15
純誠視点
ユアステの第二シーズンの一話の途中で、まどろみかけていた奈都が純誠の肩にこてんと頭を乗せて来た。耳をすませば、すう、と穏やかな寝息が聞こえる。
顔にかかった髪を横に流し、そのまま数度頭を撫でた。自分は彼女に触れていい人間じゃないのにと、自嘲しながら。
仕事を終えて家に帰ると、理世が待っていて、他愛ない話のように最近誰かの視線を感じると純誠に話した。そんなことを兄に言うのはめずらしかったので、よほどのことかと焦り、詳しく聞き出せば、奈都にちゃんと純誠に相談しろと口酸っぱく言われたから一応、とおどけて答えた。
おそらく奈都の名前を出して純誠の反応を見たかっただけだろうが、きちんと理世を諭してくれた彼女には感謝しかない。
純誠はすぐに犯人の見当をつけ、電話で猛抗議した。
だが、電話口から返されたのは、思いがけない非難の言葉だった。
「最近、彼女に会いに行っていないらしいね」
「……仕事が忙しい」
苦し紛れにそう答えると、男は笑って言った。
「一度で飽きるほど、彼女の具合は悪かったのかい?」
彼女を愚弄するその下劣な発言に怒りがこみ上げたが、拳を握りしめどうにか押さえつけた。
(冷静になれ)
この男は純誠の思惑通りに彼女と関係を持ったと誤解している。それをぶち壊す愚はおかすなと、どうにか自分に言い聞かせた。
表面上は心を鎮めて、努めて冷静な口調で話を戻す。
「それと妹を見張ることと、なんの関係あるんだ。すぐにやめさせろ」
「やめてほしければ、ぐずぐずせずに今すぐ会いに行って完全に落として来るんだ。これは警告だよ。きみがやらないなら、わかっているだろう? 別の子に頼む」
おそらく、焦れて来ているのだろう。この男はやると言ったらやる。彼女が見も知らぬ男たちに傷つけられることを想像しただけでスマホを持つ手が震えた。
どんな顔をして会いに行けばいいかためらっていたのが間違いだった。
純誠の答えは決まっていた。迷う余地などない。
そして今、ここにいる。
彼女の隣に――。
「……早く別れればいいのに」
奈都が眠っているのをいいことに、そっと本音を吐露していた。
奈都と優一の関係さえ終わってしまえば、純誠はあのろくでもない男との縁が切れる。彼女だって、盗撮されて脅されるようなことをされずに済むのに。
だがそれは純誠の押しつけがましい希望であり、大切なのは奈都の気持ち、そして優一の気持ちだ。外野の純誠にとやかく言う権利はない。……はじめから。
自分の願望を押しつけるような行動を取ったら最後、やつと同等に成り下がる。あの男と同じに成り下がるくらいならば、この感情を永久に封印することに躊躇いはなかった。
ユアステのエンディングが流れた。
少しだけ成人男性を意識している描写もあるが、思っていたより泣けるいい話だった。彼女がハマるのもわかる。青春が懐かしくなるような、荒んだ大人には特に響く物語だった。
彼女たちくらいの年齢であれば、いっそ清々しいくらいに自分の信じる道へと突き進んで行けるのだろう。
いつの間にか責任やら義務やらを数えきれないくらいに背負って、世間にすれて輝きを失ったしまった自分には眩しいだけのアニメを止めて、純誠は奈都の体を抱え上げた。
相変わらず寝室は驚くほどユアステまみれだ。ものがあちこちに散乱しているわけではなく、むしろ整然とグッズが並べられているのに、目がチカチカする。見渡す限り、美少女ばかりだからだろうか。
まあ、美少年ばかりよりはましか、と純誠は小さく苦笑した。
女性の寝室に入った経験はそれなりにあるが、このタイプははじめてで、やはりまだ戸惑いの方が大きい。
ユアステグッズを除けば、奈都の部屋はオレンジ色のもので統一されている。最初こそオレンジ色が好きなのかと思ったが、ユアステを少しかじった今の純誠は、はっきりと自信を持って言える。この内装は、みのりんカラーを意識した結果なのだと。
それほど広くない寝室の片隅で、オレンジ色のサンドバッグまでもがインテリアのふりをしてぶら下がっているあたり、彼女の迷走具合がうかがえる。
おかげで妙な意識をすることもなく、健全な気持ちのままベッドに彼女を寝かせると、純誠は寝室を出てリビングへと戻った。淡いオレンジ色を基調とした花柄のカーテンを少し開け、外の様子をうかがう。
窓ガラスを激しく打ちつける雨粒のせいではっきりと見えないが、どこかに監視している者がいるのだろうか。いや、さすがにこの雨での張りこみは難しいだろうか。わからない。
純誠はいら立ちをまぎれに、乱暴にカーテンを元へと戻した。
事実がどうであれ、二度も部屋に泊まっておいて、なにもなかったと果たして証明できるものだろうか。
不安のせいで眠気はない。これで理世からは手を引いてくれるだろうが、奈都がまた脅されるかもしれないと思うと、気が気じゃなかった。
勢いで守ると言ったものの、具体的な策があるわけではないのだ。
(優一はなにをしているんだ)
