記憶の水底
玄野鋼助の記憶からは、七歳以前のものがほとんど欠落している────
それは奇しくも汚染海域の発生と同じ年、鋼助が乗り合わせたクルーズ船は転覆事故に遭った。千人以上の犠牲者を出した大事故だ。
鋼助の記憶の欠落だって、その事故に起因する。何かの拍子に頭を強く打ち付けたのだろう。その衝撃で救助隊に保護される以前の記憶がほとんど抜け落ちてしまった。
当時、夢中になっていたはずのゲームや漫画のことも。友人や両親のことさえ思い出せない。
それでも、だ。空っぽに近い状態の記憶のなか、辛うじて覚えていることだってある。
自らの名前が「コースケ」であること。
事故の最中、怯えることしか出来ない自分の手を、一人の女の子が引いてくれたこと。
その子に「必ず助けるから」と約束をしたこと。
そして、鼻に纏わりついて離れないのは、むせ返るような潮の匂いと、その奥を刺すようなツンとした消毒液の匂い。
◇◇◇
「────ッッ!」
鋼助は微睡から跳ね起きる。
エンジン音がしないことと、舷窓から見える街並みからして、〈こんぺき〉はどこかの港に停泊しているのであろう。
腕には細い管が一本伸びていて、ちょうど姉崎がそれに繋がったパックを交換しようとしている真っ最中であった。
彼女は相変わらず片目を閉ざしたまま、眠そうな様子だ。
「お、なんかデジャブな起き方やね。いま、新しい点滴に変えようとしてたところなんやけど」
ここは彼女の医務室であろう。鋼助の身体はそこのベッドに寝かされていた。
とても気分がいいだなんて言えるような状態ではない。だが、あの頭痛から来るものではなく、どんよりと絡みつく気怠さからであった。
いや、今はそんなことどうだって良い。
「あの子は……俺が助けた、あの子はどうなったんです!」
飛び起きて早々、鋼助は噛み付くような迫力で問い詰めた。
「ちょっ、ちょっ! まずは落ち着きなさいな!」
姉崎は人差し指を立てて、「静かに!」とジェスチャーを交える。
「さっきまで、あっちの廊下の辺りを蛍ちゃんがウロウロしてたんよ。鋼助はんが隊務規定を破ったこと、あとはその他諸々のことで、今、ヤカンみたいにカンカンやからなぁ……多分、あの様子やと、病み上がりとか関係なしにお説教コースやで」
「蛍隊員を怒らせるべからず」それは第六救助隊に入ってから、すぐに他の先輩たちから教わった鉄則でもあった。
鋼助の顔色がさっーと青ざめてゆく。
「というかウチやって、オコオコプンプンなんやからな。あの時、制止も聞いてくれんで飛び出したこと」
「うぐっ……その件につきましては。なんと謝罪をすればよろしいのやら……」
「まぁ、けど、こうやって戻ってきたんやし勘弁したる、それに、ちょっとお隣さんを見てみ」
「隣……ですか?」
姉崎が促されるまま、鋼助も静かに隣のベッドを覗き込む。
そこに横たわるのは、自らが助け出したあの少女であった。
彼女のか細い腕には鋼助と同様に点滴のチューブこそ繋がれているが、ハイドラの中から見つかった時と同様にスヤスヤと寝息を立てている。
「な。静かにしとる方がええやろ?」
彼女は鋼助と同い歳程度であろうか。純金を溶かしたような煌びやかかつ、きめ細やかなブロンドヘアーに、日本人離れした顔立ち。まるで絵本の中の眠り姫のような少女でもあった。
「……この子、容態は?」
「大きな怪我はナシ。脈拍、呼吸共に安定。なんならちょっと前まで起きとったんやで。だから、そんな不安そうな顔するもんやないで」
そう指摘されて初めて、自分がどれだけ情けない顔をしていたか自覚する。押し迫る不安から解放された安堵感に、全身の力が抜けてしまった。
「よ……よかったぁ……」
ヘナヘナとベッドに横たわりながらも、鋼助はもう一度彼女の顔を覗き見る。
ロブスター型に船を襲われる最中、鋼助の頭に反響する「助けて」という声。何故だか、鋼助にはあの声が隣で眠る少女のものであるという確信があった。
それにあの声は────
「ドクター。この子の声はどんな感じでしたか?」
