18
優一がなにやら死の危機に瀕している、らしい。
両親との会食だったのではなかったか。
噂の、どこかのご令嬢も参加していて、謀られたか。
この怯えようは十中八九女性関係だろうが、違った場合も想定しながら奈都はスマホを握りしめ直し、気持ちを切り替えて今どこにいるのかを冷静に問いただした。
優一が叫んだのは老舗ホテルの名前と部屋番号で、それだけで奈都はおおよそを察して、大通りに走り出てタクシーを止める。
(これは必要経費。後で絶対に返してもらう。絶対に!)
奈都が慌ただしくタクシーに乗り行き先を告げたとき、なぜか乗りこんできた純誠に勢いよく奥へと押し込まれた。
「なんで……」
「いや……ついていった方がいいと思って」
優一の救出へ向かうのでついて来られると事情説明に困るのだが、そんなことを言えるはずもなく、気まずい沈黙を乗せたままタクシーがホテルへと到着すると、奈都は一度ロビーから優一へと電話をかけた。
「今、下に到着しました!」
「早く! なっちゃんさんっ、早く! 僕はバスルームに籠城していますから!」
情けない声で優一が奈都に哀願する。
内心かなり引きながら、部屋番号を間違えないように確認し、安心させるためにすぐに行くからと言い聞かせて、電話を繋いだままエレベーターのボタンを押す。
待つ間、なにか聞きたそうでなにも言わない隣の男に、小声で問いかけてみた。
「状況、飲み込めていますか?」
「いや全然」
(だよね……)
それでもついて来るのだから、いい人と見るべきなのか、それとも無謀な考えなしと見るべきなのか悩むところだ。
降りてきたエレベーターに素早く乗り込んで、奈都は一応純誠に大まかな説明だけはしておいた。
「友……恋人が監禁されているみたいで、助けに向かうところです」
それでもまだついて来るのかと見上げたら、彼はなにやら愕然とした表情をしていたが、エレベーターから出かけた奈都の腕を素早く掴んで止めた。
「だめだ!」
「え? いや、でもエレベーターが……」
閉まってしまう。
掴まれているのと反対の手で、開くボタンを長押ししようとしたが、わずかに届かない。
あわあわしていると奈都の両肩を掴んだ純誠が、本気で怒鳴った。
「そんな監禁なんて危険なフレーズが出て、行かせられるはずないだろう!?」
そうだった。
普通の人は監禁なんて言葉に免疫がないのだった。
残念ながら奈都の地元では不良たちの抗争で拉致監禁など当然のように横行していたので、その辺りの感覚が完全に麻痺している。
育った環境の違いを如実に感じた瞬間だった。
「あの、そんな大ごとじゃなく……。女性に迫られているみたいで」
敵は屈強な男たちなどではなく、女性なのだ。
優一からしたら、どちらも等しく嫌悪と恐怖の対象なのだが。
「たぶん薬を飲まされていると思うので(そうでなければ優一が無抵抗で連れて行かれるはずがない)、なるべく早く助けてあげないと」
場合によってはすぐに病院に連れて行かなけれならないかもしれないし。
電話でも興奮状態だったので、それがパニックによるものなのか、それとも薬物の影響なのか、一応心配しているのだ。おそらく前者ではあろうが。
「だったら、俺が行く」
警察を呼ぶと言われるよりはましだが、純誠を巻き込むのは不本意だ。彼にはなにも関わりのないことだというのに。
奈都がどう引き止めるか考えあぐねている間に彼はエレベーターを降りたので慌てて後を追った。
純誠は常識人なので、正攻法で部屋のチャイムを鳴らした。
中から現れたのはまだ二十代前半くらいだろう若い女性。ホテルのバスローブ姿で、髪は少し湿気っている。
