12
「せんぱーい。最近彼氏来ませんね」
奈都は暇そうにしている後輩を一瞥した。
「あのね、充希くん。人がいなくてもちゃんとお仕事してね? お給料もらってるんだから」
「えー? だって今、客いないじゃないですかー」
「客、じゃなくて、お客様」
充希は、はーいと間延びした返事をする。
見た目こそいたずら好きな猫のようだが、性格は子犬のように人懐っこい。
なので同年代のアルバイトの女の子はもちろんのこと、熟練のパートさんにまでかわいがられている、今ではこの書店のちょっとしたアイドルだ。
自分の容姿をよくわかった上で利用しているので、非常にあざとい。
誰にでもそのうるうるした上目遣いが通用すると思ったら大間違いだ。
「……」
まあ、悪い子ではないと思うが。
奈都もしっかりほだされていた。
「ねぇ、せんぱーい。いい加減、あの子紹介してくださいよー」
「あの子って?」
理世のことだとわかっていたが、とぼけてみると、背中をばーんと叩かれた。痛くはないが、先輩にすることではない。
「やだなーもう、わかってるじゃないですかぁー。先輩、もうボケがはじまってるんですか?」
奈都は頰がひくひく引きつるのを感じつつ、薄く微笑んだ。いくらなんでも、まだボケるには早い。
「それとも嫉妬ですか?」
にやにやする充希にひと泡吹かせたい気持ちだったが、話がややこしくなりそうなのでやめておいた。
「先輩を年寄り扱いする子に紹介する女の子はいません。だいたいね、理世ちゃんには彼氏がいるの。横恋慕しないの」
「あはは、先輩それ、本気で言ってます? 僕、知ってるんですよ、先輩が二股かけてること。バラしちゃってもいいんですかー?」
充希がにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
挑発に乗ったら負けだ。奈都はあえてなにも言わず、思わせぶりに微笑むと、くるりと背を向けた。
(さあ、仕事仕事)
充希がなにやらわーわー言っているが、無視して文具の補充をはじめた。
しかし人に仕事をしろと言っておきながら、奈都の心はここにあらず。
なぜならここしばらく、純誠が姿を見せなくなったからだ。
これまでほぼ毎日のように顔を合わせていたのに、あの日以来まったく会っていない。
(キスしちゃったの、バレたのかな……。やっぱり謝るべき?)
だがもし気づいていなかった場合、ただただ気まずいことになる。
(だけど会えないのは、寂しい……かも)
純誠の家は知っている。会いに行ったら迷惑だろうか。ストーカーみたいだろうか。
唇に触れながら悶々としていると、ジーンズのポケットに入れていたスマホが震えた。
ちらっと画面を見ると優一からのメッセージ。
――緊急事態発生!
その短い文を読んで、奈都は静かに瞠目した。
今にも雨が降りそうな曇天の空模様を表すかのように、いつものカフェの奥まったテーブル席は、重々しい空気が漂っていた。
「これはどういうことですか」
テーブルの上に置かれたのは数枚の写真。被写体は奈都……と純誠。場所は奈都のアパート前だった。ふたりが夜アパートに入っていくところから、朝出て行くところまで、ばっちりと写っている。
一晩中張っていたのか。ご苦労なことだ。奈都はどうでもいい点に感心していた。
「ご丁寧に日付と時間までわかるように印刷してくれたみたいで。これが今日、匿名で送られてきました。心当たりは?」
「あります、ね」
「浮気したんですか?」
「一線は超えていません!」
「どこぞの政治家みたいなことを言っている場合ですか!」
怒鳴られて、ひゃ、と奈都は肩をすぼめた。
「ご、ごめんなさい」
「許します」
「え?」いや、ちょっと。返しの早さについていけない。「……許すの?」
優雅に紅茶をすすっていた優一は、軽く小首を傾げた。
「許しますよ。なにもなかったんでしょう? これはそういうイベントですからね」
「あ、ああ、なるほど……」
これは、どこかで見ているかもしれない監視者に対してのパフォーマンス。これしきのことで別れないという、結束の固さを見せつけるためのイベントだったらしい。
(本気で怒ってるかと思った。焦った……)
