20
「本当に病院はいいんですか?」
「ええ。ちょっと口を切っただけですし」
「……そっちではなくて。変な薬とか、飲まされてません?」
「ただの睡眠薬だったようなので、大丈夫です」
奈都は優一の部屋の中までつきそって、念のためミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出して渡した。睡眠薬とはいえ、薬は毒にもなる。体内から排出させるために水分は取った方がいい。
「それにしても。あんな見るからに繊細そうなお嬢さんに拉致監禁されるなんて、ゆうちゃんさん、さすがに男として情けなくないですか?」
優一は水を半分ほど飲み干し、ようやく人心地ついたというように、肩ごと大きく息をついた。
「両親との会食に彼女が同席していたので、まずいとは思って警戒していたんですが……、まさかそこまでするとは思わず……。完全に油断しました」
「まあ、なにごともなくてよかったですよ」
優一を取り返すための武力抗争になることなく、平穏無事に解決できた。純誠に殴られたのはある意味自業自得だ。その痛みのおかげで意識もはっきりしてきのだから、感謝してもいいくらいだ。
そんなことをしみじみ考えていると、優一は少しだけ咎めるような口調で問いかけて来た。
「それにしても、なっちゃんさん。なんで彼を同伴させて来たんですか」
「いや、だって……ついて来るって聞かなくて。……その、わたしも危険にさらされると思ったらしくて……」
純然な善意による同伴だったのだが、奈都を案じてついて来てくれたことを思い出すと落ち着かない気持ちになる。優一がふと真面目な表情をしていった。
「彼は、やめた方がいいと思います」
「やめるって、なにを」
「なっちゃんさん、好きですよね? 彼のこと」
そんなにわかりやすいだろうか。図星をさされて返事に窮していると、答えを求めていなかったのだろう、彼は奈都を見つめたまま重々しく告げた。
「彼はうちの父が送りこんだ、ハニートラップです」
「まさか」
そんなはずがない。
優一は前々から疑っていたようだが、それはありえないのだ。
「前も言いましたけど、一切口説かれてないんですよ? それなのにハニートラップだなんて……」
「でもそれが現実です。認めはしませんでしたが、否定もしませんでした」
「……本当に?」
足の力が抜けて、すとんとソファに座る。
信じられないが、優一が嘘をついているようにも見えなかった。
認めていないのなら、また確定ではない。その一縷の望みに縋るくらいには信じたくなかった。
優一は奈都の反応をつぶさに観察しながら苦笑した。
「こんな無茶なお願いをしておいてあれですが、なっちゃんさんには幸せになってほしいと思っているんです。どうしても納得いかないというのなら、彼に直接聞いてみてください。ここから先はなっちゃんさんたちふたりの問題なので、僕はなにも言いませんが、できたら最後まで恋人役は演じていただきたい」
「一度引き受けた以上、それはやりますけど」
奈都がうなずくと、優一はにこりとした。妙にうさんくさい意地悪そうな笑みだった。
「聖地巡礼、楽しみですね」
「それはもう、楽しみです」
「僕もです」優一は嬉しそうに微笑み、ごく小さくつぶやいた。「……彼がどう出るか、とても」
疑問符を浮かべた奈都に、彼はなんでもないよと、首をふって見せた。
優一が断言したのだから、それなりの確証か証拠があるのだろう。それを信じるならば、純誠は思惑を持って奈都に近づいたということになる。
出会いは偶然な気もするが、腑に落ちるところもあるのだ。
(思えばはじめから、おかしかったんだよね……)
妹の友人にはいささか怪しい奈都を無条件で受け入れて、あまつさえ優しかった。
男女の好きではないにしても、人として好かれていると思っていたのだが、こうなるとよくわからなくなる。
(好きだと認めた直後に失恋して、その上、ハニートラップだったとか……)
やはり恋愛なんて、するものじゃない。
今後どんな顔をして会えばいいのかわからない。
(いや……もう、会いにも来ない、とか……?)
