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逃避行

 廊下には退避を促すアナウンスと、不気味なサイレンだけが鳴り響いていた。照明が落ちきっているために、一定間隔に配置された避難誘導灯だけが二人の頼りだ。────


 果ても見えない廊下を、入院着姿の男女がひた走る。まだ年端もいかないような少年の手を引くのは、同い歳くらいの少女だった。名前も知らない彼女は、白銀色の髪に赤い瞳をしている。


「急いで!」


 施設内は時折、大きく揺れる。それは幼い二人の身体を弄ぶのに充分すぎるものだ。


 足がもつれた少年は、床に身体を打ち付ける。ぶつかった鼻先からは、熱を持った痛みと共にポタポタと血が垂れた。


 痛いのは嫌いだ。


 もうこれ以上、走りたくない。


「大丈夫……君? 立てる……?」


 名前も知らない彼女が、少年を覗き込む。


「あの子たちが暴れている隙に、こんなところからは逃げなくちゃ。もうあそこには……あんな部屋には戻りたくないから」


 それは自分も同じだ。ツンとした匂いが鼻を刺すあの部屋に戻るくらいなら、ここで死んだ方がマシとさえ思えた。


「ほら、立って!」


 恐る恐る少年が手を差し出すと、彼女はそれを強く掴んだ。その痩せ細った身体のどこにそんな力があったのかと思うほど、力強く手を引かれる。


 思い切り引かれた腕は千切れそうなほど痛かった。それでも少年は唇を噛んでジッと、涙を堪える。


 彼女だって泣き出すのを我慢しているのだ。だから、少年も泣き出すわけにはいかなかった。


「君は強いんだね」


 その直後────天井に大きな亀裂が走る。轟音に次いで、小さな破片の混ざった土煙がゆっくりと頬を撫でる。


 崩れた瓦礫に潰されるかと思った。自分の小さな体を抱いて、自らの安否を確かめる。


 幸いにもケガはないけれど。


 では、彼女は? 手を引いてくれた彼女はどうなった?


 天井が崩れる直前に、誰かが自分の身体を強く押したような気がしたのだ。それに気づいた少年は、必死に土煙の中から必死に人影を探す。


「うっ……」


 か細く、消えてしまいそうな呻き声。だが、少年はそれを聞き逃さなかった。


 声の方に視線をやれば、そこに彼女の姿があった。降り注ぐ瓦礫の下敷きとなり、辛うじて半身だけを覗かせている彼女が。


「私は……大丈夫だから……逃げて」  


 嘘だ。


 少年は咄嗟に、彼女に覆い被される瓦礫を退かそうとした。それでも子供一人が絞り出せる力なんてたかが知れている。どれだけ力を引き絞ろうとも瓦礫は動かない。


「私は大丈夫だからッ! 君は早く逃げてッ!」


 彼女がもう一度、今度は大きな声を張った。


「ねぇ、君……名前は?」


「え……」


「君の名前……私に教えてよ」


「……コースケ」


 彼女は数度、その名前を反芻する。


「コースケ。コースケ。……うん。コースケは逃げて。私は本当に大丈夫だから」


 施設全体がまた大きく揺れた。次にいつ天井が崩れたとしても、おかしくはない。


「はやく!」


 その声に弾かれたように、少年は踵を返した。


 瞳に溜まった涙を何度も強く拭って、がむしゃらに走り出す。時折、彼女の方を振り返り、何度だって声を張った。


「必ず助けるから! 必ず助けに戻るからッ!」


 動悸が荒い。走りながら大声を出したせいで声が掠れた。何度も転んで、それでも少年は這いずるように進もうとする。


 どろりと────その足元は粘着質を帯び、〝銀色〟に濁る海水がまとわりついた。


 さっきの亀裂から施設外の水が流れ込んできたのだろう。むせ返るほどの潮の匂いが纏わりついて離れない。


 施設の沈没までの、一〇分弱────間も無くして、少年は押し寄せる海流に呑み込まれた。

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