優一はめずらしく俗物的な微笑みを浮かべて、テーブルを挟んで顔を寄せてくる。
「で? 実際はどこまで?」
「……聞きたいですか?」
思わせぶりに微笑んで見せると、彼は慌てて両耳を塞いだ。
「いや、やっぱりいいです! 友人のそういう話、聞きたくない」
「なにもしてないですから。…………ちょっと唇を奪ってしまっただけで」
「えぇ!?」
「耳塞いでたんじゃなかったんですか!」
「嫌ー! なっちゃんさんから襲いかかるだなんて! 破廉恥!」
「ちょ、襲ってなんか――」叫ぶ寸前で周囲を気にして小声にした。「ちょっと転んでうっかりキスしちゃっただけで……」
「おお……さすがなっちゃんさん。お約束を守ってきますね。少しピンボケてますが、たぶんなかなかのイケメンくんですし、ごちそうさまって感じですか」
「人を変態みたいに言わないでいただけますか」
奈都の言葉はまるっと無視して、優一は写真の純誠をしげしげ見つめたり、透かしたり、首をひねったりと、謎の行動をしている。
「どうかしましたか?」
「いや……こうしてちゃんと見ると、彼、どこかで見たことがあるような気がして……」
「ゆうちゃんさんが仕事関係趣味関係以外で、人の顔を覚えていることなんて、あるんですか?」
「ないですね」きっぱり宣言した。「……気のせいか」
諦めたのか飽きたのか、優一は写真をテーブルに放った。
「まあ彼が誰でも構いませんが、これで敵の仕掛けてきたハニートラップの相手がわかったわけだ」
写真をこつこつ指で叩く優一に、奈都はむっとして反論した。
「一晩一緒で、なにもされなかったんですよ? 寝落ちしたわたしをベッドまで運んでくれたみたいだし、彼がゆうちゃんさんの言うハニートラップだとしたら、今頃わたしの貞操は失われていたはずですが?」
「貞操って……。処女でもあるまいに」
優一がぼそりとつぶやく。
ドン引きしているが、自分こそ筋金入りの童貞だろう。
「それに寝落ちしたってことは、こっそりいかがわしい写真を撮られていても気づかなかったってことじゃないですか」
「わたしが処女か否かはさておき、なにかされてたらさすがに気づきます」
「本当になにもされていないんですか? それって、よっぽどなっちゃんさんに魅力がないか、本気かのどちらかじゃないですか」
奈都としても、それ以外の可能性を思いつかないだけに言葉に詰まった。本気かどうか以前にそういう関係ではないので、答えは残ったひとつ、魅力がないということになる。自覚はしているが、わずかな自尊心がえぐられてへこんだ。
「そもそもなんにもなかったって言いますけど、あなたたち、密室でなにをしていたんですか? 食事をしただけ?」
「ユアステのDVD観賞を少々」
奈都はすかさず答えた。思惑通りに優一は前のめりに食いついてきた。
そう。ユアステ好きに悪い人はいないのだ!
「えっ!? 彼もユアステイヤーですか? 推しは? 推しは誰ですか!!」
「ゆんちゃん」
「ああ〜! そうきたかぁー! たしかにゆんちゃんは癒し系でいいですよね。誰よりも庇護欲のそそる見た目と声と仕草なのに、実は正義感が強くてみんなの頼れるお姉さんという役どころとのギャップ! わかる、わかりますよ、ハニトラ氏!」
あくまで純誠はハニートラップらしい。そのネーミングセンスはいかがなものか。
「しかし、だとすると……そういう系がタイプなわけで……ふぅん」
優一が奈都を不躾に上から下までゆっくりと眺め、また、ふぅんともらした。
「なんなんですか」
「いいえ? なっちゃんさんはもう少し、自分自身を知るべきかな、と思ったまでです」
「ゆうちゃんさんよりは知ってると自負してますが」奈都のなにを知っているのだ。「それより、彼の疑いは晴れました?」
優一は写真を手に取り、また、うーん、と首を傾げたりしながらうなっている。まだいまいち信じきれていないようだ。もうひと押ししておくかというところで、彼は腕時計に目を落として、はぁ、とため息をついた。
「ひとまず、保留で。そろそろ戻らないと」
どうやらまだ仕事があるらしい。写真をしまい、必要経費なので優一が会計を済ましてふたりで喫茶店を出たところで、思わぬ人物に襲撃された。