だけどまだ奈都と優一を別れさせる任務が終わっていない。
しかし優一に知られたことで、このまま中断ということもあり得る。
悶々としながら数日経ち、純誠は結局あれから一度も顔を見せないままだった。
気落ちしながら仕事をしていると、閉店間際に、なにやら思いつめた表情の理世がひとり現れた。
彼女はなにも知らないのだろうな、と奈都は思う。そういう、人を騙すようなことをよしとする子でないことくらいは接していればわかる。若いがゆえの潔癖さがあるのだ。
「この後、ちょっといいですか?」
改まった口調で言われて、奈都は内心訝りながらも、気づかないふりをしてうなずく。
閉店後、慌てて待ち合わせ場所へと向かう奈都に、充希が急いだ様子で声をかけてきた。
「先輩っ!」
「ごめんね、今日は先約があるから! また今度おごってあげるから! じゃあね!」
「いや、そうじゃなくって……! 先輩!?」
これから理世に会うのに、充希を連れては行けない。
充希をふり切って走り、合流したファミレスの一角で、理世はテーブルに額をぶつける勢いで頭を下げた。
「うちの兄が、ごめんなさい!」
「え? 待って、顔を上げて?」
純誠が奈都にハニートラップを仕掛けていたと、なにかの拍子に知ってしまったのだろうか。困惑する奈都を尻目に、理世はトートバックからファイルのようなものを取り出し、おずおずとテーブルに置いた。
「えぇと? これは……?」
「……今日、兄の部屋から見つけました。奈都さんとなにかあったみたいだから、それで、わたしもなにか協力しようと思って……。だけどまさか、あの兄がここまで拗らせてるなんて、わたし、全然思ってなくて!」
理世は両手で顔を覆ってしまった。
奈都はとりあえず、その持参してきたファイルに手を伸ばすと、挟み方があまかったのか、ぽろりと写真がこぼれてきた。
被写体は、自分だった。いつ撮られたのか、奈都の隠し撮り写真が数枚。
意を決して中をめくる。報告書とそっけなく名目されているそのファイルには、奈都の個人情報がこれでもかと記されていた。
(うわぁ……)
引いた。
恐怖よりも、ドン引きした。
しかも知られたくないことまで調べられていて、奈都の方こそ顔を覆ってしまいたくなった。
「うちの兄が! ストーカー化してたなんて!! 奈都さん、本当にごめんなさい! もうお兄ちゃんを勧めたりしません、この通り、許してください!」
理世が頭を下げるので、慌てて上げさせる。周りになに事かと驚かれる。
「いや、それは別になんだけど……。理世ちゃん、これ、中読んだ?」
奈都はファイルをぱたりと閉じて、真剣に問いつめた。
「いえ……びっくりしちゃって。ちゃんとは読んではいないです」
理世は首を横にふった。嘘をついている様子ではない。
そうか。ならばいいと安堵する。奈都にも秘めておきたい事実のひとつやふたつある。
「これ、まずいですよね? 警察呼ぶべきですか?」
実の兄を警察に差し出す気なのか。潔いが、純誠が知ったら泣くのではないか。
「わたしは平気だから。警察って……実のお兄さんでしょうに」
これだって、奈都を好きなあまりしでかしたことだったら怖いが、単にこれから落とす相手を事前に調べておいただけにすぎないだろう。
となるとだ。彼は奈都の過去をすべてを知っているわけで……。
恥ずかしくて死ねる。
死なないが。
「間違いなく実の兄ではありますが、実はわたしたち、異父兄妹なんです。きっとお兄ちゃんの生物学上の父親からの悪い血が……!」
理世は青ざめながらも、なかなかひどいことを平気で言っている。純誠と理世が異父兄妹だというわりとセンシティブな話題がさらっと通りすぎていった。
「いやいや、本当に大丈夫だから、純誠さんを貶さないであげて? かわいそうだから。いいお兄さんでしょう?」
「だけどっ、これはやりすぎ! わたしだったら即縁を切る!」
理世は親の仇とばかりにファイルを手のひらでバン、と打った。怒りの矛先は粛々と理世の殴打を受け止め、沈黙している。
奈都としても、個人情報が誰かの手にあるのは落ち着かない。
「だったら、これはわたしが預かっておこうか? というか、シュレッターにかけて捨てれば、それでいいんじゃない?」