理不尽にも彼女の恋人へ、怒りの矛先が向かう。彼は自分の彼女がこうして脅されていることを知っているのだろうか。
(彼女は……言わないだろうな)
奈都が自分から助けを求めるタイプとは思えなかった。
現にさっきだって、深く傷つき怯えているはずなのに、まず先に他人を思いやって、必死になって純誠に迷惑をかけないと訴えていた。
あのときの彼女があまりに健気で、たまらなくなって、気づいたときには抱きしめていた。
彼女に送りつけられた写真は、このための布石だったのだろう。彼女を怯えさせて、純誠が慰め、ふたりの仲がより深まるようにと余計な手を回したのだ。
そんな三文芝居のような筋書きに沿った行動を、素で取っている自分が滑稽に思えた。
あの男の思惑にはまっていると自覚しながらも、純誠の腕にすっぽりと収まるその体を、抱きしめて離したくはなかった。
この人を守らなければと改めて思いながらも、しょせん間男だろう、と蔑む自分がいる。
薄いドアを隔てただけの向こう側に彼女がいると思うと落ち着かないが、前回お世話になった毛布とクッションを借りて、ソファに横になる。少し足は出るものの、座面のやわらかさはちょうどいい。
ふとスマホを確認すると、理世から叱咤激励のメッセージが届いていた。
(人の気も知らないで……)
つい自宅にいる感覚でスマホをローテーブルに滑らせると、思いのほかよく滑り、卓上カレンダーにぶつかると、道連れにしてふたつとも無様にラグへと落ちた。そのカレンダーが一般的なカレンダーならば、さほど気にはならなかった。だが、ここは奈都の家で、もれなくユアステのカレンダー。オタクの心理はわからないものの、傷つけたらいけないものなのではと慌てて拾い上げた。
傷ついていないことに安堵しつつ、パラパラとめくって汚れを払っていると、来月の終わりに赤い丸がついていることに気づいた。
(誕生日……?)
奈都の個人情報にはほとんど目を通していなかったが、『なつ』と名づけるくらいなのだから、真夏生まれだと思っていた。
ならば優一の誕生日だろうか。
首をひねりつつ、カレンダーを元へと戻し、電気を消すと、純誠は毛布をかぶり、眠れるはずないと思いつつも無理やり眠りについた。
「ふーふふふ、ふん、ふふーふんふんっ!」
なにやら愉快な鼻歌が聞こえ、純誠はうめきながら抗議の意味で妹へと呼びかけた。
「うぅーん、理世?」
重たいまぶたをこじ開け上半身を持ち上げあたりを見回し、自宅でないことに思いいたったあたりで、キッチンでフライパン返し片手に見事なポーズを決めた奈都と目が合った。
「……」
ここはどこだろう。
一拍空けて、昨夜の記憶が戻る。奈都の家だ。
「……あ、お、おはようございます……」
純誠が黙ったままでいると、奈都は気まずそうにフライパン返しを下ろし、くるりと背を向けた。ポニーテールなので、あらわになっている耳が赤いのがよくわかった。
(……かわいい)
いや、だめだろう。純誠は顔を覆ってソファに逆戻りした。
年上の女性だ。いや、違う。そこじゃない。人の彼女だ。自分のではない。そう反芻する反面、このかわいい姿を優一も知っていると思うと、もやもやするのだからどうしようもない。
彼女のことは好ましく思っている。人として。それ以上でも以下でもない。そう自分に言い聞かせる。
たいしたものじゃないですが、と出された朝食は、前回のドライカレーと打って変わり和食。ほとんど作り置きですが、と前置きされたが、味噌汁と卵焼きは今作ったもののようだった。
わざわざ申し訳ないと思いつつ、空腹だったのでしっかり完食していた。
スーツも乾いていたので、昨日の服に着替える。正直、やっと解放されたという思いが強い。パンツは洗って返そう。いや、返さない方がいいのだろうか。オタクの心理は本当に、わからない。
雨は小降りだがまだ降っているらしく、玄関にあったビニール傘をひとつ、差し出された。そういえば昨夜は傘もささずに走って来たのだったと、ありがたくそれを受け取った。
それにしても……。
ビニール傘の多さが際立っている。コンビニに売っているようなビニール傘が傘立てに五本はあった。さらに普通の傘とユアステの傘を合わせると、もっとだ。
傘を忘れたときに雨に降られやすい体質なのだろうかと目で尋ねると、彼女は微笑んでごまかした。
「ビニール傘って意外と使い道があって、たくさんあるとなにかと便利なんですよ」
雨天時以外で使いどころがあるのか不明だが、多すぎて困っていないなら別にいい。純誠が口を出すことではない。
「ここで大丈夫です」
下まで見送りに来ようとした彼女に、すかさず断りを入れた。
どうせ彼女のアパートから出てくるところをまた撮影されるので、せめて彼女が写らないようにしておきたい。
「またなにかあれば遠慮なく話してください」
彼女はなにか言いたそうな顔をしていたが、結局なにも言わなかった。
それをいいことに純誠も深追いはしなかった。
振り付けはすべて完コピの奈都と優一