いつもの勧誘かセールスかティッシュ配りのお姉さんかと思いきや、意外なことに理世の彼氏の亮太だった。
「奈都さん!」
忠犬のようにまっすぐ駆け寄ってきた彼は、しかし、奈都の隣に立つ優一に気づくと飛び上がって驚いた。
「――って、うわっ! とんでもないイケメンがいる!」
優一からの反応はもちろんなし。表情筋はぴくりとも動かない。
見た目詐欺な彼は筋金入りの人嫌いなので、仕事以外では愛想笑いすらしない徹底ぶり。会話しようと努力もしないので、基本的に気配を消して精巧な彫刻と化す。
それにくらりとくる女性がいることが不思議で仕方ない。
優一はやはり、口を開いてみのりん愛を語ってこその『ゆうちゃんさん』だ。
ただ綺麗なだけの置物に魅力などない。
一応これでも子供相手なのでマイルドな方なのだろうが、その差がわかる人はなかなかいない。
「えっ、え、この人、奈都さんの彼氏……?」
「あー……うん」
「実在したんだ!」
疑っていたのか。間違ってはいないが。
居心地悪そうにたたずんでいた優一は再び腕時計をちらりと見ると、よそよそしく言った。
「……じゃあ、僕はこれで」
人に恋人役を頼んでいるのだから、あまい声で囁くとか、別れ際にひそやかなアイコンタクトをするだとか、それなりに努力してほしい。無理なのは承知だが。
「なんか……冷たそうな人だね」
「……まあ、悪い人ではないよ」
闇は深いが、奈都や同志たちには優しい。でも親切かと問われれば、うーんという感じである。
亮太は雑踏に消えていく優一の後ろ姿を穴が開くくらいに見続けている。見られることに慣れている優一だが、見られることを好んでいるわけではない。奈都は亮太の意識をこちらへと向けさせた。
「亮太くんは学校帰り?」
それにしては全身ジャージで肩にかけられているのは大きめのスポーツバッグだ。
「え、あ、うん。今日は姉妹校との交流戦だったんだ」
「そうなんだ? なにをしてるの?」
優一の対応の悪さからまだ立ち直れていないのか、どことなくぼんやりとした口調で答えた。
「サッカー」
そういえば以前、理世が亮太は練習が忙しいと言っていたのを思い出した。サッカーだったのか。
奈都も球技は楽しくて好きだった記憶がある。遥か彼方に。
「いいな、楽しそう。わたしもこう見えてキックは得意な方なんだよ」
「え? えー……本当に?」
軽くボールを蹴る真似をしたら、ますます疑いの目に。
奈都は静かに足を下ろして微笑み、なかったことにした。
「あ、そうだ。これから理世ちゃん家に行ったりする?」
「えっ、あ、うん」
妙にそわそわとし出した亮太を訝しみつつ、さりげなく気になっていたことを訊いてみた。
「純誠さん、最近見かけないんだけど……元気?」
「じゅ、純兄!?」純誠の名前になぜか大げさに反応した。「え、えぇと……元気は、ない、かな?」
亮太はちらちらと奈都の様子をうかがって来るので小首をひねる。訊いてはいけないことだったのだろうか。
「純誠さん、もしかして病気なの? 大丈夫?」
「いや、病気は病気でも……の病っていうか……」
「え? ごめん、聞こえなかった」
「大丈夫! 俺が全力で励ますから! オールオッケーです!」
亮太が任せろとばかりに拳で胸を打った。励まして治る病なら、大したことないのかもしれない。
しかしなるほど。それで会いに来てくれなかったのか。ほっとして、すぐさまいやいやと首をふる。これではまるで、彼に恋い焦がれて会いたくてたまらない乙女みたいではないか。
ただ友人として、心配なだけ。それだけだ。他意はない。
「それなら、お大事にって言っておいてくれる?」
「わかった!! 早速、たった今得た情報を伝えてくる! まだ! まだ可能性はゼロじゃないって! ワンチャンあるって!」
「わんちゃん?」
のんびりした奈都の問いに答えることなく、亮太はスポーツバッグを上下に激しく揺らしながら忙しなく駆けて行ってしまった。
若い子はなにごとにも全力で大変そうだ。
だけどその忙しさがうらやましくもある。
前に走ったのはいつだっただろうかなとどと考えながら、奈都はすっかり鈍った足でとろとろ家路につくのだった。
充希(18) 好きなタイプは年上のお姉さん