第1話「都市の影に潜む亡霊」
新潟の空は、いつものように穏やかな光に満ちていた。AIが制御する気象システムは完璧に機能し、今日の最高気温は24℃、降水確率は0%。市民のスマートフォンに届くパーソナルAIアシスタントの通知は、最適な通勤ルートや、気分に合わせたランチの提案まで、全てを最適化していた。
しかし、その完璧な調和は、一瞬にして崩れ去った。
サイバー犯罪課のオフィスは、新潟市中央区の警察本部ビル20階にある。午前9時17分、AI解析スペシャリストの葉山拓海のデスクから、短い、しかし耳をつんざくような警告音が響き渡った。車椅子に座る彼は、普段は表情一つ変えないが、その時ばかりは眉をわずかにひそめた。
「如月リーダー、至急です。市内の公共交通AIシステムに異常。バスの制御が一部不能に陥っています」
チームリーダーの如月怜子は、すぐに立ち上がった。40代前半の彼女は、常に冷静沈着だ。だが、その瞳の奥には、市民の安全を守るという強い責任感が宿っている。
「詳細を」怜子の声は低く、しかし明確だった。「現在の状況と、何が起こっているのか」
葉山は即座にディスプレイに情報を映し出す。AIが運転する「未来型自動運転バス037号」が、萬代橋を渡りきる直前で、ルートを逸脱し、歩道へと向かい始めていた。その速度は時速30キロ。歩道には、通勤・通学で多くの人々がいた。
「システムログを確認しましたが、外部からのハッキングの痕跡はありません。まるで、AIが自律的に暴走しているかのような動きです」葉山は続けた。「通信は安定していますが、システムへの命令が全く届きません。これは、AIの学習モデルそのものに何らかの不正が仕込まれた可能性が高いです」
通常のハッキングであれば、攻撃者の痕跡が残るはずだ。しかし、今回の事象は、まるで目に見えない「亡霊」がシステム内部に潜り込み、AIを操っているかのようだった。
「AIの学習データ……」怜子は腕を組み、深く考え込んだ。「佐倉、現場の状況を把握しろ。三上、広報と連携し、市民の避難を最優先に指示を出してくれ。藤崎、037号の過去の運行データ、特にメンテナンスやアップデート履歴を洗い出して。葉山は引き続き、AIの学習ログを深掘りして、異常の起点を特定するんだ」
熱血漢の佐倉健太は、すでに携帯端末を片手に駆け出していた。「了解っす! すぐ現場へ向かいます!」彼の動きは素早かった。
広報・危機管理担当の三上陽介は、冷静に電話をかけ始めた。「はい、三上です。交通局と連携してください。萬代橋周辺の歩行者を緊急避難させ、橋へのアクセスを遮断します。ドローンで現状を把握し、リアルタイムで情報を更新してください」
鑑識官の藤崎梓は、指先が光るようにキーボードを叩き始めた。彼女の瞳は、デジタルデータの中に隠された真実を読み取ることに特化している。「037号の運行開始からの全てのデータを引っ張り出します。異常データは必ず残っていますから」
怜子の視線は、大型モニターに映し出された037号の映像に釘付けになっていた。バスは歩道に乗り上げ、目の前に広がる広場へと向かっていた。広場は、朝市で賑わう市民で溢れている。
「タイムリミットは短いぞ!」怜子は指示を飛ばす。「葉山、何か掴んだか!」
葉山は、複雑なAIの学習ログを高速でスクロールしていた。通常のシステムでは考えられないような、微細なノイズが、ある期間のデータに集中していることに気づいた。それは、何百テラバイトもの膨大なデータの中に、意図的に埋め込まれた針のようなものだった。
「見つけました、リーダー。約三ヶ月前のシステムアップデート時に、ごくわずかな、しかし巧妙なデータがAIの学習セットに組み込まれていました。これは、通常運用では全く影響が出ないのですが、特定の条件が揃うと、AIが自己判断で誤った選択をするように仕向けられています」
「特定の条件?」
「ええ。これはおそらく、交通量の多い時間帯、特定の橋を通過する際、そして……太陽光の角度です。今、まさに全ての条件が揃っています」
「太陽光の角度でAIを誤作動させる…まさか!」怜子は愕然とした。それは、極めて巧妙かつ悪意に満ちた仕掛けだった。物理的なハッキングではなく、AIが「自ら」誤った学習をしてしまった結果の暴走。それはまさに、デジタル空間に潜む「亡霊」の仕業だった。
佐倉からの無線が入った。「リーダー! バスが広場に突入します! 人々が!」
怜子の脳裏に、最悪のシナリオがよぎる。AIがもたらす便利さの裏に潜む、見えない悪意。
「葉山! その不正データの箇所を特定し、AIに強制的にロールバックさせることは可能か?」
「理論上は可能ですが、正常な学習データとの分離が極めて困難です。もし誤れば、システム全体がクラッシュする可能性があります」葉山の声に、わずかに焦りの色が滲む。
「やるしかない!」怜子は言い放った。「藤崎、その不正データを組み込んだ可能性のある人物、あるいは組織の情報を洗い出せ! 三上、広場へのバス突入を避けるため、最後の手段を検討してくれ!」
藤崎が叫んだ。「リーダー! 三ヶ月前のアップデート担当チームの中に、今年度で退職した元社員がいます。彼はAIの学習モデル開発にも深く関わっていた人物です!」
「やはり、内部の人間か…」怜子の顔に、苦渋の表情が浮かんだ。しかし、それは同時に、事件解決への道筋が見えた瞬間でもあった。
葉山が必死にキーボードを叩き続ける。バスはすでに広場の入り口に差し掛かっていた。人々の悲鳴が、佐倉の無線を通して聞こえてくる。
「今です、葉山! ロールバックを開始!」怜子が指示を出す。
葉山の指が、最後のEnterキーを押す。数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
その時、モニターの中の037号バスの速度が、わずかに、しかし確実に落ち始めた。そして、広場への突入寸前で、バスはゆっくりと停止した。
息を呑むような静寂の後、安堵のため息がサイバー犯罪課のオフィスに満ちた。
「成功しました…! 不正データを隔離し、AIの学習モデルを正常な状態にロールバックしました!」葉山の声に、いつになく達成感がこもっていた。
怜子は深く息を吐き出した。冷や汗が背中を伝う。 「全員、よくやった。しかし、これは始まりに過ぎない。AI都市を狙う『亡霊』は、まだこの新潟のどこかに潜んでいる。彼らが何を企んでいるのか、徹底的に洗い出すぞ」
彼女の言葉は、完璧なAI都市に潜む闇と、それに立ち向かうサイバー犯罪課の、長く険しい戦いの始まりを告げていた。