(よくこの状態で部屋のドアを開け……ああ、純誠さんにつられたのか)
忘れそうになるが、見た目はとても女性受けするタイプなのだった。
しかもきちんとしたスーツ姿で、なおかつ姿勢もいい。ホテルの従業員と思ったのかもしれない。
彼女は純誠を品定めするように上から下までざらっと目を通して、それから、横にいた奈都へと視線を向けた。
あら? というように彼女が形のいい柳眉を持ち上がる。奈都が誰であるのかわかっていて、平然としたその態度。なかなかいい根性のお嬢さんだ。
「中にいる男性に用があるのですが、呼んでいただけませんか?」
「今は取りこみ中なの。おわかりになるでしょう?」
優越感をにじませたその言葉は奈都へと向けられていた。はっきり言って、優一がどこの誰となにをしていようが、心底どうでもいい。彼が助けを求めたからここにいるだけで、そうでなければさっさと家に帰って寝たいくらいだ。
なので、どんな顔をすべきか、非常に迷う。相当変な顔を晒していたのだろう、純誠がさっと前へと出た。
「彼に呼ばれてここまで来たんですが。お取りこみのようなら終わるまで待ちますので、中で待たせていただけますか?」
あくまでも丁寧な口調と物腰なのに、押しが強い。
普段の彼はどこへ行ってしまったのだろうか。
などと考えていると、奥から優一が転がり出てきた。はだけたバスローブに死相という、なんとも哀れな格好。
「なっちゃんさん!」
「ゆうちゃんさん!」
奈都は立ち塞がる女性を軽く突き飛ばして、優一の元へとかけ寄った。普通ならばここで熱い抱擁のひとつでもする場面なのだが、あいにく相手は人嫌い優一。しようものなら全力で抵抗するか、失神する。
「無事そうですね」
「どこがですか! あの魔女のような女に睡眠薬を盛られて……! 眠っている間になにをされたのか、想像するだけで死ねる!」
優一はよほど怖い思いをしたのか、顔を覆ってしまった。
魔女呼ばわりされた女性は、心外だとばかりに涙を浮かべてみせる。
「わたくしは優一さんの婚約者ですのに! ひどいわ!」
両手を顔から離した優一は、奈都に見せるのとは真逆の冷え冷えとした絶対零度の表情で、彼女を見据えて容赦なく吐き捨てた。
「親の決めた婚約に従う理由など僕にはない。警察に突き出されたくなければ、さっさと失せろ」
(かなり腹に据えかねているな、これは)
はじめからその対応を取っていればよかったのに。百年の恋も覚める。混乱しすぎだ。
自称婚約者の彼女は、怒りの矛先を奈都へと向けた。迷惑きわまりない。
「この年増女のどこがいいと言うのですか! お金目当てのあばずれに決まっていますわ!」
奈都はカチンときて、薄く笑んだ。まったく最近は年長者を敬えない若者が多すぎる。
(反論? するに決まってる)
「それを言ったら、あなたも年増でしょうに」
「失礼な! わたくしはまだ二十三よ!」
「あらあら、充分年増じゃないですか。ここにいるゆうちゃんさんの本命がわたしだとでも? 畏れ多いわ。彼の本命は、十七歳の女子高生ですよ」
ですよねえ? と、問いかけると優一は、ええ、ええ、と深々とうなずき、水を得た魚ばりに語り出した。ほと走るみのりん愛を。
「僕のこの世で一番愛している女性は、城咲みのり。通称みのりんは、十七歳のアイドルです。純真無垢で笑顔の素敵な、明るくかわいい女子高生で、ちょっとおっちょこちょい。猪突猛進で、熱血で、でも誰より友達思いの素晴らしい子なんです。好きな食べものは、いちごとあんぱん。嫌いな食べものは、きゅうりとブラックコーヒー。だけどコーヒー牛乳なら飲めるんだから! という、かわいい発言はいつ聞いてもたまりませんね。身長百五十八センチ、体重は秘密。得意な教科は音楽と体育で、座学はちょっぴり苦手。みんなから好かれて、アイドル史部の部長とグループのリーダーを務める責任感のある――」
