第5話 無限抱擁
樒は明衣とももを山鳥の屋敷に帰して明麟閣の前に立っていた。
おおよそとんでもない数の蔵書が保管されているとは思えない、池に面した小洒落た作りの建物だ。竹や楓に囲まれてひっそりとしている。
入口の前で、大きく息を吸って吐く。
心が悲鳴を上げている。いつにもまして。
ここに住み着き本を読み漁るひとがいる。彼は樒の婚約者だ。
今日はいないでほしい。きまずい。輿入れの前日に脱走したなんて。
嫌いなわけでは無いから、余計辛い。
扉を開ける。
本棚が立ち並び、中には書籍がみっちりと詰まっていた。
「毒のある鬼の記録……飛鬼は毒を持っていたっけ」
樒はぶつぶつつぶやきながら、奥の方へと進んでいった。
「飛鬼は毒など持ちませんよ」
柔らかくどこまでも優しい男性の声が降ってくる。
ああ、いやだと振り向かずにいると、後ろからやわらかく手を握りしめられた。
無理やり振り向かされる。上品な面立ちの読書の好きそうな銀髪の青年が立っている。
その瞳の色は紫。白藤宗水の一人息子である白藤宗柊。
彼は輿入れの前日に脱走した樒を責める様子もなく、静かに微笑んでいた。
「久しぶりですね。体調は少し良くはなった?」
「……」
柔らかく抱きしめられた。
相手の体温が伝わってくる。樒は抱き返しながら鬱屈としてくる。
優しく完璧な相手。周囲も祝福してくる完璧な結婚。でも樒は──。
樒も鎮守として第一線で鬼と闘っていたことがあった。卯花桜霞と名乗っていた。
本当に出来は良くなかったが、厳しい鍛錬に耐え、懸命に努力していた。
でも宗柊と結婚すると決められてから、名前を樒と変えられた。戦いにも出なくていいといわれた。飛鬼も──大した数を持っていたわけでは無いが──ももを残して全員に宗柊に譲らされた。
自分が彼に塗りつぶされていく気がした。宗柊の性格が悪かったり浮気症だったりすればかえって嫌えて良かったのかもしれないが、完璧すぎて眩しかった。
そこら辺から突如おかしくなった。川に身を投げたり。服毒してみたり。輿入れの前日に脱走したり。
目の前の彼が決して嫌いなわけではないので、誰にもこの鬱屈を説明できない。
「樒、再度の輿入れの日取りは皆で相談していますから」
「……ありがとうございます」
「そんなに気にする必要ありませんから」
「……」
「もしよければ白藤家の別邸で暮らしてもらっても。あそこは静かですから」
「だいじょうぶです」
樒は微笑んだ。宗柊から離れ、その手を握る。
「叔父上から良い療養場所を紹介していただいております」
「どうかな」
宗柊は噴き出した。噴き出し方も上品だった。
「父上はたまにおかしなことをするから」
おかしいといえばおかしい。人間の役人の家に預けられるとは思っていなかった。
樒も笑った。
「だいじょうぶですよ。よくしていただいております」
宗柊は「それはよかった」と安心したように微笑んだ。
「それにしても、災難でしたね」
「え?」
樒は目を瞬かせた。
「柳染家でのこと」
もう伝わっていたのかと白藤家の力に恐ろしくなった。本邸ではなく明麟閣に引きこもり、戦闘がなければ読書をしながら過ごしている彼のもとにも伝わるのだから。
「あ、あの、なにかご存知で」
宗柊は席を外すと自ら急須と茶器を持ってきた。茶菓子まで持ってきている。
茶を淹れながら、彼は聞いてきた。
「逆に、何があったんですか? 柳染家で鬼が出たところにあなたが居合わせたということ以外、僕は詳しいことを知らないから」
樒は素直に起こったことを話した。もともとは紫紺に鬼が出たのが発端だったこと。柳染理瑞に功績を奪われたが、彼は鬼の肉を食べたら死んでしまった。理瑞には賄賂を宗水に贈っていたという疑惑が持ち上がり、事実関係の確認のために柳染家へ向かったら宗水がいて、鬼が出た。
「療養中なのに随分と働いてますね。僕のほうが暇してるくらいだ」
「えっと……」
お茶が差し出された。
「責めてなんかいませんよ。あなたが元気になってくれて僕は嬉しい」
「……その」
「でも、父上はなぜ柳染家にいたんでしょうかね」
「……わかりません」
そうだ。何故宗水は柳染家にいたのだろう。
「まあ、父上ですからね。あの人の動きを予測しようとしたら負けだ」
「……」
血を分けた息子にもどうやら曲者だと思われているらしい。宗水は。
「ただ……蓉香殿と理瑞殿といえば、あの二人、非常に仲が悪かったんですよ」
「え」
「こういってはなんだが、理瑞殿のほうが蓉香殿より戦闘に長けていた。だから蓉香殿が嫉妬していたようですよ。それはもう殺したいと思うほど」
樒のなかで点と点が繋がりかける。やはり理瑞と蓉香は仲が悪かったらしい。
宗柊が更に情報を付け加えた。
「僕は思うんですが、紫紺に出た鬼は、わざわざ理瑞殿を襲うために出た鬼なんじゃないでしょうかね」
「……蓉香様の飛鬼?」
「そう。飛鬼。そうすれば紫紺の結界など関係なく入れるんじゃありません?」
でも、と樒は疑問に思う。
では柳染家の屋敷にどうして鬼が出たのだろう。
宗柊は「だとすると」と顎に手を当てた。
「父上が柳染家にいたのは、罰を下すためかもしれないな」
「罰?」
「だって、姉が弟を襲って殺したんですよ。それに見合った罰を下さなくては、鎮守六家の統帥がとれませんから」
罰を下すにしては二人の様子は少し違っていたような気もする。
樒はわからなくなってきた。




