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「最近、妙な視線を感じるんですよね」
勤め先の向かいにあるコーヒーショップで新刊について熱く語り合っていた理世が、ふいに思い出したようにそう言った。
連日雨が続き、湿気で髪がうねるとうんざりとしながら理世は髪をいじる。もうさっきの発言を忘れているようだが、心配になった奈都はもう少し突っ込んで訊いてみた。
「それって、ストーカー? 警察に相談した方がいいんじゃない?」
理世はモデルのようなすらりとしたスタイルに、目鼻立ちのくっきりとした美人さんだ。とにかく人目につきやすい。現に今も、職場のガラスに張りついた充希が、獲物を狙う狼よろしく覗き見している。
「いやぁ、警察なんて事件が起こらないと動きませんよ。そんな大したことじゃないんです。ストーカーだと、なんらかのアクションがあるじゃないですか。陳腐な言葉で綴られた独りよがりな内容の手紙だとか、センスのかけらも感じられないプレゼントだとか、むだに歩調を合わせて恐怖を煽ってくる尾行だとか」
たとえがいちいち辛辣だ。そして笑顔が怖い。
「……そうなの? わたしはストーカーされたことがないからわからないけど」
「わたしもないですよ? そもそもわたしみたいに見た目も性格もきつく見えるタイプには、ストーカーなんて軟弱男寄って来ませんって」
理世はからからと笑う。
そういうものなのだろうか。
とはいえ理世が感じているという視線の正体が気になった。
現在進行形で奈都は尾行され、盗撮もされている。
もし奈都についている尾行者が、友人たちにまで魔の手を伸ばしているのだとしたら。それは奈都のせいということであり、早急に対処しなければならない案件だ。
理世に執着心を見せている充希の可能性も捨てきれないところだが……。
「だけどなにかあったら心配だから、おかしなことがあればすぐに教えてね? 純誠さんや亮太くんに、ちゃんと頼るんだよ?」
忠告する奈都に、理世はのんきに両手で頬杖をついてにこにこしている。
「わぁ、奈都さんがお姉さんみたいなことを言ってる。新鮮」
(人が本気で心配してるのに、この子は……)
危機感のなさに脱力する。
彼女は細かいことを気にするタイプではないので、その妙な視線に精神を削られたりはしていないのだろう。
純誠の苦労の一端が垣間見えた気がした。
「わたし、姉妹って憧れだったんですけど、よく考えたらお兄ちゃんの奥さんと仲よくなればいいんですよね。歴代の彼女たちにあんまりいい印象がなかったから、思いつきもしなかった」
彼は一体、どんな人とつき合って来たのだろうか。
たしかみんな、思ったのと違う、と言って離れて行ったのだったか。
「うちの兄、あれでなぜかモテるんですよね。まあ、見かけ倒しだけど」
「純誠さんがモテるのはよくわかる。いつでも優しいし、意外と気さくで全然気取ってないし、自分から謝れる人ってなかなか貴重だし、なにより紳士だし」
「紳士!? あはは、うちの兄の評価が想像以上にあまくてびっくり」
「あまい、かな?」
「極あまですよー、奈都さん。あれはただのヘタレです。ヘタレ。現に今日も誘ったのに、なんかひとりうじうじしてて、見ているこっちが呆れるくらい」
理世は肩をすくめてカフェオレを飲む。
やはり病気などではなく、奈都と顔を合わせづらいだけなのではと考えるのが正解な気がして来た。
(やっぱり例のことがバレてて、気まずいのかな……困ったな)
「事故とはいえ、好きでもない人にキスされちゃ、もう会いたくなくなるよね……」
ごふ、と理世がカフェオレを噴き出しかけた。変なところに入ったのか、むせてゴホゴホしだしたので、慌てて背中を撫でて水を勧めた。
「キ、キスって……」
「まだしゃべらない方が」
彼女は何度か咳払いして、気合で呼吸を整えた。奈都が席に戻ると、もう一度深呼吸してから、改めて尋ねてきた。
「キスって、兄から?」
「いや、その逆、かな?」
「嘘っ! 本当に!?」
「いや、事故だけどね? こう、顔面と顔面が激突」
奈都が両手を合わせてぶつかる仕草をするが、残念ながら理世は突っ伏してしまいまったく見ていない。
「騙されたー! お兄ちゃん、指一本触れなかったみたいな顔で帰って来たから! 絶対なにもなかったと思ったのに! このわたしが騙された、悔しい……」
「いや、お兄さん寝起きで気づいていなかったんだと」
理世ががばっと顔を上げた。
「奈都さん!」
「え、あ、はい」
「彼氏と別れて、お兄ちゃんを選んでください!」
「あー……」
いろいろ、間違っている。どこから訂正すればいいのかわからないほどに。
「亮太から聞きました。彼氏、冷たそうな人だったって。本当にそんな人、愛してるんですか? 実は脅されてて、無理やりつき合わされているんじゃないですか? それか、弱みを握られてるとか」
(いや、愛してない。脅されてもいない)
