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 奈都は唐突に、ぱちりと目を開けた。寝起きはすこぶるいい方だ。


 カーテンの下からベッドに淡い光がこぼれて、奈都の片頬をやわくあたためている。つまり、朝だ。


 んー、と天井に向かって伸びをして、はたりと気づく。寝た記憶がないことに。


 いや、こうして起きたのだから寝ていたに決まっている。問題はベッドで寝た記憶がないということだった。


 DVDを観ながらソファで寝落ちすることはままあるが、寝ぼけてベッドまでたどり着けたことは未だかつてない珍事だ。


 ではなぜ、ベッドで、しかもきちんと布団を着て寝ているのか。


 しばし考え、昨日の一番最後の記憶がよみがえってくると、奈都はみるみる青ざめた。慌ててベッドから転がり出て、足をもつれさせながらリビングへ。ソファから人の足がはみ出ているのを目にして、その場で頭を抱えてうずくまる。


(あああ……やってしまった……!)


 部屋に誘っておきながら大したもてなしもせず、興味のないDVDを有無を言わせず観させた挙句、先に寝落ちした。その寝落ちした奈都を、わざわざベッドにまで運んでくれたのだろう純誠は鍵の場所も教えていないのでおそらく帰るに帰れず、仕方なくソファで一夜を明かして……今に至るのだろう。


(なんて失礼なことを……)


 いっそ奈都をソファに寝かせておいて、ベッドを使ってくれていれば……。


 だが紳士な彼には、女性を差し置いてベッドを使うなんて発想すらなかったに違いない。手を出されていても文句の言えないこの状況で、すやすや安眠できたのはひとえに、相手が純誠だったからだ。


 なんていい人なのだろうか。


 わずかでもハニートラップではないかと疑っていた自分を心底恥じた。


 ソファを回って、健やかな寝息を立てて眠る彼の前に正座すると、起こさないように胸の中で深々と謝罪した。


(ごめんなさい。このお詫びはいつかしますので、お許しください)


 もちろん純誠からの返事はない。


 疲れているのか、それとも寝心地の悪いソファだからか、少しだけ眉根が寄っている。申し訳ないが、ちょっとかわいい。好奇心で頰を軽く突いてみたら、眉間のしわがますます深まった。おもしろい。


 さすがというべきか、顔立ちが整っているだけあって寝顔でも鑑賞に値するレベルだ。リアルの男との恋愛は勘弁だが、こうして見ているだけなら大歓迎だ。寝ている人は無害なので大いに結構。口が半開きとか、よだれを垂らしているとか、そんな隙は残念ながら一切なく、唇は貝のごとくしっかりと結ばれている。


 起きるまで寝かせておこう。今日が世間一般では休日でよかった。奈都は昼から出なければいけないが、純誠は仕事は休みだろう。


 せめての償いに、朝食を用意してもてなそう。シャワーも浴びるだろうから、タオルを用意しないと。


(ゆんちゃん推しみたいだし、ゆんちゃんのでいいか)


 などと考えていて、立ち上がるときにうっかりローテーブルにおしりをぶつけてしまい、声なき悲鳴を上げて前のめりに倒れた。とっさに両手をソファにつき、純誠を潰す寸前、鼻先がくっつく距離でなんとか停止し、ことなきを得た。


