芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い出して考えた
BBCドキュメンタリーのPredator: The Secret Scandal of J-popを観て、懐かしい小説を思い出した。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』である。
読んでみたくなって、ネットで探して読んだ。
何度読んでも素晴らしい作品だと思う。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、学校の教材としても好まれている。
芥川龍之介は、何が言いたくて、この作品を書いたのか、意見は様々だが、子供の頃に読んだ時は、地獄の絵が恐ろしく見えた。
特に、細い蜘蛛の糸を辿って、うようよと這い上がる罪人たちの姿が、おぞましく思えた。
悪い事をしたから地獄に落ちたのに、反省もせず苦しみから逃れる為だけに抜け出そうとする様が、とても卑怯に思えたのだ。
お釈迦様の垂らして下さった蜘蛛の糸が、ぷつりと切れた時、お釈迦様が悲しそうな御顔をなさりながらも、何事もなかったかのように、蓮池を歩いて行かれたというのが、一番恐ろしかった。
地獄に落ちた者には、反省のチャンスは二度と与えて貰えないのだと、ぞっとしたのを覚えている。
「ごめんなさい」を言えずに地獄に逝くと「ごめんなさい」を言わせて貰えないのだ。そう思うと怖かった。
今も読んで思った。反省は生きている者の特権だ。
人は誰しも、背後に地獄がある事を忘れてはならないのだと思う。
キリスト教では、幼い子供にする事は、どんな事でも神様にする事と同じだと、聖書にある。
生前、何百人もの子供の心に傷を負わせ続けたイコール神様に刃向い続けた男が逝く先は、どこだろう。
天国には思えない。
では、仏教は、どうだろう。
何百人もの子供心を傷つけた、裁かれなかった捕食者を許すほど、地獄の閻魔様は優しくないと思う。
極楽逝きでない事は、『蜘蛛の糸』を読めば良く分かる。
反省のチャンスさえ貰えぬまま亡くなったとすれば、神様の怒りは最高潮に達していたのかもしれない。
捕食者の性犯罪を思い出したのは、本当に偶然だった。
当時、いや、今もだが、大問題になった、なっている大事件を、偶然ニュースで聞いた時は、驚愕したものだ。
何て最低な男だ!と激怒したのは、まだ記憶に新しい。
しかし、忘れつつもあった。
BBCが必死になって制作してくれたドキュメンタリーを、実際に観た事がなかったというのも、理由の一つだと思う。
観た感想を一言で言い表すなら、「日本社会は腐っている!」だ。
悪魔のような所業をした男を、『さん』や『氏』を付けて呼ぶつもりはない。
地獄の底の血の池で、他の罪人と一緒に、浮いたり沈んだりしているのだろうか。
『蓮池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、その真ん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。』
芥川龍之介の文章は、静かな清流のように、美しいと思う。
朝の極楽へ逝ける人生を歩みたいと思ってしまうほどに、美しい言葉で溢れている。
まるで、その言葉自体が、金色の蕊から漂う何とも云えない好い匂であるかのように。
文春という雑誌を、若い頃は知らなかった。
知ったのは、二十歳を過ぎてからだ。
今回、モビーン・アザー氏が訊ねた、文春の編集者二人の言葉を聞き、話す表情を観て、胸がつまった。
2023年にニュースで流れた際は、大事件の詳細を、そこまで知らなかった。
性被害者が語る真実を実際に聞くと、ニュースで知った時よりも、ずっと重く伸し掛かった。
文春の編集者たちが、必死で戦って敗れていたのも、全く知らなかった。
正義を捻り潰されていた事実を初めて知った。
子供たちを守る為に動いて敗れた、それは、どんなに悔しい思いであったか。
23年ずっと絶望していたと言った編集者の言葉は、胸に響いた。
正義の為に動いてくれた人たちが、ちゃんといた事を知れて、とても嬉しかった。
人権を尊重する正義の心と、慈しみ深い人道の精神が、そこにはあったのだ。
蓮の花は、泥の中でも美しく咲くという。
真っ白な蓮を見つけてくれたBBCには、感謝してもしきれない。
BBCニュースが教えてくれた素晴らしい正義を、心に刻みたいと思う。
同時に、『蜘蛛の糸』の最後の一文も。
『極楽ももう午に近くなったのでございましょう。』
様々な解釈がなされる『蜘蛛の糸』だが、筆者には、この美しいラストの一文が、こう聞こえる。
【血の池に日は差しませんよ】と。
『極楽は丁度朝なのでございましょう。』
この文章が、とても好きだ。
泥の中で、懸命に咲く蓮の花を見つけてくれたBBCのように生きたいと思う。
だから、未熟すぎる自分を顧みて反省する点は、大いにある。
芥川龍之介のような美しい文章は書けないが、せめて日常生活では、美しい言葉を選びたい。