魁
明治維新の前夜、まだ日本は封建制度の中で静かに暮らしていた。熊本の阿蘇、北里家の古びた屋敷では、季節外れの風が庭をかすめていった。その日、家の中では奇妙な出来事が起きていた。
北里柴三郎、当時18歳の若者は、何か大きな決断を前にしていた。彼は古来の医術、漢方を学び、家族や親族にその知識を伝承していた。しかし、今、彼の心の中にはある疑念が湧き上がっていた。日本は、封建制度の幕を引こうとしている。西洋の風が日本に吹き込んでおり、その風の中で何かが変わろうとしている。彼は、その変革を感じ取っていた。
その日、北里家の庭には一束の古い医学書が積まれていた。それはすべて、彼がかつて大切にしていた漢学の医学書だった。家族が集まる前、柴三郎はその束をじっと見つめていた。彼の目は真剣で、心の中で何かが決まったようだった。
「これからは西洋医学の時代だ。」
その言葉は、彼の口から静かに発せられた。家族は一瞬、言葉の意味を理解できずに彼を見つめた。しかし、柴三郎は一歩前に出て、火を灯した。手に持った火箸で、最初の一冊を炙ると、あっという間に炎がそのページを喰らい尽くした。
「父上、母上、この道を捨てるわけではない。だが、私は新しい道を選ぶ。」
彼はその後も次々に書物を焼き、灰となるページが風に舞っていった。炎の音だけが響く中、彼は家族に背を向け、次なる言葉を口にした。
「私は、これから西洋の医学を学びに行く。」
家族は困惑していた。父親は眉をひそめ、母親は涙を浮かべていたが、柴三郎の決意は揺るがなかった。彼が目指す先は、ただの学問ではなかった。彼は新たな時代の先駆者となりたいと願っていた。時代の転換点、そして日本の未来に必要なものは、もう明白だった。
家族の反応を背に、柴三郎は一人、家を後にした。彼の決意は、明治維新の波と共に、新たな風を日本に吹き込むことを予感させた。
日が沈み、風がやむと、庭にはただ燃え尽きた医学書の灰だけが残されていた。柴三郎の未来もまた、その灰の中から新しい芽が出るように、確かな道を歩んでいくことになるだろう。
そして、彼の選んだ道が日本に革命的な変化をもたらし、やがて西洋医学の導入と共に多くの命を救うことになるのであった。