのに対し、Reデザイン計画の被験者の瞳は、興奮すると鮮血のように紅く染まる。────その事実が、鋼助の抗議を打ち砕くのだ。
◇◇◇
鋼助の意識は、自分の中に微かに残留する記憶へと潜行していく。
事故の最中、記憶の中の少女は怯える鋼助の手を引いてくれた。ただ、本当に事故が起こったのはフェリーの船内だったのだろうか?
記憶の中にある船内の情景に華やかさはなかった。船特有の波の揺れも、エンジンの駆動音さえ聞こえない。
寧ろ、殺風景かつ病的なまでに潔癖を徹底した真っ白な通路は病院や、何らかの実験施設を思わせる。それに鼻に纏わり付いて離れない、あの消毒液の臭いは……
さらに記憶の奥深くに潜っていく。
そうすれば、次第に脳内の映像が鮮明なものへと変わっていく。
頭上にあったのは網膜を焼くほどの巨大な照明装置。手足は手術台に固定され、身動き一つ取れない。
白衣を着た大人たちにぐるりと取り囲まれ、彼らの手にしたメスが全身を切り刻む。
そして無数のガラス瓶に収められた他生物の因子を埋め込まれたんだ。
◇◇◇
「ッッ……! これが俺の記憶だっていうのかよ……!」
途端に頭の奥が痛んだ。
今、思い返した光景は全て、記憶の混濁や妄想の類ではないと断言できる。あれらは自分自身が体験したものに間違いはない。
その記憶が今、再び呼び起こされたのだ。身震いがして、湧き上がる吐き気を辛うじて押さえ込むのがやっとだった。
足元も大きくフラついた。それでも、痛む頭を押さえて目を眇める。
「けど……俺がその被験者だったとしたら、おかしいじゃないですか……」
どうして、自分だけが今ここにいるのか?
自分がアミたちと同じ、秘匿すべき計画の生き証人であるならば、何故自分だけが今まで何も知らずに、のうのうと生きていられたのか?
「それは第一の壮一さんが、君を保護して今まで庇ってくれたからやね」
玄野壮一。真っ先の鋼助の頭に浮かべたのは、自分を育ててくれた義理の父の顔だった。
「義父さんが……」
「バクテリアが漏れ出す原因になった研究所の大事故で当時の君は、海上保安庁のレスキュー隊員だった壮一さんに保護されたんや。そして君はそのまま彼に匿われる……否い、彼に監視される状態で育てられたんよ」
思い当たる節はある。
彼に引き取られてから一年の間は、事故の後遺症を確かめるためと様々な医療施設を連れ回された。そこで壮一は医療関係者とは思えない黒服たちと何かやりとりを交わしていたのだ。
「玄野隊長は、当時から優秀な隊員で人望もあったと聞いているわ。それこそ多少強引な手を使える程度には」
それに政府は、計画の全てを隠蔽すべく躍起になっていた。それで自分の始末までは、手を回していられなかったのだろう。
壮一はそんな状況を利用し、持てるコネを使い果たした。だから、自分一人程度なら匿うことが出来たという訳か。
「……次の質問です、ドクター」
「お義父さんの話はもうええんか」
いくら姉崎でも、壮一の深層心理までは知り得ないだろう。
それに鋼助には、まだ優先すべき質問が残されているんだ。
「ドクター姉崎。……それで、結局、貴方は俺たちの敵ですか? 味方ですか?」
すると、彼女の唇にうっすらとした笑みが浮かぶ。
「いやいや……どう考えたって敵に決まってるやろ! ウチは君を監視するために政府が送りつけた密偵なんやで! 正真正銘の裏切りもん。小賢いスパイや!」
アミを保護してから、上層部はすぐに彼女の身柄を要求し、監査まで実施した。
事態がそれだけ迅速に動くためには、全ての事情を知る密告者の存在が不可欠なのだ。
「アミちゃんが計画の被験者だってことも、ウチならちょっと調べるだけで、すぐわかったからな」
ただ、こちらには最大の疑念が残されている。
「だったら、ドクターはどうして俺に、ここまで隠し通していた真実を明かしたんです?」
それこそが鋼助の抱く、最大の疑問であった。