「声? えっーと……普通に女の子の可愛らしい声やったで。ウチに比べたら、やや高いかな? けど、藪から棒に変な質問やね」
「それは……なんと言えばいいんでしょうかね。実はあの時、頭が割れるように痛くって、それでも頭の中で、この子の声がしたような気がしたんです。それでその声は……」
鋼助の記憶は、七歳以前のものが欠落している。
微かに残った記憶にも、映画やアニメで見たようなワンシーンとの混濁が見られ、医師からはあまり信用のならない物である」と診断を受けた。────それでも、頭の中に響いた声は、記憶の中に残された声とも重なって聞こえたのだ。
「昔……俺はクルーズ船の事故に遭ったんです。よくは覚えていませんが、頭の中に響いた声は、その時俺を助けてくれた女の子とも同じ声をしていたんですよ」
「うん。ちょっと、待ってや……全然、意味がわからんのやけど……」
姉崎が困惑したような顔をするのも無理はない。
鋼助の話を順に整理していくと『頭の中で聞こえた声=隣で眠る少女の声=子供の頃の事故で鋼助を助けてくれた女の子の声』という、なんとも奇妙な図式が出来上がるのだ。
頭の中で声がするという症状の時点で、医師である姉崎からは不可思議な現象だ。それに輪をかけて鋼助の主張が事を難しくしている。
「えっと、つまり……鋼助はんは、隣で眠っているこの子と、昔どっかで会ってるかもって言いたいのか?」
「整理していくと、そういうことになりますね」
「んー……それはちょっと早計やないかな? 声が似てるだけってパターンやってあるわけやし。雰囲気とかはどうなんや? この子と記憶の中の女の子が似とるとか?」
「それは……」
鋼助は改めて、自らの頼りない記憶に立ち返る。
記憶の中の女の子もどこか、日本人離れした顔立ちをしていたような気がしなくもない。彼女がそのまま成長すれば、隣で眠る少女のような顔立ちになっていたとしても違和感はなかった。
だが、
「確かに顔は似ています……ただ、髪の色が違います」
鋼助の記憶の中の女の子は、透き通るような銀の髪をしていた。
これは間違いではない。見慣れない銀髪は鋼助にとって、それだけ印象深い要素でもあった。なにより。あの事故で彼女を瓦礫の下に置き去りにしてしまったのは、他の誰でもない鋼助自身なのだ。
「……すいません。やっぱり、この話は忘れてください。多分、他人の空似ってやつだと」
「別に構わへんけど……ウチはやっぱり鋼助はんの頭痛の方が気になるな。もし似たような頭痛が何度も再発するようなら、今後の勤務にも支障がでるやろうし。それに────」
姉崎は開いた片方の瞳で、鋼助の顔を覗き込む。
「結局、あの力は何なんやったの? 鋼助はんは〈EXD因子〉を持っていなかった筈や。なのに、両腕や踵からトビウオみたいなブレード状のヒレを発現させた。いや……それだけやなかったね。ウチも映像記録を確認させてもらったけど、あれだけの跳躍を可能とするのは飛魚の能力だけじゃない。差し詰め、クロマグロ辺りの海水魚か」
「それは……」
またしても言葉に詰まった。
不安げに自らの両腕へと視線を落とす。自らの身体に埋め込まれたであろう二種類の生物の因子。運用法を無意識下でこそ知っていても、その詳細は鋼助自身にもわからないものだった。
「俺にも全くの心当たりが。咄嗟に、なんだか使えるような気がして、それで」
「それで、イケると思ったら実際にイケちゃったつーわけか。ふむ……何やそれ⁉ 何もわからへんやん! 完璧にお手上げやん!」
姉崎が両手を宙へと放る。
通常〈EXD因子〉を二つ以上埋め込むことは不可能と言われている。複数の因子に肉体の方が適応できず、食い潰されてしまうのだ。
鋼助の証言だけが、その詳細を知る唯一の手掛かりであったのだろう。彼女は悔しげに寝癖混じりな髪を掻きむしった。
「うぐぐっ……天才と謳われたこのウチにさえ、分からないことがあるなんて、我慢ならへんッ!」