そもそもだ。
「あのね、理世ちゃん。わたし、純誠さんに、ひとっことも好きだなんて言われてないんだけど? そういう気配も感じたことがないし。だからそれ、理世ちゃんの勘違いじゃない?」
理世は口を開けて、またテーブルへと倒れた。
「お兄ちゃんが想像以上のヘタレだった!!」
ぐぬぬ、とうなっている理世を、隣の席の小さな女の子が不思議そうに見つめている。気づいた彼女が手をふると、少女もはにかみ小さな手をふり返した。かわいい。
さすが教育学部。ちょっとしたやり取りから子供好きなのが伝わってくる。
奈都が微笑ましく見つめていると、少女は視線に気づいたのか、こちらへと顔を向けた途端、びくりと肩を跳ねさせた。笑顔をこわばらせた少女は奈都と決して目を合わせることなく、そそくさとママの元へと引っ込んで行く。
「……」
ちょっと傷ついた胸を押さえていると、理世が不思議そうに言った。
「……そういえば奈都さんって、子供は寄って来ないですよね? 着ぐるみみたいに飛びつかれていそうなものだけど」
「それは嫌だなぁ」
子供に飛びつかれている自分がまったく想像できない。
理世の言う通り、奈都は小さな子供には好かれない。そして動物にもやはり、好かれないのだ。
「子供と動物は本能的に、危険を察知するのが得意だから……かな?」
「危険?」
奈都はにこりと微笑んだ。そんなことはどうでもいい。
「それよりも。妙な視線のこと、ちゃんと純誠さんに相談しなさいね。わかった?」
「……はーい」
ママみたい、というつぶやきが、無防備だったアラサーの胸にぐさりとつき刺さった。
しかし話を変えるための代償だと思えば、なんとか耐えられる痛みだった。
*
油断していた頃を見計らったかのように、郵便受けから宛名も差出人の名前もない怪しげな封筒がぽろりと出て来た。
見なかったことにしたいが、放置するわけにもいかないので、封筒を小脇に挟んで折り畳み傘を閉じ、玄関の鍵を開けた。
帰り際に降りはじめた雨で冷えた体をあたためてから、ひと息ついたところで、一応念のためにその白い封筒を開封しておいた。
やはりというべきか、優一に送られたものと同じで、出てきたのは奈都と純誠の写真が数枚。盗撮自体気味が悪いが、これも己の欲望が導いた結果だ。今さら複製原画は返せない。
優一に送っても無駄だったので、標的を変えて奈都に送ってきたのだろうか。
それとも、いつも見張っているぞ、という脅迫か。
こういうねちねちとした嫌がらせは地味に神経を使うので嫌いだ。
もっとこう、どーんと真っ向からぶつかって来い、とさえ思う。
それらをごみ箱にぽいっと捨てて、ふぅ、と嘆息をもらしたところで、チャイムが鳴った。こんな時間に来客はめずらしい。お隣さんが塩でも借りにきたのかと思いきや、のぞき穴から見えたのはここ数日姿を見せなかった純誠だった。しかもどこか切羽詰まった表情で、ドアを開けてさらに驚く。
「純誠さん!? びしょぬれじゃないですか! 早く入って!」
「いや、それは」
「だめ! 入って!」
純誠は逡巡した様子だったが、玄関先でごたごたしていては近所迷惑だと強引な屁理屈で説得すると、渋々中へと入って来た。
一直線にリビングへと向かおうとする彼を押しとどめて脱衣場へと押しこむ。
「風邪をひくといけないから、早くお風呂に入ってください!」
「いや、そういうわけには……」
面食らっている純誠に構わず、奈都はぴっと浴室を指差し、真顔で命じた。
「いいから、黙って、お風呂に、入りなさい」
逆らってはいけない空気を感じ取ったのか、純誠はぎこちなくうなずいた。
「わ、わかった……」
「よろしい」
奈都は踵を返し、急いでタオルやらTシャツやらを集めて脱衣場の籠へと置いた。男物の未使用のパンツがあったのは、ひとえに、推しのパンツを履きたいと願う同志たちの声が神に届いた奇跡だろう。グッズ収集が趣味な奈都も例にもれず、履けもしないパンツを所持していた。
奈都は優一と違い、自分のグッズを後生大事に保管しておくタイプじゃない。使ってこそなんぼだ。もちろん保存用があるからできることだが、コレクターとしては少数派かもしれない。
とはいえこれが誰か別の人だったら、大事なパンツは貸さなかっただろう。
純誠は特別。
その時点で自分の気持ちがわかるようなものだが、あくまでも友人として、奈都は意識しないように浴室へと声をかけた。
「着るもの用意しておきましたから! Tシャツとスウェット以外は未使用なので安心してください!」
「……あっ、ありがとう」
反応が遅かったので、湯船で寝ていたのかもしれない。起こしてしまったのなら申し訳ない。
純誠の着てきたスーツはとりあえずハンガーにかけておく。肌着類は洗濯機に入れた。
「次は……」
念のためご飯を用意しておこう。
奈都は冷蔵庫になにがあるか確認するためにキッチンへと向かった。
その顔には自然と笑みが広がっていた。
湿気は大敵