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「ごちそうさまです、先輩」


 一応年長者なので奢ったが、次からは割り勘にしてくれないだろうかと器の小さいことを考えながら店を出ると、先に外で待っていた充希がくるりとふり返って殊勝に礼を言った。


 そういうのを見ると、また次回も奢ってあげようかな、と思う。


 悪い子ではないのだ。ちょっと年上を敬えない持病があるだけで。


 奈都もほかの同僚たち同様、この懐っこい後輩にあまかった。


 結局なにも教えられず、それどころかだらだら話をしてお開きだ。充希スペシャルを何度も飲まされたせいで胃が大洪水を起こしかけている。


「先輩に借りができちゃったなぁ」


 千円程度で借りと言われても。それくらいで恩に着せたりしない。言うほど先輩風を吹かせてもいない……はず。


「気にしなくていいよ」


「じゃあこれは、僕からのお礼」


 充希が奈都の目の前まで近づいて来ると、お互いの靴の先が触れそうなほど距離を詰め、顔を寄せて耳元にささやいた。



「――あの男には、気をつけてね」



 あの男? と、奈都が戸惑っている間に、充希はぴょんっと軽いステップで離れて、先輩またねー、と手をふる。


 若い。交差点を渡って、向こう側でまたぶんぶん手をふり回し、走り去る姿がもう小さい。奈都が遅れに遅れて手を挙げたとき。



「奈都さん」



 呼びかけられて、一度目を瞬いてからそちらへと顔を向けた。そこにいたのは、純誠だった。


 仕事帰りの様子で、妙に硬い表情をして奈都を見据えている。


 今しがた、充希に警告じみた忠告を聞いたばかりのところにタイミングよく彼が現れたものだから、ぎこちない反応になってしまうのは仕方のないことだった。


「こ、こんばんは……?」


 純誠は眉根を寄せたまま、充希の走り去って行った方へと一瞥した。


 充希の言う、『あの男』とは、純誠のことだったのだろうか。


 だとすると、なにを根拠にあんなことを言い残していったのだろう。


 元々嫌っているようだったし、単なる嫌がらせということもありえるが。


 その純誠はというと、ますます雰囲気が剣呑なものへと変わっており、その鋭い目で奈都をにらんでいる。


「乗り換えたのか?」


「え?」


「まさか、どちらともつき合ってるのか?」


「……はい?」


 突然なにを言い出した。わけがわからず戸惑う奈都に、純誠がずいっと詰め寄ってくる。


 正直なところ、非難される意味がわからない。


「待って、本気でなにを言ってるの? なにか誤解してるみたいだけど、あの子はただの職場の後輩だから」


 純誠が内心激しく狼狽する奈都を冷めた目で見て言う。


「ただの後輩? あんな風に、往来で堂々とキスをしておいて?」


 開いた口が塞がらないとは、このことか。


 思いあたる節といえば、さっきの警告。顔を近づけすぎていたせいで、見る角度によっては、キスしているように見えたかもしれない。


 そこまで思い至り、頭を抱えたくなった。


(あの子、わざと……!?)


 そんな子供っぽい企みがうまくいくとは。


 今頃けらけら笑っているに違いないと思うと歯噛みしたくなった。


 ため息をつきたくなるのを我慢して、奈都は努めて冷静に釈明した。


「キスなんてしてません。耳打ちされただけ」


 なのに純誠の疑いの眼差しは変わらない。そのことに少なからずショックを受けた。


 人の言葉を信じる信じないは個人の自由だが、未成年に手を出すろくでなしだと思われていることには、深く傷ついた。


 仮にも優一という、偽物とはいえ恋人がいるのに、純誠に対して特も一線を引いて接していなかったのだから、気の多い女だと受け取られていても、今さら文句は言えない立場だ。


 彼氏がいるのにほかの男を平気で部屋に上げる女。


 それを前提に踏まえれば、若い男に手を出すこともあるかもしれない。


 彼がその結論に至ったことに、やはり奈都はなにも反論できない。なぜなら自業自得だからだ。


 これが自分ではない誰かだったのなら、奈都だって顔を顰めたかもしれない。なんて気の多い女だろう、と。


 でも、だからと言って、純誠にとやかく言われる筋合いはない。なぜ恋人でもない人に咎められないといけないのだろう。


(……つき合っているわけでもないのに)