「ちょっ! ドクター、落ち着いて。この子、起きちゃいますから……ね?」
「そもそも鋼助はんのソレは、ウチらの知る〈EXD手術〉やないかも知れへんのやで!」
「〈EXD〉じゃない……?」
首を傾げる鋼助に対し、姉崎が説明を付け加える。
「瞳が青じゃなくて、赤色になったこと。因子を複数個埋め込まれたこと。他にもツッコミどころは色々あるけど、一番はその再生力や。もう一回、自分の両腕をよーく見てみ」
そう言われて、鋼助もようやっと自分の身体の違和感に気づいた。
そうだ────この両腕はボロボロに折れていたはず。
しかし、今はそれが綺麗に完治している。脚だって同様にそうだろう。折れた骨が内から肉を貫き、おかしな方向へ捻じ曲がったせいで皮膚まで裂けるほどの重体だったはずなのに。
通常の〈EXD因子〉にも多少の再生力は備わっている。しかしそれも、因子のベースとなる生物によっては、せいぜいが傷の治りが早まる程度のものだ。鋼助の身体のように全身のダメージを即座に再生するような超常的なものでない。
「出血量や皆の焦り様から見ても、君はあの場で死んでいてもおかしくないような大怪我やった。良くてもデッカい病院の集中治療室送りやろうな。それが医務室のベッドで点滴に繋がるだけで済んでも、その驚異的な再生力はわかるやろ?」
次いで姉崎は、隣で眠る少女へも視線を移す。
「驚異的なのはこの子もやね。この子も手術を受けた形跡は見られなかった。それなのに、この子は全くというほどバクテリアの影響を受けてないんや。あそこまで、ハイドラの傍にいたってのに。普通なら、こんなことありえへん。なぁ、鋼助はん────君ら二人、一体なんなん?」
姉崎の投げかける問いは、至極当然のものだろう。
だが、鋼助はその答えを持ち合わせていなかった。
「……わかりません」
「……ちょっと意地悪な質問やったね。ふわぁぁ」
大きな欠伸。彼女は危うい足取りで、そのままフラフラと壁にもたれ掛かってしまった。
「ド、ドクター⁉」
「うぅ……あかん。……君ら二人のことが気になりすぎて色々調べてたら、寝るのを忘れてたんよ。まだ仕事も残ってるのに」
「いや、それなら休んでくださいよ!!」
鋼助はすかさず、今にも眠りこけてしまいそうな姉崎を支えた。
彼女をデスクへと腰掛けさせ、一息ついたところで、鋼助はふと背中に寒いものを覚える。
「へぇ……新人くん、目が覚めたんだ」
聞き覚えのある、何度も自分を叱りつけた声がする。
背後で扉の開く音に、恐る恐る振り返れば、額の傷に大きな絆創膏を貼り付けた蛍の姿があった。
「ほ……蛍先輩……」
青筋の走るその表情は「逃がさない」と言いたげで。一歩、また一歩と鋼助との間合いを詰める。
「えいッ!」
眉間の辺りがジンと痛む。彼女の指先から放たれたのはデコピンであった。
普段の彼女を知る身としては、お仕置きが少し甘いような気がする。
「え……」
「ん? なにを呆けた顔をしているのよ」
「いや……あれだけ怒ってたから、ヘッドロックくらいは覚悟してたんですが……」
「ふーん。なるほどねぇ、君が普段の私をどう思っているかよくわかったわよ」
蛍はムスっと頬を膨らませたが、それも一瞬のことで、すぐに溜息を吐き戻した。
「隊務規定違反にバカみたいな無茶……だけど、新人くんはちゃんと、その子を助け出したんだもんね。だから、ヘッドロックは勘弁してあげる」
「やっぱりやる気だったんじゃないですか! というか勘弁してくれるならデコピンをする必要だってないでしょ!」
「それは……」
珍しく蛍の口調が詰まった。恥ずかしげに顔を逸らして「心配してたんだもん」と零す。
「ん……なんか言いましたか?」
「な、何も言ってないわよッ!」
キッと鋼助を睨んで、誤魔化すように声を張る。
「とにかく君もなるべく早く、訓練に復帰しなさい! そのよくわからない力も使いこなしてもらわなくちゃ、困るから! それに、」
「それに?」
「それに………実はいま、ちょっときな臭いことになっているのよ」