「ストップ、もういいです。彼女、絶句してます」
三十いくつの男が真面目な顔で女子高生に対する愛を語っていたら、誰だって言葉を失うだろう。正常な反応だ。
ふと、黙って見守っていた純誠へと目を向けた。彼はまた小難しい顔をしている。
(だからついて来ない方がよかったのに)
優一にみのりん愛を語らせたら、たいてい相手が勝手に引いてくれる。今回は優一がパニックを起こしたので仕方なく奈都が出張ったが、本来ひとりで乗り切れる術を持っている。
起きたらバスローブ姿で女性とベッドにいたことが相当精神に堪えたのだろう。
普通の人なら据え膳食わぬはとおいしくいただくのかもしれないが、あいにく優一は普通とはほど遠い人間だ。彼にとっては、目が覚めたら虎の檻で眠っていたくらいの衝撃だっだのだろう。それは奈都でも死を覚悟する。
さてそろそろ退散かとばかりに奈都が動こうとしたとき、目の前をすっと純誠が通りすぎた。
「え?」
ぽかんとする奈都の前で、がっ、と鈍い音がして、気づくと優一が地面に倒れ込んでいた。
「きゃー!」
か弱い女性らしい悲鳴をあげて気を失ったのは、もちろん奈都ではない。
ふらりと後方に倒れかけた自称優一の婚約者を、慌てて奈都が支えるはめとなった。
そのままいまいち飲み込めない状況を再確認した。
純誠が優一を殴った事実を目にしても、その行動の意味はまるで察することができないまま、ゆっくりと首を傾げる。
純誠は拳を震わせていて、優一は殴られた頰を手で押さえながら呆然としている。お互い痛かったに違いない、と、そんなことはさて置き、奈都は動いた。
腕の中の意識のない自称婚約者も、ついでに近くのソファに置いておく。
「大丈夫ですか?」
殴られた優一の傍に膝をついて、そっと覗き込む。彼は奈都の目を不思議そうに見返した。
「大丈夫に見えますか?」
唇を切ったのか血がにじんでいる。頰も次第に赤みを帯びてきた。なにより、歯は折れてなさそうだが話し方にキレがない。
優一は純誠を見上げ、未だぽかんとした状態のまま尋ねた。
「ところで、あなたは誰ですか?」
今さらすぎた。
それに純誠が一瞬だけ答えるのに窮したように怯んだが、不本意そうな顔で口を開いた。
「彼女の、……友人です」
「……ああ、なるほど。なっちゃんさ……奈都の」
はじめて名前を呼ばれた奈都はぎょっとしてしまった。初対面から「なっちゃんさん」「ゆうちゃんさん」の間柄だったのだ。色々なショックが重なり思考回路の一部が緩んだのだろうか。
優一は純誠をどこかおもしろそうに眉を上げて、頰を押さえながらひとりで立ち上がった。芝居がかった仕草でバスローブを払い、純誠へと笑みを浮かべていった。
「聞いてますよ、いつも彼女がお世話になっているようで。あとひと月もないですが、仲良くしてあげてくださいね」
優一は彼が誰なのか気づいたのだろう。そして、ハニートラップであるとまだ疑っているようだった。
たしかにあと少しで、彼がそうであるか、違うか、判明する。
もしそのときに彼が手のひらを返すように離れていったら、聖地巡礼の旅は傷心旅行になるだろう。
嫌な想像をふり払う奈都の心情も露ほども知らず、純誠は優一に怪訝そうに尋ねた。
「……その期間の意味は?」
「僕の海外赴任が決まっています。彼女も連れて行こうと思っています」
聖地巡礼。
果たして無事に行けるのだろうか。
なぜか絶句する純誠を訝しみながら、奈都はひとまず、優一の頰を冷やすための氷を探しにその場を離れた。
修羅場