 友人。その意外と脆い関係が、少しだけ息苦しく感じて、目を伏せた。


 友人として諭してくれたことならまだ素直に受け取れたが、これは単純に軽蔑からの言葉だ。それがわからないほど鈍感ではない。


 奈都は顔を上げないまま、くるりと踵を返した。あいさつもなく、その場から立ち去ることを選んだ。


 しばらくしてから少し焦ったような足音が追って来た。


「待って!」


 待てと言われて待つ人間がいるのだろうか。よく躾けられた犬ならまだしも、いるのならお目にかかりたいものだ。


 歩みを止めず、だからといってわざと早めることもなく、隣に並んだ純誠を見やりもしなかった。


「……ごめん」


 無視するのも大人気ないが、簡単に許すのも癪なので、つっけんどんに返した。


「なにに対して謝ってるんですか?」


「うっ。……怒ってます、よね?」


「怒ってますね」


 未成年の少女みのりんを愛しているからといって、現実世界の少年少女を愛せるかと言ったらそれはまた別の話なのだ。


 未成年は対象外。親戚の子供を見守るような気持ち以外、湧き起こりようがない。


 奈都がふいっとそっぽを向くと、隣からうめくような声で彼は言った。


「だけど……関係を疑わせるような振る舞いをするあなたにも、少なからず、非があると思う」


 謝罪したいのか、糾弾したいのか。どちらなのだろう。


 とりあえず誤解は解けたようだが、聞き捨てならずに、奈都は足を止めて純誠を見上げた。そこに怒りは消えているが、そこはかとない不機嫌さは未だ健在している。


 奈都が誰となにをしようが、純誠には関係のないことだ。彼は奈都の家族でも、ましてや恋人でもないのだから。


 ただの友人である彼が、なぜそこまで人の交友関係に口を挟んで来るのか。


 もし仮に、奈都を充希に奪われると思ったことによって生じた衝動的な感情――たとえば、嫉妬、だとか。


 そういうことなら、優一との約束なんて投げ出して、奈都はきっと彼の手を取るだろう。


 だけど。


 待て、と。冷静な自分が顔をのぞかせ言う。


 彼は優一の両親が用意したハニートラップなのかもしれない。惑わされるな、と。


 結局、完全に信じきれていないのは奈都も同じだ。


 周囲を欺いていると自覚している分、奈都の方が悪質かもしれない。


 だけど言わせてもらえるのなら、人に期待を持たせる振る舞いをする純誠も、たいがいたちが悪いのだ。


「……だったらあなたはどうなんですか?」


 本当はこんなことを言いたくはなかったが、感情よりも口が先に動いた。


「――“早く別れればいいのに”」


 思い当たる節があったのだろう、街灯に照らされた純誠の顔がはっきりと青白くなった。この人は本当に、心配になるくらいに表情が雄弁だ。


「空耳か、夢かと思ったんですが……その反応だと、本当に言ってたんですね……」


「それ、は……」


「言い訳は結構です。別に傷ついたわけじゃないから」


 傷ついたのではない。その逆だ。浅はかな期待をしてしまった。愚かにも。


「なんで、そんなことを言ったんですか……?」


 ずるいと思いながら、もし、彼が奈都の望む答えをくれたのなら、告白しようと思っていた。


 優一との本当の関係を。


 そして今の自分の気持ちを。


(わたしはたぶん、純誠さんが好きだ)


 さすがにもうごまかせない。


 彼を特別だと思うのも、疑いたくないと思うことも、すべて、彼を好きだからだ。


 人としてだけではなく、異性として惹かれている。


 これまでずっと気づかないふりをしていた。


 見ないようにして、自衛していた。


 恋なんてもう、こりごりだと思っていたから。


 だが、悔しいが、好きでなければこれほどショックを受けていないわけで、奈都は自分の気持ちを認め、向き合わざるを得なかった。



 ――嫉妬した。



 そう言ってほしい。


 しかし現実は残酷で、奈都の期待をあっさりと裏切って落胆させる。


 純誠は生真面目そうな顔をして言った。


「友人として、盗撮されて怯えるあなたを放っておく恋人に不信感を抱いただけです。そんな男とは、別れればいいのに……と」


 それだけです、と。


 彼はばっさり切り捨てた。


 単なる親切心からの言葉だと言い切った。


 つまりは奈都の独り相撲だったわけだが。


 よく考えれば純誠のような人が、取り立てて魅力のない奈都のことを好きになるはずがなかった。


 さっきまでのうぬぼれていた自分を穴に埋めて、一生出て来れないように漬物石でふさいでやりたい。


(痛いな、わたし……)


 だけど言い訳させてもらえるのなら、別れればいいのになんて言われて、想像する感情は好意か悪意かの二択ではないだろうか。


 まさか友人としての善意から生じたものだとは思いもしなかった。


 自分が痛い。痛々しい。奈都は胸を押さえた。


(遠回しにふられたんだよね、これ……)


 友人だと、改めて一線を引かれた。友情以外あり得ないと、暗に告げられた。


 気にかける友人ではあるが、女としては見られていなかった。


 そもそも純誠は、理世が言っていたようにモテないわけではないのだ。根が真面目なので恋人がいる(と思っている)女をわざわざ選ばないだろうし、人の恋人を横から奪い取ろうなどと考えるような倫理観が壊れた悪趣味な人間でもない。


 優しくされて、錯覚してしまったのだ。自分に好意があるのではないと。


(そんなはずないのに……嫌になる)


 この際、少なくとも優一との約束の期間を果たすまでの期間は、彼とは会わない方がいいのかもしれない。


 その頃には自分の気持ちにも区切りがついているだろう。


 もし彼がハニートラップならば、そのまま奈都の前から消えるだろう。


 仮にそうでなかったとしても、これまでのように友人関係を続けられるかどうかの自信がない。


 一度好きだと自覚してしまった以上、この先、友人としてどう接すればいいのかわからない。


 それならいっそ、まだ傷浅く引き返せるこの時点で自ら離れた方がいい。


 これ以上傷つく前に。


 これが見納めかもしれないと思うと切ないが、どうにもならなくなる前でよかったと言い聞かせながら、奈都は告げようとした。


 わたしたち、友人関係を解消しませんか――と。


 だがそのとき、空気を読まないスマホが、けたたましい音色を響かせた。


 無意識に張り詰めていた気持ちがわずかに揺らぎ、純誠をうかがいながら発信者の名前を見ずに電話に出た。間髪をいれず、向こう側から悲痛な叫び声。



「助けてっ、なっちゃんさんっ……! こ、殺される!!」



 尋常じゃない優一のその声に、奈都はこぼれんばかりに大きく目を見開いた。




空気を読まない男……

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