そして燃えるゴミの日に出したら完璧だ。
「あまい! 相変わらずうちの兄に対して異常なまでのあまさ! バームクーヘンの外側についてる砂糖ぐらいあまい!!」
(たしかに、あまいな、あれ)
つかの間バームクーヘンに想いを馳せたが、すぐに我に返って怒り心頭の理世を宥める。
「まあまあ。わたしはそんなに気にしてないから。ね?」
「本当ですか……? 気持ち悪くないですか、うちの兄」
「気持ち悪くはないよ。ちょっと、思うところはあるけど」
「だったら制裁を! 殴っても蹴ってもいいから、正義の鉄槌を下すべきですよ! だいたい男なら、正々堂々当たって砕けなさいよ、ヘタレ!」
「うーん……」
理世はそう言うが、まったく気乗りしない。捨て台詞を吐き捨てて平手打ち、なんて、奈都には無理な話だ。まず、平手ができない。
「この件はひとまず置いておいて、そろそろ帰らない? 純誠さんが心配するよ?」
「この期に及んで変態ストーカー野郎にさんづけって……。奈都さんの怒りの沸点が低すぎて怖い」
理世の実の兄への蔑み方もなかなかに怖い。
「いやいや。わたしがキレたら手に負えないから」
「絶対嘘だぁ。奈都さんって、叱ることはあっても怒ることはあんまりなさそう」
「怒ることはあるよ? ついこの間も、若い女の子に年増って言われて、ちょっとカチンときたし」
「ああ、そういう若い女いますよね。それって、年齢しか奈都さんに勝てるところがなかっただけの、負け犬の遠吠えじゃないですか? 自分だって確実に年を取るんだから、将来的に巡り巡って自分のところに返って来るのに、呆れる」
そういう理世は、例の優一の自称婚約者よりも若い。奈都と理世の世代の違いがますます浮き彫りになってしまった。
「話はわかったから、もう遅いし帰らないと心配するよ?」
「そうですけど……今日、家に帰るの嫌だな……。気が重い」
衝撃的なものを見てしまったせいで、兄と顔を合わせづらい気持ちも理解できる。
「ちゃんと純誠さんに連絡を入れるなら、うちに泊まってもいいよ」
兄に連絡することすら気乗りしない顔で、それでもメッセージでのやり取りの方がまだましと判断したらしく、彼女はよろしくお願いしますと頭を下げた。
外に出ると、風が強く吹きつけてきて、奈都は下ろしていた髪を仕事用のゴムで無造作に結った。
そろそろ髪を切らないとと、案外冷静に現実的なことを考えている自分に苦笑しつつ、理世と最近読んだ本の話であーだこーだと盛り上がって、自宅への道のりを並んで歩いていると、角から人が飛び出てきた。
「先輩!? ああ、もおっ、こんなところにいた!」
「充希くん?」
こんなところでどうしたんだろうと思ったが、そういえば帰りがけに引き止められていた。これはかなり早急な話でもあるのかもしれないと思い直し、理世に断りを入れて、充希に駆け寄る。
「そんなに慌てて、一体どうしたの?」
「前置きはなしで。先輩、お願いだから今すぐ、逃げてくだ」
さい、と続くはずの言葉は、どこからか聞こえた、バチ、というに電撃音によってかき消えた。
きょとんとした奈都の目に写っていたのは、真っ青な顔で奈都の背後を見つめる充希。即座にふり返って見たのは、ぐったりとした姿で男の肩に担がれた理世の姿だった。
彼女はそのまま、横づけされた黒のバンに乗せられる。一気に血の気が引いた。
理世を担ぐ男の手に握られていたのは、スタンガンだった。おそらく気絶しているだけだろうが、ここで奈都がむやみに騒げば真っ先に彼女に危害が加えられる可能性も出てくる。
奈都は努めて平静を装って、相手を刺激しないように沈黙を守った。それを、怯えから声も出ないと判断したらしい、いかにもチンピラ風な男たちが、奈都と充希をあっという間に取り囲んだ。
「いいか? 騒がずついて来るのなら、痛いことはしない」
うなずく。
仕方ない。奈都はおとなしく拘束されながらバンへと乗りこんだ。
つまずくふりをしてトートバックをバンのスライドドアにぶつけてやったのは、ちょっとした意趣返しだった。
理世はパニック状態なだけで、普段はこんなことは思っていないです