 よかった、起こさずに済んだ。ほっとして気を緩めたのが、間違いだった。


 体を支えきれなかった片手が、ずるりとすべり――



「っ……!」



 ぶつかった。


 思い切り。


 ありえない場所と場所が。


 つまり……顔面と顔面が、正面衝突。


 回避不可で唇が重なったが、それはほんの一瞬のことで。


 なにより次の瞬間おでことおでこがごつんとなって、眼裏に真っ白い星がチカチカ散った。


 痛みやらパニックやらで奈都はラグに転がりのたうち回り、純誠はわけもわからずうめきながら飛び起きた。


 漫画とかでよくあるドキドキなハプニングキスとはほど遠い、おでこを押さえて悶絶するふたりの姿がそこにはあった。


「っ、うぅ……一体、なにが……?」


「うぅぅ……ご、ごめん、な、さい。すべって転んで」


「えっ、大丈夫?」


 熟睡中に無防備な顔面に無慈悲な攻撃を受けた被害者の純誠が、加害者である奈都を心配して顔を覗き込む。怒ってもいいはずなのに、この人はどこまで優しいのか。


「額、赤くなってる。痛い?」


 額にそっと触れられて、奈都は肩を跳ねさせた。ピリピリした痛みもあったが、それ以上に、さっきのキスを思い出してしまい、視線が定まらない。恥ずかしいやらいたたまれなさで、目が見れない。事故とはいえ、キスはキス。感触もなにも思い出せないが、確かにぶつかった。


 純誠は気がついているのだろうか。おでこも鼻も頰も実は歯も痛いのだが、冷静になれば気づくかもしれない。気づくなと願うばかりだ。


 自分のことは置いておいて、奈都は彼の顔をよく見るために両手で包んで引き寄せた。おでこのちょうど奈都が痛みを感じている場所と鏡写しで同じところが丸く赤くなっている。さらには頰も徐々に赤くなっていくので奈都は自分の痛みを忘れて目を剥いた。


「どうしよう、赤くなってく……本当にごめんなさい!」


 目もほんのり潤んでいるし、これはよほど痛みを我慢しているに違いない。早急に冷やさないと。


 大慌てで冷凍庫に保冷剤を取りに行こうとした奈都の腕を、ふいに純誠が掴んで止めた。あ、と思ったときには、バランスを保てず彼の上にのしかかるように重なっていた。


 重いだろうとすぐ起き上がろうとしたのだが、なぜか背中に回った腕にきつく抱きこまれていてびくともしない。


「あ、あの……」


 奈都の額は彼の肩にうずもれていて、顔が見えない。どんな表情をしているのかわからないのは、ちょっとだけ不安だ。


 いや、それよりも。昨日お風呂に入っていないことが奈都の脳裏をかすめてひそかに慌てる。


(に、匂わないかな? だけど匂うかどうか聞いたことで匂いを嗅がれても困る……!)


 なので沈黙を守った。


 というか、これはどういう状況なのか。


 細身だが引き締まった男性らしい硬い筋肉の感触に、妙に異性ということを意識してしまう。奈都をすっぽり包む長い腕も、自分よりも高めの体温にも、落ち着く匂いにも、自分との違いを感じて赤くなった。


 心臓がやたらと早鐘を打つ。


 男性に抱きしめられたのなんて、いつぶりだろうか。記憶の彼方だ。


 だがこのままではまずい。奈都は心が揺らぐ前にどうにかせねばと身じろぎし、彼の腕がゆるんだ隙にがばりと顔を起こすと、目が合った。純誠はまっすぐ奈都のことを見つめていた。


 なんとなくお互い無言で。


 どちらのかわからない、こくりと喉が鳴る音がした。


 たぶんそういう雰囲気だったから。


 その顔がゆっくり近づいてきたとき、キスされる、と思った奈都は反射的に目をつむった――が。



 ぐぅぅぅ……。



 獣の唸り声のようなものが、奈都の腹部から響いた。


「……」


「……」


(なんて、ベタな……)


 永遠と思われるほどの間があって、純誠が噴き出した。羞恥で真っ赤になった奈都は自分の失態をごまかすようにとにかく言い訳を並べ立てた。


「違っ、違うんです! これは昨日ごはんを食べずに寝てしまったせいであって! 空気を読めない胃が反旗を翻して空気を……じゃなくて。だから、その……朝ごはん! 朝ごはん、食べていきますよね? ドライカレーですけど、食べますよね!?」


「え、ああ、うん」


 奈都は動揺したまま、あわあわと純誠から降りて、キッチンへ。


 背中に視線がつき刺さっている気がするが、気づかないふりで支度に集中した。


 そのあと、なにごともなかったかのようにふたりで朝ごはんを食べ、奈都はひそかに安堵していた。


 さっきの件は、なかったことになっている。


(よかった……)


 ……だけど。


 それを少しだけ残念に思った自分の気持ちからは、そっと目を背けた。




結局キスには気づいていない純誠

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