ハッキリと言ってしまうのならば、密偵としての彼女は完璧に限りなく近い。「ドクター姉崎」という役柄を演じ、その真実を誰にも悟らせなかった。
ただ────だからこそ今の両目を開いた彼女が、不自然に映るのだ。
「ドクターさえ黙っていれば全部が丸くとは言わずとも、事は波も立たずに片付いていたはずです。なのに貴方はどうして、俺たちに真実を教えてくれたんですか?」
「はは。それは……怖くなっちゃったってのが一番それっぽい理由になるんやないかな」
姉崎は静かに瞳を伏せて、そして嘲るように自分を嗤った。
「ウチは密偵として雇われた人間やけど、正直お国がどうこうなんて忠義はなかった。強いていうのなら多額の報酬に目が眩んだのと、今は凍結された人体改造計画の被験者に対して好奇心を突き動かされたどうしようもないロクでなしや」
彼女の両肩が小さく震えていた。
「せやけど、君やアミちゃんを見てたら怖くなったんよ」
「俺たちをですか……」
「せやで。ウチがスパイ役に決まったとき、鋼助はんのことは人じゃないバケモノを、それこそ人間の言葉を使うだけのハイドラを監視するつもりで職務にあたれ、と言い聞かされてきた」
けれど、彼女は実際にどう思ったのだろうか?
自分やアミを見続けて。
「君は優しすぎるんよ。アミちゃんやってそうや。二人を見てると、ウチにはだんだんと自分のやっていることが正しいと思えなくなった。君たちが消されてしまう結末がどうしようもなく怖くなって、それで…………」
彼女はずっと揺れていたのだ。そうでなくては、不自然な点も一つある。
アミとショッピングモールに出向いた際。思い返せば、あのタイミングこそ、上層部が彼女の身柄を抑える一番のチャンスだったはず。
そうならなかったのは、姉崎が口を噤んでいたことに他ならない。
「どっちつかずの都合がええヤツやと思うやろ? これまで平気で皆を裏切るような真似をしてた癖に、いざとなればお涙頂戴の小噺なんて」
「……けど、それがドクターの本心なんですよね」
それならば。鋼助の伸ばした手がそっと彼女の顔に触れる。それは開かれた彼女の片方の瞳を覆い隠すように。
「うん。やっぱ、この方が違和感がないっすね」
「は……?」
「俺たちの知ってるドクターは両目を開けて悲しげな話をするような人じゃない。いつも眠たげな片目で、クソまずいコーヒーを飲んでるのが俺たちのドクター姉崎なんです」
「ちょっ、ちょっと待ってや! 何言ってるねん⁉ ウチは皆のこと騙してたんやで! 特にウチは君やアミちゃんの過去について、重要や真実をずっと隠してた。ブン殴られる言われはあれど、なんで『許してやろう』みたいな雰囲気になってんねんッ!」
他の誰よりも、姉崎自身が戸惑いを隠せなかった。
それでも鋼助は真剣そのもの。向ける言葉にも同情や怒りがまるで込められていなかった。
「……正直、俺も怖かったんですよ」
アミを助けると決めたとき。本当は彼女の方が危険人物なのではないか? という疑いが拭えなかった訳じゃない。それで周りを巻き込むのが怖かった。
レッドハンマーとの交戦で自分の力に制御が効かなくなったとき。自分自身がまるで違う何かに変わってしまうような。そんな感覚に身震いがした。
蛍が重傷を負ったときも。姉崎の様子がおかしかったときだって。そのどれもが堪らなく怖かった。
「けど、ドクターが全部を打ち明けてくれて、分からなかったことを知れたから……俺の中にあった不安や疑いも全部、吹っ切れたような気がしたんです」
うっすらと登り始めた陽光が、鋼助の瞳に映る真っ直ぐな覚悟を照らし出した。
「俺はアミさんを助けに行きます。いや、それだけじゃない。────他のRe計画の被験者も全員保護します。『殺処分』なんて、そんなふざけたこと、絶対にさせませんから」
拳をキツく握りしめた。
その手は助けを求める誰かに、差し伸ばすための手だ。
「ドクター姉崎。もう一度聞きます────貴方は俺たちの敵ですか? それとも、また俺たちの味方をしてくれますか?」




